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2010年1月30日 2006年に人工呼吸器停止腎摘出は中止、生前カテーテル挿入に転換
腎移植患者の39名のうち5名が移植後4日〜7ヵ月で死亡 長崎大ほか
2010年1月26日 法的「脳死」臓器移植レシピエントの死亡は累計46人
心臓移植患者が胃癌で死亡、肺移植患者3名死亡
2010年1月22日  木下教授 小児脳死判定は大きな間違いを侵す、中断を
佐藤・横田 自らの経験を隠蔽し脳血流検査の採用を推奨
荒木 あまりに脳血流に依存では脳死判定は難しい
日本脳死・脳蘇生学会がワークショップ
   

20100130

2006年に人工呼吸器停止腎摘出は中止、生前カテーテル挿入に転換
腎移植患者の39名のうち5名が移植後4日〜7ヵ月で死亡 長崎大ほか

 第43回日本臨床腎移植学会が2010年1月28日から30日まで高知市内で開催され、長崎大学から、長崎県下の「心停止」ドナーは2006年を境に、人工呼吸器停止後の腎臓摘出が皆無になり、替わって生前のカニュレーションが積極的に行なわれるようになったこと。39腎が移植されたが、実に23%(9例)が1年以上の生着が得られなかったこと、5例は移植から4日〜7ヵ月のうちに死亡していることを発表した。

出典=望月 保志、岩田 隆寿、酒井 英樹(長崎大学病院泌尿器科)、錦戸 雅春(同血液浄化療法部)、松屋 福蔵、林 幹男(国立病院機構長崎医療センター泌尿器科)、竹田 昭子(長崎県移植コーディネーター):心停止献腎移植の現況 最近の献腎移植には苦労しています、腎移植症例集2010(日本医学館)、p214〜p217

 2002年〜09年の8年間の長崎県における献腎提供数は20例あり、すべて心停止下の提供、ドナーの死因は内因性15例、外因性5例(検視4例)であり、内因性が多い。ドナー年齢は20歳代2例、30歳代2例、40歳代3例、50歳代8例、60歳代が4例、70歳代が1例であり、50歳代が比較的多かった。
 臨床的脳死診断ありが18例、なしが2例。レスピレーターオフが18例中20例(90%)、昇圧剤オフが20例中16例(65%)、心停止前カニュレーションが20例中6例(30%)であった。
 2005年以前はレスピレーターオフ症例が多く、心停止前カニュレーション症例はゼロであったが、2006年以降はレスピレーターオフ症例が皆無となり、心停止前カニュレーションを積極的に行なうようになった。レスピレーターオフ症例の減少かつ心停止前カニュレーション症例の増加に伴い、2005年以前の待機日数は1〜2日、2006年以降の待機日数は2〜11日と明らかに延長した(図)。

図 待機日数とレスピレーターオフ/昇圧剤オフ/心停止前カニュレーション

西暦 2002 2003 2004 2005 2006 2007 2008 2009
待機日数 11
レスピレーターオフ                        
昇圧剤オフ              
心停止前カニュレーション                            

 摘出腎40腎のうち39腎を移植、機能発現が34腎(87%)であり、機能非発現が5例(13%)あった。機能発現34腎のうち、生着は30腎であり、他は死亡2例、廃絶2例であった。機能非発現5例のうち1例が死亡しており、のこり4例がいわゆるprimary non function(PNF)であった。結果としてフォローアップ期間のうち、実に39例中9例(23%)が生着に至らず、いずれも1年以内に死亡あるいは廃絶であった(表)。

表 1年以上生着を得られなかった症例(9例)

症例 移植時期 予後
(死亡時期・
廃絶理由)
臨床的
脳死診断
人工呼吸器
オフ
昇圧剤
オフ
心停止前
カニュレーション
ドナーの摘出前
S-Cr(mg/dL)
温阻血
時間(分)
透析歴
2003 死亡
(5ヵ月後)
死亡時腎臓は機能
- - + - 1.93 19 27.8
2005 死亡
4日目
+ - - + 0.90 61 14.6
2005 死亡
(7ヵ月後)
+ - + + 1.80 25.7
2007 死亡
(4ヵ月)
死亡時腎臓は機能
+ - - - 0.90 19 17.1
2008 死亡
(7ヵ月)
+ - + + 4.11 10.4
2003 機能発現なし
(拒絶反応)
+ + + -   17 20.1
2005 機能発現なし
(PNF)
+ - - + 0.90 61 11.4
2005 機能発現なし
(動脈血栓症)
- - - -   13 17.2
2007 機能発現なし
(PNF)
+ - - - 0.90 19 24.3

当Web注

  1. 第43回日本臨床腎移植学会では、高知市病院企業団立高知医療センターからも、生体腎移植後3日目に脳出血で死亡した50代女性例が発表された(腎移植症例集2010 p295〜297)が、透析歴の記載がない。
     

  2. 太田らは、人工呼吸器の停止も、心停止からの臓器摘出目的のカテーテル挿入も脳死臓器摘出と認識して、日本移植学会雑誌「移植」第25巻第4号に発表した。
     

  3. 錦戸らは、西日本泌尿器科65巻5号(p259〜p264、2003年)において、1983年より2001年までに長崎大学および国立病院長崎医療センターによって摘出された心臓死下献腎ドナー56例について、「病室でレスピレータをオフしてもらっている。ドナー主治医には十分な輸液と血圧、尿量の確保を御願いした。レスピレーターオフから心停止までの平均時間は11.6分(2〜25分)。(カテーテル挿入による下肢の変色など)ドナーの家族、ドナー主治医に配慮して心停止前カニュレーションは行なってこなかった。結果として温阻血時間は18.6分、(移植後)平均透析日数も16.6日と長かった。しかし生着率は国内の他施設と同等の成績でありレスピレーターをオフすることによってより死戦期のダメージは少なく、腎摘出のタイミングもうまくはかれたことが原因と考える」と報告していた。

 


20100126

法的「脳死」臓器移植レシピエントの死亡は累計46人
心臓移植患者が胃癌で死亡、肺移植患者3名死亡

 日本臓器移植ネットワークは、1月26日更新の脳死での臓器提供ページで死亡した臓器移植患者数は累計 46名になったことを表示した。前回、死亡データを更新した2009年11月24日から2ヵ月間で、心臓移植患者の死亡が1名増加、肺移植患者 の死亡が3名増加した。

 許 俊鋭(東京大学大学院医学系研究科 重症心不全開発講座):心臓移植、日本臨床、68(10)、2271−2276、2010によると、死亡した心臓移植患者は、移植後10年以上経過しており、悪性腫瘍による死亡と見込まれる。西垣 和彦(岐阜大学医学部付属病院第2内科、日本循環器学会心臓移植委員会幹事):心臓移植の現状と展望、日本臨床(増刊号冠動脈疾患 上)、651− 660、2011は、胃癌と記載している。

 日本心臓移植研究会:本邦心臓登録報告、移植、46(4)、537−541、2011は、110例のレシピエントのうち「死亡例は5例で、死因は多臓器不全、誤嚥性肺炎、感染症、胃癌、腎不全であった」とし、「図13 心臓移植の累積生存率」は、移植後1年前後で2名が死亡、4年超で1名死亡、11年前後で2名が死亡したことを記載した。
 澤 芳樹(大阪大学):重症心不全に対する集学的治療、人工臓器、41(1)、31−36、2012(http://www.jsao.org/image/custom/pdf/41_1PDF/41_31.pdf)は、「当大学においてはこれまで1999年の第1例目より30例の脳死心臓移植を施行した」「30例中2例を3ヵ月目と4ヵ月目に感染症で、1例目を11年目に腎不全で、1例を11年目に悪性腫瘍で失った」としており、今回の死亡例は大阪大学医学部付属病院で心臓移植を受けた患者と見込まれる。

 村岡 孝幸(岡山大学腫瘍・胸部外科):肺移植後に発症した空腸悪性リンパ腫の一例、日本癌治療学会誌、45(2)、880、2010は、22歳時に脳死両肺移植を受け、移植後に免疫抑制剤タクロムリスを投与されていた男性患者が6ヵ月後に小腸悪性リンパ腫を発症、空腸部分と回盲部の切除後に腎不全と肺炎を併発し52日目に永眠したことを報告している。この死亡した患者が岡山大学病院で両肺移植を受けた患者ならば、2003年9月11日の法的脳死25例目、あるいは2007年2月12日の法的脳死52例目、あるいは2008年7月2日の法的脳死72例目から両肺提供を受けた患者と見込まれる。

 これまでの臓器別の法的「脳死」移植レシピエントの死亡情報は、臓器移植死ページに掲載。

 


20100122

木下教授 小児脳死判定は大きな間違いを侵す、中断を
佐藤・横田 自らの経験を隠蔽し脳血流検査の採用を推奨
荒木 あまりに脳血流に依存では脳死判定は難しい
日本脳死・脳蘇生学会がワークショップ

 日本脳死・脳蘇生学会 将来計画検討委員会の主催で2010年1月22日、東京ガーデンパレスにおいて「改正臓器移植法に伴う臓器提供施設における諸問題についてのワークショップ」が開催された。

 2007年に日本脳死・脳蘇生学会のワークショップで「脳死判定は主観的、残存薬物問題で脳死判定に自信を失いました」と公言した熊本大学の木下教授は、今回は脳死判定に画像診断と脳循環検査の追加を主張した。残存薬物問題については「これは何とか解決しなければならない課題と思っております」と述べるに留まった。

 木下教授は阪大における脳死判定した小児の蘇生例をとりあげ、総合討論では「ぜひ言いたいことは,6歳未満の小児に関しては,いくら改正臓器移植法で認められたといっても,このままで突き進まれたのでは,われわれは大きな間違いを侵す可能性を含んでいると思うので,とりあえず一時中断して,もうちょっときちっとしないとだめだと思います。なんでそういうことを言うかというと,長期の症例を全然解決できていなくて,その方が脳機能不全で亡くなったのか,300日目の合併症で亡くなったのかも分からないような状態であるということになると,それはやはり責任をもてない」と発言した。

 総合討論では、脳血流停止所見がありながら脳波や自発呼吸、聴性脳幹反応による脳機能、頭蓋内血流の存在を経験したとみられる佐藤は、自らの経験を隠して脳血管撮影の採用を推奨した。横田も、PETを医学的根拠無く憶測で推奨した。横田とともに脳血流停止所見を得た後に自発呼吸の症例を経験した国立成育医療センターの荒木だけが「日本の脳死判定というのを考えていく上でも,あまりに脳血流に依存したかたちだけでも難しい部分はあるんじゃないか」と良識を示した。

 以下は日本脳死・脳蘇生学会機関誌「脳死・脳蘇生」22巻第3号p167〜211より、木下氏の「脳死判定(竹内基準)の前提条件と判定項目の問題点」と「総合討論」の主要部分。

脳死判定(竹内基準)の前提条件と判定項目の問題点
木下 順弘(熊本大学大学院医学薬学研究部侵襲制御医学)

(前略)
 日本の脳死判定基準は,竹内基準が初めてではありません。先生方はよくご存じのように,1976年,日本脳波学会の脳死判定基準というのが,その当時の卓見だと言われております。判定項目は,深昏睡,瞳孔散大,対光反射と角膜反射の消失,自発呼吸の停止,急激な血圧低下,平坦脳波,それから参考条件としての脳血管撮影上の脳循環停止ということで,非常に素晴らしい内容だと思います。
(中略)
 それに引き続きまして,皆さんご存じのように1985年,今から25年前になりますが,現在厚生省判定基準となっておりますが,竹内基準が公表されました。ここでの大きな考え方の違いというか,変更点は,二次性の病変にも判定が加えられたことと,観察時間を6時
間という間隔で行うということ,それ以外の判定項目に関しては後にご説明させていただきます。

(中略)

 竹内先生の基準に対しては,皆さんもよくご存じと思いますが,さまざまな批判が向けられております。そもそも判定基準の骨格となった症例自体に科学的な裏づけが乏しいのではないかということが言われ,脳死と見なされた症例が本当に脳死だったのかどうかというような疑問点,それから後にお話しますが,脳血流検査は,日本脳波学会の基準では入っていたのを必要ないというかたちにされたこと。それから,立花隆さんの本の中にも書いてありますが,それぞれの判定項目というのは必要条件であって,決して脳死の十分条件ではない。必要条件をたくさん組み合わせることによって,誤診の確率を低めただけで,最終的に十分な条件である項目は一つもない,というようなことで批判をされております。
 もう一つは,竹内先生ご自身も,最初そのつもりだったのだろうと思うんですが,竹内基準のそもそも論は,治療方針の変更に対する決定,いわゆるポイント・オブ・ノーリターンと良く言われます。これ以上積極的な治療をするのは控えたほうがいいという判断の基準であったはずです。その後,日本の臓器移植の法律の流れにしたがって,おそらく脳死臨調の中で彼が後ろからどんどんと背中を押されて,いつの間にか彼の基準が生死の判定基準になってしまったのだろうと思います。これはご本人にとっても,不幸なことではないかなと私自身は思っています。
 他の批判としては,脳死は誰にでも理解できると言われながら専門医が2人以上で判定に当たらなければいけないとか,あるいは脳死は目に見えないとよく言われますが,目に見える根拠には非常に乏しいということ。唯一,患者さんのご家族に示されるものは平坦脳波だけであります。
 そういうことで私自身,竹内先生の脳死判定基準はもうすでに完成され,普遍不滅で変更できないものではなく,むしろ,これを機に何らかの修正が加えられるべきだというつもりで,今日はお話をさせていただきます。

 そんなに問題がある竹内基準でありながら,これまで竹内基準を用いてきて,脳死判定を行って,何ら問題が生じていません。これは私自身の考えでは,実は竹内基準の中で,医学的な脳死でない症例も一部含まれていたかもしれませんが,法的脳死判定を実施するに当たっては,上の黒い影で示したような,ちょっと怪しげな症例に関しては,相当慎重な対応とか,あるいは経過やその他の補助的な判断を考慮した上で,危ないものはちょっと外して,確実なもので脳死判定を行ってきたことが破綻を起こさなかったところであって,基準が素晴らしかったのではないんじゃないか。失礼ながらそう思っております。
 それでこの判定基準の問題点をそれぞれの内容に関して,私自身の意見を述べさせていただきたいと思います。

(中略)

 脳死判定対象となる症例に関しては,脳死に類似した状態の人がいて,そのうち今の条件に当てはまるものを判定の対象,竹内先生はそれを前提条件と呼んでいらっしゃる。それ以外の症例の中で,脳死に見まがうような特殊な事例を除外例として挙げて,これは判定の対象からは外したほうがいいんじゃないかということになります。
 除外例に関しては,この4つの要件が挙がっております(6歳未満の小児、急性薬物中毒、低体温、代謝・内分泌障害)。小児に関しては,法の改正とともに小児も含まれますので,少しあとの話にさせていただいて,残りの3つに関して私の意見を申し述べさせていただきます。
 急性中毒は判定の対象から除外すると書いてありまして,急性中毒に限らず,脳死判定をしてみると,残存薬物の影響があるのではないかという報告がいくつかあります。特に私自身が非常に気になりましたのは,法医学の先生からの2つの論文で,治療上,ペントバルビタールを投与された症例に関しては,脳中の濃度が血中濃度より7倍高かったということが報告されたり(斎藤 剛:脳死判定に及ぼす生前の薬物投与の影響について、日本法医学雑誌、48(補冊)、93、1994),ジアゼパムの濃度がやはり7倍ぐらい高かったというような報告(實渕 成美:頭蓋内出血から脳死を経過したと考えられる小児の体内薬物分布、 日本法医学雑誌、51(2)、181、1997)がされたりして,これは解剖例ですが,その薬剤の影響が脳死の判定に何らかの要因になったのではないかという批判もあり得ると思います。私自身はこの現象は,むしろ脳血流がどこかで途絶したがために,薬物がウォッシュアウトされずに脳組織に置き去りにされたのではないかなというふうにも考えております。ただ,これは何とか解決しなければならない課題と思っております。
 次に急性薬物中毒に関しましては,医薬品としてわれわれが使用するものと,一般の中毒物質とは分けて考えたほうがいいのではないか。右側のもの(その他の中毒物質)は,場合によっては過量であれば脳死になるかもしれないと思われるものです。
 まずわれわれが通常治療のために使用している薬剤の影響に関して言うと,これは除外項目である急性中毒とは厳に区別すべきだと思っております。もちろん常用量として使用するような麻酔薬,鎮静薬,鎮痛薬は脳死に類似するほどの適量投与をいたしません。唯一高用量のバルビツレートに関しては,やはり注意が必要なのではないかなと思っています。本当の薬物中毒とか,急性中毒というのは,入院前に,過量に摂取した薬物,毒物の影響が疑われる症例に関しては,やはり当該薬物の影響が否定できない期間は脳死診断を行わないほうがいいでしょうし。判定の前には当該物質とその代謝物を含んで,できることなら血中濃度も測定したほうがいいでしょう。さらに画像診断,脳循環検査,誘発電位等々の補助検査を駆使して脳死の診断がようやく可能になるのではないかなと。ただし法的な脳死判定をやるのがいいのかどうかは今後検討したほうがいいと思います。
(中略)
 ということで,私自身が考えます脳死の診断というのは,先ほどの繰り返しになりますが,脳死に類似した症例の中で,竹内先生たちが前提条件と言われたいわゆる判定の対象と,除外したほうがいいものがありまして,法的脳死判定に関してはこれをきちっと守り,治療手段の変更だとか予後予測のための医学的な脳死の診断であれば,除外例の一部も,たとえば多臓器不全で脳出血で,脳死かもしれないというようなものも,証拠があれば診断の対象に加えてもいいのではないかと思っております。

 次に脳幹反射の項目に関してお話させていただきます。脳幹反射は脳幹機能の停止を判断する上で,7項目をチェックすることになっておりますが,皆さんもご存じのとおり,言うまでもなく反射ですので,受容器,求心路,神経核,中枢,遠心路,効果器,このすべてのパートが機能しなければ,どこで回路が切断していても反射は消失することになりますので,必ずしも神経中枢の機能不全だというふうには断定はできません。竹内先生らは中脳から延髄に至る脳幹について,頭側から尾側に向かって系統的に検査できるというふうに胸を張っておっしやっていますが,実際問題としてこの7つの脳幹反射の反射弓は,眼球頭反射と前庭反射はほぼ同じですし,咽頭反射と咳反射もほぼ同じです。また中枢も非常に近接している反射があります。このようなことで7つやれば5つより素晴らしいというようなことはちょっと言えないのではないか。各国の脳幹反射の取り扱いも,これも竹内先生からの資料ですが,成人の場合が向かって左側,小児の場合向かって右側ですが,少なくとも,毛様体脊髄反射などのすでに瞳孔散大している症例に,さらに瞳孔を散大するかどうかをチェックするような無意味な脳幹反射は必要ないのではないかと思います。各国の判定基準を見ても,毛様体脊髄反射を加えている国はほとんどありません。
 私自身の提案としては,脳幹反射は必要だとは思いますが,4つぐらいに整理して,たとえば眼球頭反射は顕髄損傷の時には実施できないので,その場合には前庭反射で代用するなどの方法で十分ではないかなと。毛様体脊髄反射は不要だと思います。
 さらに,後に横田先生がご発表になりますが,脳幹機能評価のためにはやはり誘発電位のような電気的な検査を加えるべきだと思います。

 脳波検査に関しては,30分以上4導出で,私自身大きな異議はありません。ただ,これも必要条件であって,その後脳波が復活しないということを誰も断定することはできないと思います。

 無呼吸試験に問しても同じですが,方法論に異議はありませんが,呼吸器の専門学会からは,高炭酸ガスの刺激のみではなく,低酸素の刺激も加える必要があるというようなご意見も頂戴しておりますが,安全性の問題もあると思います。むしろ,私は個人的にはアトロピン試験というのをもう一度考え直したらいいのではないか。
 救急医学会関東地方会の症例(呼吸停止と深昏睡をきたしながら脳死を否定された1例、日本救急医学会関東地方会雑誌、8(2)、524―525、1987)でもアトロピン試験のみに反応した症例に関しては,無呼吸試験中に呼吸様運動が出ておりますし,下の救急医学会雑誌の症例(孤立性脳幹死と鑑別が困難であった最重症脳幹障害の1例、日本救急医学会雑誌、6(3)、256−258、1995)でも同じようにアトロピン試験に反応し,無呼吸試験で呼吸が確認されました。こういうことを考えますと,アトロピン試験をすることによって無呼吸試験まで負荷しなくても,脳死を否定できる証拠になるのではないかと思っております。

 最後に6時間間隔での再評価について述べます。脳死判定上の疑義解釈に関する研究という竹内先生の報告書の中で,脳死判定で2回の検査を行う意味は,不可逆性の確認と判定の間違いを避けるためだと書いていますが,逆にある時のインタビューでは,臨床で観察された脳機能消失が永続的であるかどうかに関しては,経験的蓄積をもって証拠とせざるを得ない,このことは経験ある臨床家であれば容易に理解できると回答されていて,まるで素人をばかにしたような内容だと批判されています。つまり,不可逆的な機能喪失であるがどうかを裏付けることはできないと言ってもいいと思います。

 補助検査に関しては,後に横田先生がご発表になりますのでごく簡単に触れさせていただきますが,最初にお示ししたような事例で長時間にわたる脳循環停止があれば,間違いなく脳神経細胞の大部分が死滅し,その時点で脳死かあるいはいずれ脳死が完成するということに関しては皆さんもご異議はないと思います。したがいまして,やはりこの学会でもたくさんの報告がされておりますが,脳血流の停止というのは,特に疑わしい症例に関しては,評価の必要があるのではないかなと。竹内先生たちはいろいろな理屈をつけて必要ないと言われていますが,私自身はやはりたとえばSPECTのような検査とか,最新のいろいろな脳循環検査を駆使してでも,できることなら評価をすべきなのではないかなと思っています。逆に脳循環が正常に近い症例があったとしたら,それは早過ぎる脳死判定かもしれませんし,あるいは脳死に類似する薬物やその他の原因を見逃してはいないか,つまり除外例とすべきものを判定してしまってはいないか,稀にはそういう症例があって,フォールスネガティブということがある。つまり,脳死だけど脳循環が証明できるという症例があるかもしれませんが,そのような症例に関してはより慎重に長期の観察が必要だと思います。

 ここに示した大阪大学からの報告の症例では(視床下部−下垂体系機能の残存を認めた脳死状態の1乳児例、日本救急医学会雑誌、2(4)、744−745、1991),小児ですが,ほぼ正常な脳循環を認め,脳死徴候を満たしていた43日目に自発呼吸が出現したというふうに言われておりますので,やはり脳循環が正常に近ければ脳死判定項目を満たしていても,長期の観察による慎重な対応というのが必要だろうと思います。
(中略)
 加えて小児の場合は,先ほど申しましたような長期の脳死後の心停止に至る期間が長い症例があります。生存という言葉は適切ではないのかもしれません。300日以上という症例があります。したがいまして,小児の脳死判定に関しては,本当に24時間でいいのかという不可逆性の判断に関しては,よりいっそう慎重に再考するのが適切なのではないかと私自身は思っております。

 さて,人の悪口を言うのではなくて,実際にどういうふうにすべきなのかというのを自分自身で考えてみました。
 臓器移植が法律の改正後行われるようになって,臓器提供の前提としての脳死判定がいろいろとマスコミを賑あわせ,その手順や結果の不備がいろいろと追求材料になり,病院はその辻棲合わせに奮闘したり,あるいはお上にお伺いを立てて御用学者の言いなりになったりということで,脳死がいわゆる医学的,科学的な課題から,行政のものになってしまったという批判もあります(当Web注:スライドのタイトルは“21世紀は脳死研究の暗黒時代”)。これではやはりいけないと思います。また脳死は見えない死ということで,このように病理学的に融解が起こるまで,脳死を診断できない,解剖してみなければ分からない,ということでも困ると思います。
 そこでまず一つの提案としましては,脳死の診断にはやはり脳死と思われた後の頭部CTをきちんと義務付けて,そのCT所見をもとにその他の判断を始めるべきではないか。やはり脳死に画像診断は必要であり,竹内先生がおっしゃっているように,昏睡に陥った脳病変の原因診断,たとえば脳出血だとかくも膜下出血だというのを決めるためではなくて,その状態が脳死かどうかを考えるための画像診断をよりいっそう重視すべきであると思います。その根拠は,頭部CTは原疾患の特定のためではなくて,脳死かどうかを判断する前提とすべきです。
 たとえばここに2例の脳死を疑われる症例が・ありますが,臨床経過やCT所見は言いませんので,皆さんが判定だけをしてどちらが脳死か決めてくださいと言われたら,われわれは自信をもって言えるでしょうか。1例が左のよう,もう1例が右のようであったということが,それぞれの症例の脳死判定項目から自信をもって鑑別できるでしょうか。おそらく先生方もできないと思います。私自身はとてもやる自信はありません。したがって画像診断はぜひ行うべきだと思います。
 さらに脳死は見えない死と言われています。やはり一般の方々にとっては,それをできるだけ見える死に示していかなければいけない。そのためにも,正常のCTと脳死になった後のCTをご家族に提示したり,脳循環検査の結果を提示したり,誘発電位の結果をご説明したりして,少しでも納得しやすい診断に改善すべきだと思います。脳死判定医が主観的に見た項目の結果だけを述べるのでは納得してもらい難いのではないかと思います。

 ということで,次のような提案をさせていただきます。要点としては画像診断(CT)を加えたほうがいい。それから誘発電位も加えたほ
うがいい。それから必要な脳循環検査も行ったほうがいいだろうということ。それからアトロピン試験にももう一度着目したらどうかと思っています。私自身は6時間後の再検査というのは本当に必要なのか疑問をもっています。脳死の診断は臓器提供のためだけかというと決してそうではなくて,本来治療方針の決定であったと思います。したがって,脳死が疑われた場合には,適切に,なるべく早期に診断されなければなりません。
 本人の意思が尊重されるべきですが,脳死の診断という医学的事実が,臓器提供の有無で変更されたり,歪められることがあってはなりません。
 したがって私はこのように考えます。脳死の疑診をもつ症例に関する取り扱いですが,超重症の脳障害の場合に,新しい脳死診断のクライテリアを設け,それを満たしたものは終末期医療の対象,診断がつかなかったものに対しては治療を継続し,さらにその終末期医療の中で家族や本人が望むのであれば,そのような症例に関して法的脳死判定を受けて,脳死で死亡とし,臓器提供をされればいい。それ以外のものに対しては,通常の縮小医療を行って,心停止で死亡とされるのが適当なのではないでしょうか。さらに予後診断のための脳死診断に対しては,脳死という言葉を用いずに,何らかの別の表現,たとえば不可逆的な脳機能不全の診断基準等,脳死という言葉と予後診断という言葉をきちんと分離して,混同して使用されないようにする。ここを臨床的脳死と言ってしまうと,また訳が分からなくなってしまうのではないかなと。新しい言葉を作ったほうがいいのではないかなというのが一つの提案であります。
 最後に,脳死状態はより正確で客観的に診断する方法を研究すべきであり,ここ30年の医学の進歩を真摯に取り入れるべきであると思います。現行の脳死判定基準は決して完成された不変の基準ではないと思います。われわれ専門医は未解決の問題を真摯に検討し,必要に応じて適宜改善すべきと提案します。以上です。

(中略)

堤:埼玉医大の救命センターの堤です。先生の発表に8割5分ぐらい同意なんですが,脳死判定基準が厚生省基準として認定されたその時代から,こういう医学的な疑問というのがあったんですよね。それがわれわれの純粋な医学的な意見が押し潰されて,あれが通っていったというそのこと自体が行政側の問題であり,学会側の問題でもあるような気がするんですよ。先生は何が原因だったと思いますか?今日ここまでわれわれの純粋な医学的な報告を無視して突き進んでいったというのは。そこを解決しないと,今回の臓器移植法改正のところでも,同じ間違いを繰り返すんじゃないかと私は理解していますが。

木下:私もその意見に賛成です。ただ竹内先生個人の責任ではないと思います。おそらくは日本の臓器移植法を早く成立させるための何らかの目に見えぬ力,たとえば脳死臨調の委員の意見だとか,そういうものが竹内先生が本来予後予測として作った判定基準を生死の判定基準に変えてしまったというところから,このつまずき,ボタンの掛け違いが始まっているのではないでしょうか。そういう意味では,行政と行政から諮問された委員会の人たちの責任が大きいんじゃないかなと思っています。だからこのタイミングで,われわれはきちんと声を挙げるべきである,それしかないのではないかと思いました。(後略)

 

総合討論

杉本:(中略)第2部ですが,進め方としまして,まず脳死判定ということに関して討論していきたいと思うんですが,これは明確に分けてやっといたほうがいいんじゃないかと思います。
 一つはサイエンスの対象として脳死というものをどういうふうに判定してどうするかという問題と,もう一つは臓器移植,提供という問題です。サイエンスとして病態解析をする時には脳死というものはこうですということを決めておこうという問題の整理をすることと,もう一つは,実際にその臓器を提供するんだと,臓器提供を対象とした時の,これはやや社会的な問題も含まれてきますから,そこは少し分けてディスカッションしていただきたいと思います。
 もう一つは基本的な脳死,これはあくまでも日本でとらえる場合もそうでしょうけれども,全脳死というかたちでやっているということは共通の理解にしておいていただきたいと思います。そしてその中で,一つは全脳機能の停止をどう判定するのか,診断するのかという問題と,それが不可逆的であると,要するに回復しないということをどういうふうに担保するのかという問題。これはやはり整理しておく必要があるかと思うんですね。(後略)

奥寺:では,早速お話を進めたいと思います。いま受付で聞いてまいりましたら,本日の参加者は101名で,うち51名が医師であります。21名は看護師,おそらく院内コーディネーターといった方もお見えかと思います。あとは移植ネットワーク,臓器対策課のような方が15名お見えで,あとはマスコミの方が13名お見えであります。こういう風景の中でこれから話し合いをするんだということを,少しご理解ください。
 最初に,いま杉本先生よりおまとめいただいたとおりでありますが,まずメディカルサイエンスの部分をこれから話し含っていきたいと思います。最初の課題といたしまして,全脳死は一つのコンセプトとしてみんなでアクセプトしているわけですけれども,全脳機能停止というのをどうやって見るかという話になると思います。

(中略)

川嶋:全脳死は定義が非常にあいまいなので,それでみんな考えることが変わってくると思うんですけれども,機能的な元に戻らないということであれば,いかなるメカニカルサポートによっても,いずれ心臓停止が来るような状態とか,明確なものがあればいいと思うんですけれども,そこまで踏み込んだものがないので混乱してしまうと思うんですね。たとえば脳の脳幹の一部が生きてたとしても,やはり助からないじゃないですか。だけど実際脳幹の一部が生きているかどうかも分からないのが本当ではないかと思います。たぶんそれはもうすぐに解剖しないと分からないと思いますので,不可逆的な全脳死の定義というものをみんなが納得するようなものに作っていただければと思います。

(中略)

有賀:私たちが携わっている西洋医学の,そういう文脈で話すかぎり,おそらく最終的には病理診断ということになるでしょう。ですからレシピエーターブレインが脳死だというふうな理解で,理解が難しい人にとっては,それがいちばん分かりやすい言い方だと思います。これはある病理の先生がパーソナルコネクションでメールをくれたんですけれども,こんなにぐちゃぐちゃになるまで,臨床医は診ているのかという質問があるんですね。
 診ているのかといったって,結果的にそうなったんだから,それはそれでしょうがないだろうと私は思いますけれども。そういう意味でのレシピエーターブレインについて教科書によれば,ブレインを手で持った時に,手指の又からこぼれ落ちる,高野豆腐とか木綿豆腐と違って,麻婆豆腐だと私が言ったら学生が怒りましたけれども,そういうふうな病理学的な状態を傍からどう診断するかという話であって,それはエンプティ・スカル・サインでもいいですし,ハローリングのSPECTでもいいですし,場合によってはアンギオグラフィカルなノンフィリング,これは定義を決めればそれはそれでいいわけです。そういうことなんだというふうにとりあえずそこまでの理解をしないと,そ
の理解ができない人にとって,ここで議論しても私はたぶんしょうがないだろう。座長もそのようにおっしゃったんだろうと思います。

奥寺:堤先生,どうぞ。

堤:埼玉医大の救命センターの堤です。全脳の機能停止といった場合ですね,対象となっているというか,検索の領域が神経細胞なんですね。マスコミの方とかネットワークの方がおられるので,ちょっと分かりやすく言いますと,神経系というのは神経細胞と神経膠細胞という2種類があるんですよ。機能停止は神経細胞しか見ていない。たかだか脳の十数%ですよ。何でこんなことを申しますかというと,アメーバーが記憶をもつという日本人の実験があるわけですよ。単細胞ですよ,神経はありません。だけど迷路に入れると学習していくんですよ。つまり今の時点で神経膠細胞の機能に関しては知らないわけです。われわれサイエンティストとしてもっと謙虚であるべきだろうと思っています。ですから,神経細胞だけの機能を見た全脳の機能停止というのは,僕は違うんじゃないかという怯えというものがあります。それで判断して心臓を採っちゃっていいのか。一般の臨床の時にはもちろん全でいいんですが,その状況の中でひょっとして潜在意識だとか記憶だとかに関係したところが残っているかもしれないという危惧をもつ。そんなの分からないじゃないかと言われたらそうなんですが,結論は同じなんです。
 脳血流が停止すれば神経細胞のみならず神経膠細胞もだめになるんだから,それをもって脳死の摘出でいいというほうが,僕は分かりやすいんじゃないかと思っているんです。そのへんの神経膠細胞の機能云々に関しての議論というのは,いまどのへんにあるかというあたりも含めてご議論いただければと思います。

(中略)

横田:脳血流の見地から言うと,たしかに堤先生のおっしゃることがよく理解できて,たとえば神経細胞の閥値は,だいたい脳細胞100gの脳血流だと12(当Web注:脳組織100g当たり毎分12ccの血流の意味)といわれているんですけれども,膠細胞だと8とかと言われて,少し解離がある。ですから理論的に神経細胞が全部死滅しても膠細胞が生きているという8から12の間は,きっとそういう状態かと思うんですけれども,ただ脳死の経過の中で,すべて脳循環をやるわけではないんですけれども,臨床的に見てもこれは血流が当然8どころか,限りなくOに近いという部分が必ずあってということで,グリアに関しても機能はなくなっているだろう。このたぶんという部分がもっと謙虚であるべきだということになるんだと思うんです。脳死の判定の前提として3つあります。それから画像診断等で現疾患が診断されているという部分で,そういうところがクリアにされていくんだとは思いますが,たしかにグリアのところは難しい問題があるのかもしれません。

木下:私は機能をいくら調べても先ほど横田先生も私も言いましたが,必要条件の積み重ねにしかならなくて,結局十分条件じゃないと。われわれが最終的に証明し得る十分条件は,有賀先生がおっしゃったように融解脳である。だけどそうならない間に融解脳になることを予測できるだけの奥付けがあれば,おそらく十分条件で,それはたぶん何らかのかたちでの画像診断だろうと私は思っています。たとえばCTでこういう特有の所見があれば,これは液状化に近いんだということが分かれば,それ以外の機能検査に矛盾がなければ,そう考えていいというふうに頭を切り替えないと,いくら必要条件を積み重ねてもこれはなかなか議論が尽きないと思います。

奥寺:整理いたしますと,脳科学というのは,まだまだ全然分かっていない部分がいっぱいあるわけですよね。脳科学者なんていう人がテレビにいっぱい出てきていますけれども,それをもって条件を作っていってもキリがないわけです。どんどん増えていくだけになる。それとは別に,われわれ普段CTスキャンで診療していて,問題が起きたことがないわけですよ。CTで異常がなければ異常がないわけだし,出血があれば出血があるわけですよね。そういう確かな検査手法というのがあるので,すべての人はアクセプトしてますね。そういうものの中でも所見をきちっと見つけるとか,そういう考え方のほうがよっぽど地に足が付いているのではないか,そういうことですよね。

堤:ちょっと微妙にずれていると思うんですけれども,いまの座長のまとめは。そうじゃなくて,神経細胞と神経膠細胞という2つの群があって,神経膠細胞に関しては機能が分からない。今のテーマは,全脳の機能の停止というのはどういうものかというところから始まったわけですよね。みんな今まで,脳死判定基準もそうだけれども,出てくる議論は神経細胞のほうしか言っていない。神経膠細胞に関してはいいのかと。もちろん神経膠細胞が何をしているかというのは分からない。分からない以上,われわれはもっと謙虚にあるべきであるということで,結論はたぶん木下先生,その他とまったく同じで,言ってしまえば,今の脳死判定基準で臓器を採ることに関してはまずいんじゃないかというのが僕の結論です。みんなそれに関しては,たぶん同意してるんじゃないかと思うんですけれども。

杉本:ちょっといいですか,基本的には今のでいけば,先ほど有賀先生がおっしゃってくださったように,これを医学的に確定診断するというのは,要するに病理学的にこれは融解脳であるという解剖であればいいんだろうというのが実証であろうということである。その背景になるのは,たとえば血流の問題が出ていますけれども,木下先生のほうから,他のはすべて必要条件であると。血流の停止,これをどういうふうに証明するかは別として,脳血流の停止が証明できれば,これは十分条件であるということに問しては,皆さんは基本的には同意されている。いやそうじゃないという人はいます?

木下:長時間にわたるというところを短時間の血流停止?はだめ?

杉本:そうですね。もちろん脳死判定する条件としてこうだと。たとえばCPAで来ている人は血流はないよね,これは脳死だねというんだったら,蘇生もするわけじゃないですから,そのことは血流というのかは,他のところの血流はこうであるという条件で,十分に脳が回復しないだけの時間,血流が停止しているということですね。ただ今の血流測定に関して言えば,ある一連での測定ですよね。もう少し血圧上がったら,ほんとは流れてるかもしれないよというようなことは,そのへんは今の画像の診断であろうが証明できて,その時に実際に血圧をもっと上げてしまったら,一次的には流れるんじゃないのという議論は出ないんだろうと思うんですけれども,血流の停止を証明したいといのうは,要するに血流が停止すれば脳細胞は死ぬだろうと。神経細胞以外の部分ですね。ある一定の時間ということですね。それはいま木下先生がおっしゃってくださったように,ある一定の時間ということは,証明はなしていけるんでしょうか。

有賀:議論のための議論というわけじゃ必ずしもなくて,ある一定な時間という言い方をするので,10分か10時間かみたいな話になっちゃうんですけれども,横田先生がたしか頭蓋内圧が上がっていくプロセスでもって脳潅流圧が0になればというふうなスライドが出ましたよね。僕たちは患者さんの治療をするプロセスにおいて,時間軸に沿って病態を推測しながら飛行機を飛ばしているわけですよね。ですから途中で墜落するような馬鹿な話があれば別ですけれども,基本的にこうなった時に,次はこうなっていくだろう,そしてその次はこうだろうねという中で血流を測ってみたら,やっぱ0だったんだねと。これがその時間軸の真の姿であって,何分間止まっているかという問題ではおそらくないんだろうと思います。だからしたがってCPAで来た人は確かに0ですけれども,それをもって脳死だとは誰も言ってないわけですよね。それはなぜかというと,時間軸でもって治療するプロセスについてのことが,全然ディメンジョンの違う話をしようとしちゃっているからだと思います。これは,脳波がフラットになって,水頭症だったかな,竹内先生のを引用した論文だったと思いますけれども,確かに脳血流は0だと。だけど水頭症を解除した途端にまた脳血流が戻る。患者さんは元に戻る。だから,そういう意味において脳血流があるかないかという話だけをすると,そういうふうな違ったところ,隘路に入っていっちゃう話なんだと私は思います。

杉本:まさに僕も言おうとしたことは,そういうことでして,脳血流というものの中の前提としては,その一点でこうだと言っている問題ではない。一連の治療の中でのものの考え方として,そこで脳血涙が停止しているということが証明できれば,これは脳死であろうということに関しては,それに反対という方は・・・・・・。

北原:私もそれを言いたかったんですけれども,実際に脳死を診断する場合に,患者の現疾患,治療に対する反応とかですね,そういう過程を見て,その過程で臨床的に瞳孔が散大しているとか,いわゆる脳死判定基準の臨床的な項目を,われわれはチェックする。そういう時に,たとえば頭蓋内圧をモニターしていれば,先ほど言ったように潅流圧が0になってきたとか,あるいはCTスキヤンでまったくヒズイ境界がなくて,これはもう脳がだめになっているだろうというような画像を実際われわれは予想してそのことを確認しているということですね。ですからやっぱり,先はどの血流の時間的な問題にしても,ある程度の経過を踏まえた上でわれわれは脳死というものを,そうだろうということを判定しているわけであって,ポイントだけで見ているわけではないということです。
 もう一つ,堤先生の話に戻っていいでしょうか。グリア細胞の話。サイエンティフィックな問題って非常に難しい問題なんです。確かにそういうことがあるかなというのは分かりますけれども,実際それを臨床の場面でそういうことを証明するような方法というのは基本的にはあり得ないような気がするんですけれども,現実問題として・・・・・・。
 科学的な意味では非常におもしろいと思いますが,実際的にはそれを証明する方法というのは基本的にはないような気がしますし,やっぱり行き着くところは,血が通っていないんだからもうグリア細胞も死んでいるだろうというようなところにもっていくしか,私自身はないように考えます。

有賀:僕は堤先生ほど,そういう意味では真摯じゃないのかもしれません。なぜかというとグリア細胞の話もそうなんですが,実は血液の中を流れている細胞そのもの,要するに白血球が遊走して行って,ファゴサイトとか何だとかいろんなことをやると。それも脳死の状態のプロセスによってはあり得るようなんですね。そういうふうな論文を読んだ時に,たしかに神経細胞じゃないよねと。だけど最終的な局面はそうだよねと自分で自分を納得させて,それで先へ進んでいっちゃったということがあるので,堤先生のような観点で,分析的なことを学会として,それなりに考えていく必要が私はあると思うんです。分析したその先には統合するという作業が出ますから,そのプロセスで患者さんに益にならないようなかたちでの統合を考えていくという話にはたぶんならないと思うので,したがって今日のような臓器の移植に関連してというふうな外圧に対しての話を展開するんであれば,いま北原先生が言ったようなかたちで統合するしかないんだろうと。ただ分析は分析として,あってもいいんじゃないかと。そういう話だと私は思います。

杉本:いま脳血流をやっている中で。一応,脳血流がないということでもって,これは十分条件でと仮にした場合,脳血流があった場合には,脳死でないというふうになるんでしょうか。

木下:それは私の報告の中で述べさせていただいたように。例外的にそういう症例はあると思います。ただそれを他の方法でどっちが正しいか決めることはなかなか難しいので,それはクエスチョンマークのまま経過を見たほうが安全で,その段階で判断すると過ちを侵すリスクはかなり高いと思います。

杉本:サイエンスとして物を見る時だったら,脳血流があって・・・・・・。

木下:あっても細胞死はあり得ると思います。

杉本:そういうものに関しては,それをもっていま言っているように脳の不可逆性,融解脳であってもいいんですが,それに至っているかどうかという判定としては不十分であるとして,それは避けたほうがいいというものの見方でいいわけですか。

有賀:私自身は,脳血流があるということがもしあれば,少なくとも私たちが普通に言っている全脳死の議論,脳幹死は別として,違うんじゃないかなと思うのが筋だなと思います。個人的な経験ですけれども,後頭蓋下に病変があって,どう考えても後頭蓋下に関して脳血流があるとは思えないと。だけれども,テント上に関しては脳の構造からみて,CTスキヤンの造影からみて,どうやらありそうだと。だけどだんだんそれが先の話でいくと血流がなくなっていくとおぼしき所見を経て,最終的には脳死になった。ゼクチオンをさせていただいたところ,いわゆる融解,オトリーシスに陥った脳死の所見なんです。後頭蓋下のほうが余計たくさん痛んでいるという所見があって,したがって脳血流がある間は脳死だというふうに考えるのは,止めといたほうがいいんだろうというのが僕の個人的な意見です。

佐藤:堤先生のご意見も,本当に予想もしないようなところの論点になったんですけれども,木下先生がおっしゃるように,やっぱり十分条件をとるということで,かなり担保できると思うんですよね。それは先生がおっしゃったように,脳血流で。
 これはもう脳死論議が始まった時に立花隆が最初に言ったことですので,皆さんご存じだと思うんですけれども,私は非常に多数例でベンチレーターを外すというようなことをしていた施設におりました関係で,脳死判定をする際に,立花隆等の社会的批判にきっちり答えようということで,全例の脳血管撮影をやって血流をチェックしていたんですね。それで分かったことは,停止のパターンが3つあって,頚部で完全に止っちゃうのと,サイフォンで止るのと,MCAのM2ぐらいまでは写るけれども,それ以後は絶対写らないという,このパターンなんですね。結局それ以後が写ったケースは一例もないんですね。たぶん100例ぐらいやってると思いますが,最初は直立穿刺でやったんですけれども,そうすると圧力とか,先生がおっしゃったように入れる量とかで変わる可能性があるので,アーチスタディでやれば,これはいちばん正確だろうということで,さすがにいちいちセルディンガーで血管撮影室まで連れていけませんので,ウラキアールでやって。それに代用させていたんですけれども,それでもまったく同じ結果でしたので,血管撮影をやれば,一応血流停止というのは,ある程度確実に診断できるんじゃないかという印象を持っています。そうであればグリアも死んでいるということだと思います。

当Web注:非常に多数例でベンチレーターを外す施設とは、千葉県救急医療センターのことと見込まれる。佐藤 章の連名の下記報告では、頸動脈撮影で脳血流停止所見がありながら脳波や聴性脳幹反応があった症例、そして聴性脳幹反応1波から脳血流の存在が伺われる症例を報告している。自ら、血管撮影で脳死を診断できないことを経験しながら、総合討論の場では虚偽の発言をしたと見込まれる。
*中村 弘、渡辺 義朗、佐藤 章、小林 繁樹、景山 雄介、平井 伸治(千葉県救急医療センター脳外科)、古口 徳雄(同神経内科):切迫脳死、脳死239例の検討、救急医学12巻臨時増刊号、S128〜S129、1988
 頸動脈撮影は48例(51回)、全例で脳波を、20例でABRを施行後3〜4時間以内に、また臨床的に脳死を疑った時点から14〜56時間後に施行された。48例中3例(6.3%)はnonfillingであったが、2例で脳波上Hockaday4aを、1例でABR上1波を認めた。
 

堤:脳血流の停止がない脳死が存在するか。それから裏表ですけれども,頭蓋内圧亢進のない脳死が存在するか。竹内先生の論文に書いてあった頭蓋内圧亢進のない脳死の症例って,僕はあれ違うと思いますね。頭蓋内圧の測定法が古いやつなんで,あれはインチキだと思っています。もしそれがサイエンスの世界において議論の一致を見ていないということになれば,やっぱりわれわれサイエンティストとしては,十分もっとそこを検討しないといけないのではないかという思いはあります。私個人の意見は,頭蓋内圧亢進のない脳死は存在しないと思っています。というのは,全脳機能の不可逆的な停止があったら,神経細胞は必ずやられているはずですよね。そうするとそれを取り囲んでいる神経膠細胞も障害が出る。必ず頭蓋内圧亢進は起こると思うんですね。ですからもし,頭蓋内圧亢進のない,あるいは脳血流停止のない脳死の例というのが存在したら,出していただきたいと思います。
 たしかに竹内基準に則った脳死のあれで,そういう例があるということの可能性は否定はしませんが,それは竹内基準が全脳の不可逆的な機能停止の定義とイコールではないということに基づくものであると。そのへんはきっちり科学的に議論されるべきだろうと思っていますし,あるというなら証拠を見せてほしいと思います。ちなみに僕は1例も経験していません。

横田:一次性だろうが,二次性だろうが,CPPは0になるということは確かだと思います。私もそれにはまったく賛成だし,たぶんここにおられる先生方もきっとそうだと思います。その脳血流がある脳死が存在するかというのは,これはもしかしたら,竹内先生の補遺のほうにも書いてあったかと思うんですが,二次性の場合に,例外的に血流が認められることがあるというふうな記載はあるんですけれども,ただ私そういう文献を見たことはないんですけれども,もしそういう場合にPETをやることが可能であれば,それこそ神経細胞だけでなくて,グリアのほうの代謝も見ることができるわけですから,それこそ全脳の循環あるいは代謝の停止というのが,理論的には可能だと思うんです。先ほどお話したように,PETというのがそれほどアペイラブルでは当然ないので,実際なかなかそういうところまでの報告というのは私自身は見たことはないです。

当Web注:PETで脳代謝停止所見があっても、脳波があった症例は、杉野 繁一(日鋼記念病院)が日本集中治療医学会雑誌11巻supple、p163(2004年)に「臨床的脳死と考えられた75歳女性は、脳血流SPECT、FDG−PETでは脳血流、糖代謝は認められなかった、ABRでは1波〜5波のいずれも消失。しかし20mm/μvの高感度脳波測定で10Hz、15μv程度の振幅があった」と報告している。
 

○○:いま議論にありますようにCPPが0になるということで脳死が発生するということに関しては,僕も賛成です。CPPが0になって,少しまた入る可能性はあるんじゃないかと思っています。それは小児なんかで大泉門を押さえるようなことが可能な場合があるんですが,ものすごく張ってきてCPPが0になって脳死状態になって,それからまた柔らかくなるようなことを時たま経験するわけですね。ですから脳血流に関してもいったんは0になるけれども,先ほど佐藤先生が言われたように,サイフォン部ぐらいまでまた入るような例があって,わずかながら血流が脳死になってもあるような症例があってもいいような気がしますが,半永久的に脳血流が0になることではないような感じもするんですが,これを言うとまたちょっと混乱するかもしれないんですが,だけどそれは脳死であるという判定でいいとは思いますが,そういう症例が混ざることによって,脳死の判定そのものがまた混乱するということがあるんじゃないかと思います。

荒木:成育医療センターの脳外科の荒木と申します。脳血流の議論は,先生方のおっしゃったとおりで,脳死判定基準に脳血流の検査を加えるということは補完するという意味で,非常に重要なことだろうと思います。2008年に,南カリフォルニア州からの論文が出まして,小児の脳死判定については,従来のハーバード基準を無視したようなやり方が蔓延してしまって,結局全施設のうちの日本でいうところのPICU U型といったような施設で,たとえば60%以上は脳血流だけで脳死を判定している。1968年からすると,40年後,たとえば日本でいうと2050年ぐらいのあたりになった時に,脳死判定の倫理を批判しているような論文が出て,非常にショッキングだったんですけれども,ここにいらっしゃる先生方はそんなことは僕も含めてないとは思うんですれども,潔癖性のある国民性だから,そんなことはないと思うんですが,ただ将来的にそういうふうになる恐れがあるところからすれば,やはり竹内基準を踏襲した上で,その上に乗せるようなかたちで,将来の日本の脳死判定というのを考えていく上でも,あまりに脳血流に依存したかたちだけでも難しい部分はあるんじゃないかというふうに思いました。

当Web注:荒木 尚(国立成育医療研究センター病院脳神経外科)は横田 裕行(日本医科大学高度救命救急センター)と連名で、日本臨床救急医学会雑誌13巻2号p154(2010年)に「8歳女児、無呼吸テストを除いた脳死判定を1回施行、深昏睡、全脳幹反射消失、平坦脳波、ABR消失の所見を得た。時期を異にして脳血流3D-CTAおよび脳血流シンチを施行、脳血流停止所見を認めた。事後無呼吸テストを2回行った結果2回とも自発呼吸を認め、臨床的判定により脳死は否定された」と報告している。

奥寺:ですから,一応補助診断という話で出ていますよね。しかも大人に関しては,今のところ意見の一致を見ていると思うんですけれども,小児に関しては,まだ議論はしていないわけですね,正確にいうと今日は。私も読みましたけれども,まだまだそこらへんには検討の課題があるということを少し押さえた状態で,話題をもう少し進めたいと思います。進めたいと申しますのは,今のメディカルサイエンスという部分も,当然まだまだいろんなことがある。どうも今の脳潅流圧が0であるというあたりが,ここにいるわれわれの間では,一つの一到点のような気もいたしますけれども,先ほどの北原先生と有賀先生が話されたところの,社会的な側面,提供施設でありますとか,そちらのほうにも話を進めたいと思います。たぶんお見えの先生方の中には,実は現場で実際にそういう患者を診ておられる,それでいろいろな思いをされた先生もお見えだと思いますので,ぜひ話してください。それぞれの先生方,少し補足はございますか,北原先生。

北原:私に与えられた発表の中での特に追加はございませんけれども,本年7月から法律が改正されますので,おそらく一定数はやはりこういう患者さんが増加することが予想されますよね。その場合に提供側としてはなるべくスマートなかたちで,どんどん負担がこれよりも増してくるような状況だと,おそらくもう必ず破綻することはもう目に見えている感じはします。ですから,やはり支援体制も含めたいろんな法的な体制の整備とか,あるいはそれに係るような費用の支弁とか,そういったものに真剣に考えて,きっちりと決まりを作らないといけないと考えます。

有賀:話は単純で「ない袖は振れない」わけですから,10年に1回来る台風が1年または1ヵ月,または場合によっては1週間に1回なんて話になったら,救急医療施設は潰れますから,そういう意味ではきちっと体制が。工夫の世界は院内でいくらでもやりますので,ない袖は振れないと。先ほど高山先生ですよね,2日間も付き合っていられないというのは,嫌だと言っているわけじゃなくて,もともとの本業とは違う仕事で2日間そこに費やすという話は,いくらなんでも自分たちの使命感から見て違うんじゃないかというような心の動きがあることは間違いないわけですよ。それも含めて支援するということを社会としてどう考えるのかということをしておかないと。僕たちみんな真面目なんですよね。とにかく最初は一生懸命だと思います。昭和大学だって2例目になった時に ものすごく一生懸命なんですね。夜中の2時ごろにこれはもうフラットの脳波かどうかって本気でやっているんですね。普段やっている通りやろうじゃないかと言ってそれで終わったんですね。コーディネーターの方が,これだと素人が見た時にフラットには見えませんと言って脅かすんですよね。だから,そういうふうなことでないかたちでスマートに行きたいと。そのためには十二分な人が必要だと私は思うんです。

木下:ぜひ言いたいことは,6歳未満の小児に関しては,いくら改正臓器移植法で認められたといっても,このままで突き進まれたのでは,われわれは大きな間違いを侵す可能性を含んでいると思うので,とりあえず一時中断して,もうちょっときちっとしないとだめだと思います。なんでそういうことを言うかというと,長期の症例を全然解決できていなくて,その方が脳機能不全で亡くなったのか,300日目の合併症で亡くなったのかも分からないような状態であるということになると,それはやはり責任をもてない。もう一つは,たぶんこの移植法の改正は,海外に子どもたちが臓器をもらいにいくという問題があったと思うんですけれども,6歳未満のウェイティングリストというのは,そんなに多いんですかというのをネットワークの人にぜひ聞きたいんですね。たとえば6歳から15歳までの子どもたちだったら,レシピエント候補はいっぱいいるかもしれないんですけど,1歳,2歳のドナーがそんなに必要なんですかということを,実質問題として,われわれはちょっと知りたいんですけれども,そこはどうですか。

奥寺:この中にお見えの方で,大ざっぱでも語られる方がおられれば,お願いしたいんですが,いかがでしょう。

朝居:臓器移植ネットワークの医療本部の朝居です。おっしゃったように小児の移植がいまできないという現状があるので,ウェイティングリストに小児の患者さんが載っているかというと,ほとんどいらっしゃらないです。たとえば分割できる肝臓ですと,いま現在はちょっといないですけれども,昔は2歳の方が移植されたということもありましたので,そういうことはできたんですけれども,いま問題になっている心臓移植ですと,いま現在できないから載っていないというだけで,実際にもしこれができるようになれば,今後ウェイティングリストに小さい方が載ってくるという可能性は出てくると思います。

(中略)

奥寺:実はいまいる県から,年末に心臓病で移植が必要という症例が出まして,それをコロンビア大学にうちの小児科から連絡したんですね。改正臓器移植法が通るのは7月ですよね。7月までもつのかと間いてきたんです,向こうは。そこまで海外は知っていますよ,この法律のことを。それで,それは無理だ。もう1ヵ月か2ヵ月しかもたない。そうであれば,向こうはもちろんランダムで順番待ちになるんだけれども,入れましょうということで,たまたまヒットして,2010年度の1例目に当たって,年末にうちの大学からニューヨークまで患者を運んだんです。海外もこの改正のことは知っていますから,これが当然動いてくれば,まったく話も変わってくると思います。そういう意味では,いま杉本先生が言われたとおり,きちっとした議論はしなければいけない。これはもう仕方がないと思います。しかも時間があまりないということになるわけですね。どなたかご意見ありましたら,どうぞ。せっかくの機会です。

荒木:いまの件についてですが,ここに小児関係の先生方,どなたがおいでになるかわかりませんが,小児科学会が平成12年に臓器移植に関する検討委員会というのを立ち上げ,さまざまな議論がされてきて,結局3つのポイントさえ押さえてくれれば,彼らは納得をして協力をしましょうというところまできています。そういう趨勢からすれば,やはりこの7月に,いわゆる家族やむしろマスコミだとか社会のほうが認知が高まっており,なおかつレシピエントの幸せに育っている姿などが,テレビのコマーシャルやいろんなところから分かっていて,ともすればドナー側のほうから臓器をどうか困っている子どものために使ってくださいと言ってくる家族がいやしないだろうかと思って,内心ひやひやしているぐらいです。ですから,そういった時にうちの病院では体制が整っておりませんからできませんとお断りは当然できませんので,やはり7月はデッドラインということで,どうにか体制を整えなくてはならないのが,当面うちの病院でも取り組んでいる流れのように感じている次第です。

当Web注:長期間、人工呼吸器を装着している患者に無呼吸テストを行った場合、呼吸筋は萎縮しているため、自発呼吸運動があっても見逃す恐れが大きい。

高山:ガイドラインのことについてなんですが,ちょっと小児から離れますが,それと小児のガイドラインがないということもあるんですが,ガイドラインの7ページの「(6)その他」というところなんですが,脳低温療法については云々で,当該治療を行うことを脳死判定の実施条件とはしていないことに類するというガイドラインなんですけれども,これは2005年のAHAのガイドラインで,蘇生後脳死を心肺停止後症候群に対しては,積極的に脳低温療法を行いましょうという項目があります。そういったエビデンスレベルの高い発想の部分かありながら,これは類しないというここのガイドラインについて,整合性がないようなかたちになっていますので,ここは改善が必要なのではないか。ある一定の疾患に対しては脳低温療法を行うべきであるという部分も必要になってくると思うんですが。

有賀:ガイドラインについての見解は,むしろ堤先生が臓器移植関連学会の提言を書く上で中心的でしたので,ちょっと補足していただきたいんですけれども,私自身の考えは,ガイドラインというものが医療者が現場で良かれと思ってやったり,これはやる必要がないだろうと思ってやらなかったりというようなことに,いちいちがたがた言うなと。ほっといてくれというのが,僕の偽らざる本音であります。だからこういう時にはやるべきだとか,ああいう時にはやる必要はないだろうということもないわけです。もうちょっと現場に任せてもらいたいという話になるわけで,ちょっとだけしか現場を知らないようなお役人が,なんとなくお役人が頼っているような,その筋の専門家の中での専門家と言われているようなお年を召した方々を利用しながら,物事をまとめると,そんなふうになっちゃうんじゃないかという気がします。
 さっきは言わなかったんですけれども,臨床的脳死という言葉がありますよね。あれだって法的な脳死という話は,これは法的な脳死ですからそれはそれで理解できます。それから普通にサイエンティフィックな意味で脳死の患者さんと言った時の脳死というのもいいんですけれども,臨床的脳死っていったい何なのさ。これは医学的なターミノロジーではなくて,行政が勝手に作った言葉ですよね。そんなのに翻弄されるんですよね,私たちが。これも寂しい話ですよね。そういう意味ではガイドラインそのものは,もうちょっとお役人だったらお役人なりのガイドラインであるべきだし,医療職にあるものたちが,それを見てなるほどねと思うようなものを作るんであれば,それなりのものを作らなきゃいけないだろう。だから,したがってできないんだから,余計なことは言わないでくれ。ちょっと堤先生追加してください。

(中略)

堤:脳低温療法の適応については主治医が患者の病状等に応じて判断するべきものであり……。いや,たとえば脳低温療法を行わなければならないなんて,ここは書けないでしょう。この部分に関しては妥当な表現だと思うんですけれども。その場合には適用で主治医が判断するという意味で・・・・・・。

高山:そうすると脳死の数が,ある病院は増えて,ある病院も増えないということも起きるんではないかなというのが,主治医の判断でそういうふうにできてくるのが,脳死の難しいところではないかなと僕は思うんです。

堤:ちょっと理解が・・・・・・。

高山:治療をやられることと,やられないことで,脳死の数が増えるか減るかということになるのではないかというのがあるわけです。

堤:それは科学的にはあり得るかもしれませんね。そんなの全国いま救急で,こっちでは助かったけど,こっちでは助かんないのは山ほどいますからね,僕は表現上はこれで・・・・・・。

有賀:割って入るとね,高血圧性脳内出血があった時に,その手術をすれば少なくとも命は助かったであろう。だからしたがってこの症例については,脳死にならないように植物状態にすべきだったというふうな隙間の嫌がらせが入り得るというふうなことと同じ文脈でこの文言を考えているんじゃないかというのが高山先生の話。で,僕はそうだとすれば,そうであってもなくても余計なことは言わないでくれというのが,ガイドラインに対する僕の気持ちだと言いたい。おそらく堤先生もそういう意味では同じだと思うんですね。余計なことは書くなと。

堤:もっともっと根本的なところは,僕はこのガイドラインを読んでいないんですが,これは通知ですよね,厚生労働省の。私の法律の理解では,通知,通達というものは,罰則を伴わないものだと理解しております。厚労省はときどき通知,通達といって理解をすっ飛ばしてやることがあるんですが,通知・通達に関しては,公務員は従う義務があるが,公務員でない人間に関してはただのお知らせであるという理解で,これを,もし通知のかたちでやるのがいいのか悪いのかも含めて,この通知という法律上の位置づけは,おかしいんだと僕は思っています。これで何とか動かそうというのは。ぜひ教えてください。いままで通知,通達で医療の現場というのは混乱したことがあるんで,移植にかかわらず・・・・・・。

丸山:明確な答えはできないんですが,通知・通達は行政指導ですね。ですから直接の拘束力はないと思いますけれども,わが国は行政中心の国家ですので,事実上の締め付けが働くと思います。

奥寺:日本人というのはガイドラインが大好きですので,ガイドラインが来るとすぐ従わないといけないんだと直立不動になってしまうところがあると思います。いまの論点は平成22年になっているのに全然変わっていないところがあると,それは逆に言うといちいち変える必要はないではないか。こんなもんどうすると言ったら失礼かもしれませんが,極端に言えばどうでもいいんだということですよね。

有賀:でも,一定の水準で国民を拘束するような外堀としての価値規範があるとすれば,堤先生が問題として意識するように僕も高山先生もみんな思うわけですよ。そういう意味ではへんなガイドラインにはして欲しくない。ガイドラインを出すなとは言いませんが,へんなガイドラインにして欲しくないということは言ってもいいんじゃないかと思います。

奥寺:話を進めますけれども,あと支援の話,経費の話がございましたね。本当にあれで足りてるのか,そういうあたりはいかがでしょうか。

(中略)

唐澤:支援のことでちょっと発言させていただきたいんですが,船橋市立医療センターの唐澤と申します。私どもも1例だけ脳死下臓器提供がありましたけれども,それまでの私どもの病院の準備体制とすると,できるだけ自分たちで頑張ろうと。自分たちでというのは主治医を助け,ナースを助け,ソーシャルワーカーにできるだけ活躍してもらって,脳死判定もきちんとやろうという方針でやってきました。
 1例目が終わってその後私どもの病院は体制の見直しを迫られました。脳死下臓器提供だけではなくて,医療崩壊といいますか,医療を取り囲む状況が非常に厳しくなったものですから。まずソーシャルワーカーが崩壊状態になりました。ソーシャルワーカーが精神的にいろいろ間に入って,もたなくなりまして,結局脳死下の臓器提供だけじゃなくて,眼球提供だとか皮膚の提供でも,ソーシャルワーカーの力を十分に借りることができなくなりました。それで私どもとしては支援を全面的にコーディネーターの方にお願いするという方針に切り替えまして,臓器移植ネットワークのコーディネーターの方に非常にお世話になっています。
 もう一つ,脳死下の提供の時に非常にありかたかったのは,先ほど有賀先生も紹介してくださいましたけれども,ドナー管理をお願いできたことであります。救命はもちろん頑張って,脳死判定もしっかりやって,ただ法的脳死判定で,死亡と診断させていただいたあとはドナー管理をやってくださる先生がおいで下さって非常にありかたかったです。本当に涙が出るぐらいうれしかったです。その点はいまでも感謝していますので,今後ともやはりドナー管理をお願いしたい。それからソーシャルワーカーはなかなか負担が大きいので,コーディネーターの方に全面的にお願いしたいということで,方針転換を。一言でいうと,自分たちの病院で何とか頑張ろうと思ったのが,もう人様のお世話になろうという方針に変えまして,コーディネーターの方,移植チーム,ドナー管理の先生方,皆様に本当にお世話になりたいという気持ちです。
 それから,先ほどちょっと横田先生がおっしゃいましたように,何年かしますと,病院の中の体制が変わっていますので,前は一生懸命体制整備のために尽した人物が人事異動でいなくなった。そうなりますと,脳波についても次の者を養成しなくちゃいけないとか,他の点でもそうですけれども,私どもも1例しかやっていないんですけれども,2例,3例やった施設はそうでもないかもしれませんが,1例しかやっていない施設は,今後もう1回発生するとおそらくまた混乱すると思いますので,自分たちの病院でも体制を整備する,いろんな人のお力を借りられるような体制づくりをしないといけないと思うんです。

(中略)

杉本:ありがとうございます。そのへんは少し整備していく必要があるだろうということだと思います。ますます時間がなくなってきまして,結論というわけでも,まとめにもならないかもしれませんが,一つは脳死判定において脳循環,あるいは先ほど横田先生がおっしゃってくださったSSEPとか補助的なものはやはり入れて,今の竹内基準そのものをもう1回見直す必要があるだろうというのも,合意されたことだろうかと思います。もう一つは臓器提供という面に関しても,システムとしてどうなのか。救急医療をやっているわれわれ,あるいは他の方もいらっしゃると思いますが,医療をやっている立場からそういう臓器提供をやっていくのにやはりボランティア的なものとか,こ
うだとかいうのではなしに,それがシステムとして動けるようなかたちに体制を整えないといけないことを求めないといけないというようなことでいいんですかね。
 最後,行岡先生にご挨拶いただきたいと思います。

行岡:第23回会長の行岡です。2つのことだけ言います。1つは1976年にカレン裁判というのがありました。当時20歳のカレン・クインランという方が,心停止になって蘇生されて半年間人工呼吸を使って維持する。体重は20キロ減ってひどい褥瘡ができる。家族は尊厳死を求めて病院に言う。病院は拒否をするということで,ニュージャージー州の裁判になって,最高裁の判決文が非常に興味深いです。
 前段はずっと事実認定をします。その中でベンチレーターMA1,われわれも使ってた人工呼吸器を使った。次にパルムを含む神経学者が出て証言しています。全員が脳死ではないといい続けています。言い続けているんですけれども,人工呼吸器を外すと死ぬかもしれない。でも死ぬまでの時間は予測できない。結局彼(当Web注:原文のママ、カレン・クインラン氏は女性)は7年生きるんですけれども,ところがその証言のあとから,ベンチレーターという言葉ではなくて,ライフセービング・アパレータス(当Web注:生命維持装置)に変わってしまいます。これは裁判長が一般市民とするならば,彼は誤解をしたと思います。最後の判決はライフセービング・アパレータスを外すことを認めるというので,その当日のニューヨーク・タイムスもワシントンポストもそれを伝えているし,日本の新聞もすべてそう伝えてます。ということは,医者が言ったことがまったく通じていなかったということ。われわれはやはり伝えていかなくちゃいけないし,ジャーナリストも勉強すべきであると思います。それが一つ。
 もう一つは,見田宗介という社会学者がいらっしゃいます。彼は近代の原則と理念ということを言います。原則とは何かというと法律制です。われわれの医療に置き換えてみると,重症度が上がると,死亡率は最初は上がらないけれどもだんだん直線的に上がる。この時は効率性を高めれば死亡率を下げることは可能です。われわれは一生懸命プレホスピタルケアを作り,診断治療を効率的にして死亡率を下げようとしてがんばってきた。ところが重症度があるレベル以上を超えると,これはいくら効率性を上げてももはや救うことはできないし,ポイント・オブ・ノーリターンの考え方をとり入れれば,これは効率性の問題ではなくて理念の問題になります。見田先生は,近代の理念って何かというと自由だと。自由というのは勝手気ままではなくて,自分が納得するかたちで意思決定がなされる時に人は自由を感じる。とすれば,救急医は死にゆく人に対してその人の納得するようなかたちでの意思決定をサポートするのが,僕は職務であると思っています。
 いろんな支援というのは,その文脈の中で支援がなされるべきじゃないか。その時に患者さんは自由であり得ると思います。それを欠いた議論は空虚であるとぼくは思います。カレン裁判の問題と近代の原則と理念ということの大事さを改めて感じました。
 今年の6月の脳死・脳蘇生学会は,今日の議論を踏まえて,もう一度プログラムを組んでみたいと思っています。どうも本日はありがとうございました。

 


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