総合討論
杉本:(中略)第2部ですが,進め方としまして,まず脳死判定ということに関して討論していきたいと思うんですが,これは明確に分けてやっといたほうがいいんじゃないかと思います。
一つはサイエンスの対象として脳死というものをどういうふうに判定してどうするかという問題と,もう一つは臓器移植,提供という問題です。サイエンスとして病態解析をする時には脳死というものはこうですということを決めておこうという問題の整理をすることと,もう一つは,実際にその臓器を提供するんだと,臓器提供を対象とした時の,これはやや社会的な問題も含まれてきますから,そこは少し分けてディスカッションしていただきたいと思います。
もう一つは基本的な脳死,これはあくまでも日本でとらえる場合もそうでしょうけれども,全脳死というかたちでやっているということは共通の理解にしておいていただきたいと思います。そしてその中で,一つは全脳機能の停止をどう判定するのか,診断するのかという問題と,それが不可逆的であると,要するに回復しないということをどういうふうに担保するのかという問題。これはやはり整理しておく必要があるかと思うんですね。(後略)
奥寺:では,早速お話を進めたいと思います。いま受付で聞いてまいりましたら,本日の参加者は101名で,うち51名が医師であります。21名は看護師,おそらく院内コーディネーターといった方もお見えかと思います。あとは移植ネットワーク,臓器対策課のような方が15名お見えで,あとはマスコミの方が13名お見えであります。こういう風景の中でこれから話し合いをするんだということを,少しご理解ください。
最初に,いま杉本先生よりおまとめいただいたとおりでありますが,まずメディカルサイエンスの部分をこれから話し含っていきたいと思います。最初の課題といたしまして,全脳死は一つのコンセプトとしてみんなでアクセプトしているわけですけれども,全脳機能停止というのをどうやって見るかという話になると思います。
(中略)
川嶋:全脳死は定義が非常にあいまいなので,それでみんな考えることが変わってくると思うんですけれども,機能的な元に戻らないということであれば,いかなるメカニカルサポートによっても,いずれ心臓停止が来るような状態とか,明確なものがあればいいと思うんですけれども,そこまで踏み込んだものがないので混乱してしまうと思うんですね。たとえば脳の脳幹の一部が生きてたとしても,やはり助からないじゃないですか。だけど実際脳幹の一部が生きているかどうかも分からないのが本当ではないかと思います。たぶんそれはもうすぐに解剖しないと分からないと思いますので,不可逆的な全脳死の定義というものをみんなが納得するようなものに作っていただければと思います。
(中略)
有賀:私たちが携わっている西洋医学の,そういう文脈で話すかぎり,おそらく最終的には病理診断ということになるでしょう。ですからレシピエーターブレインが脳死だというふうな理解で,理解が難しい人にとっては,それがいちばん分かりやすい言い方だと思います。これはある病理の先生がパーソナルコネクションでメールをくれたんですけれども,こんなにぐちゃぐちゃになるまで,臨床医は診ているのかという質問があるんですね。
診ているのかといったって,結果的にそうなったんだから,それはそれでしょうがないだろうと私は思いますけれども。そういう意味でのレシピエーターブレインについて教科書によれば,ブレインを手で持った時に,手指の又からこぼれ落ちる,高野豆腐とか木綿豆腐と違って,麻婆豆腐だと私が言ったら学生が怒りましたけれども,そういうふうな病理学的な状態を傍からどう診断するかという話であって,それはエンプティ・スカル・サインでもいいですし,ハローリングのSPECTでもいいですし,場合によってはアンギオグラフィカルなノンフィリング,これは定義を決めればそれはそれでいいわけです。そういうことなんだというふうにとりあえずそこまでの理解をしないと,そ
の理解ができない人にとって,ここで議論しても私はたぶんしょうがないだろう。座長もそのようにおっしゃったんだろうと思います。
奥寺:堤先生,どうぞ。
堤:埼玉医大の救命センターの堤です。全脳の機能停止といった場合ですね,対象となっているというか,検索の領域が神経細胞なんですね。マスコミの方とかネットワークの方がおられるので,ちょっと分かりやすく言いますと,神経系というのは神経細胞と神経膠細胞という2種類があるんですよ。機能停止は神経細胞しか見ていない。たかだか脳の十数%ですよ。何でこんなことを申しますかというと,アメーバーが記憶をもつという日本人の実験があるわけですよ。単細胞ですよ,神経はありません。だけど迷路に入れると学習していくんですよ。つまり今の時点で神経膠細胞の機能に関しては知らないわけです。われわれサイエンティストとしてもっと謙虚であるべきだろうと思っています。ですから,神経細胞だけの機能を見た全脳の機能停止というのは,僕は違うんじゃないかという怯えというものがあります。それで判断して心臓を採っちゃっていいのか。一般の臨床の時にはもちろん全でいいんですが,その状況の中でひょっとして潜在意識だとか記憶だとかに関係したところが残っているかもしれないという危惧をもつ。そんなの分からないじゃないかと言われたらそうなんですが,結論は同じなんです。
脳血流が停止すれば神経細胞のみならず神経膠細胞もだめになるんだから,それをもって脳死の摘出でいいというほうが,僕は分かりやすいんじゃないかと思っているんです。そのへんの神経膠細胞の機能云々に関しての議論というのは,いまどのへんにあるかというあたりも含めてご議論いただければと思います。
(中略)
横田:脳血流の見地から言うと,たしかに堤先生のおっしゃることがよく理解できて,たとえば神経細胞の閥値は,だいたい脳細胞100gの脳血流だと12(当Web注:脳組織100g当たり毎分12ccの血流の意味)といわれているんですけれども,膠細胞だと8とかと言われて,少し解離がある。ですから理論的に神経細胞が全部死滅しても膠細胞が生きているという8から12の間は,きっとそういう状態かと思うんですけれども,ただ脳死の経過の中で,すべて脳循環をやるわけではないんですけれども,臨床的に見てもこれは血流が当然8どころか,限りなくOに近いという部分が必ずあってということで,グリアに関しても機能はなくなっているだろう。このたぶんという部分がもっと謙虚であるべきだということになるんだと思うんです。脳死の判定の前提として3つあります。それから画像診断等で現疾患が診断されているという部分で,そういうところがクリアにされていくんだとは思いますが,たしかにグリアのところは難しい問題があるのかもしれません。
木下:私は機能をいくら調べても先ほど横田先生も私も言いましたが,必要条件の積み重ねにしかならなくて,結局十分条件じゃないと。われわれが最終的に証明し得る十分条件は,有賀先生がおっしゃったように融解脳である。だけどそうならない間に融解脳になることを予測できるだけの奥付けがあれば,おそらく十分条件で,それはたぶん何らかのかたちでの画像診断だろうと私は思っています。たとえばCTでこういう特有の所見があれば,これは液状化に近いんだということが分かれば,それ以外の機能検査に矛盾がなければ,そう考えていいというふうに頭を切り替えないと,いくら必要条件を積み重ねてもこれはなかなか議論が尽きないと思います。
奥寺:整理いたしますと,脳科学というのは,まだまだ全然分かっていない部分がいっぱいあるわけですよね。脳科学者なんていう人がテレビにいっぱい出てきていますけれども,それをもって条件を作っていってもキリがないわけです。どんどん増えていくだけになる。それとは別に,われわれ普段CTスキャンで診療していて,問題が起きたことがないわけですよ。CTで異常がなければ異常がないわけだし,出血があれば出血があるわけですよね。そういう確かな検査手法というのがあるので,すべての人はアクセプトしてますね。そういうものの中でも所見をきちっと見つけるとか,そういう考え方のほうがよっぽど地に足が付いているのではないか,そういうことですよね。
堤:ちょっと微妙にずれていると思うんですけれども,いまの座長のまとめは。そうじゃなくて,神経細胞と神経膠細胞という2つの群があって,神経膠細胞に関しては機能が分からない。今のテーマは,全脳の機能の停止というのはどういうものかというところから始まったわけですよね。みんな今まで,脳死判定基準もそうだけれども,出てくる議論は神経細胞のほうしか言っていない。神経膠細胞に関してはいいのかと。もちろん神経膠細胞が何をしているかというのは分からない。分からない以上,われわれはもっと謙虚にあるべきであるということで,結論はたぶん木下先生,その他とまったく同じで,言ってしまえば,今の脳死判定基準で臓器を採ることに関してはまずいんじゃないかというのが僕の結論です。みんなそれに関しては,たぶん同意してるんじゃないかと思うんですけれども。
杉本:ちょっといいですか,基本的には今のでいけば,先ほど有賀先生がおっしゃってくださったように,これを医学的に確定診断するというのは,要するに病理学的にこれは融解脳であるという解剖であればいいんだろうというのが実証であろうということである。その背景になるのは,たとえば血流の問題が出ていますけれども,木下先生のほうから,他のはすべて必要条件であると。血流の停止,これをどういうふうに証明するかは別として,脳血流の停止が証明できれば,これは十分条件であるということに問しては,皆さんは基本的には同意されている。いやそうじゃないという人はいます?
木下:長時間にわたるというところを短時間の血流停止?はだめ?
杉本:そうですね。もちろん脳死判定する条件としてこうだと。たとえばCPAで来ている人は血流はないよね,これは脳死だねというんだったら,蘇生もするわけじゃないですから,そのことは血流というのかは,他のところの血流はこうであるという条件で,十分に脳が回復しないだけの時間,血流が停止しているということですね。ただ今の血流測定に関して言えば,ある一連での測定ですよね。もう少し血圧上がったら,ほんとは流れてるかもしれないよというようなことは,そのへんは今の画像の診断であろうが証明できて,その時に実際に血圧をもっと上げてしまったら,一次的には流れるんじゃないのという議論は出ないんだろうと思うんですけれども,血流の停止を証明したいといのうは,要するに血流が停止すれば脳細胞は死ぬだろうと。神経細胞以外の部分ですね。ある一定の時間ということですね。それはいま木下先生がおっしゃってくださったように,ある一定の時間ということは,証明はなしていけるんでしょうか。
有賀:議論のための議論というわけじゃ必ずしもなくて,ある一定な時間という言い方をするので,10分か10時間かみたいな話になっちゃうんですけれども,横田先生がたしか頭蓋内圧が上がっていくプロセスでもって脳潅流圧が0になればというふうなスライドが出ましたよね。僕たちは患者さんの治療をするプロセスにおいて,時間軸に沿って病態を推測しながら飛行機を飛ばしているわけですよね。ですから途中で墜落するような馬鹿な話があれば別ですけれども,基本的にこうなった時に,次はこうなっていくだろう,そしてその次はこうだろうねという中で血流を測ってみたら,やっぱ0だったんだねと。これがその時間軸の真の姿であって,何分間止まっているかという問題ではおそらくないんだろうと思います。だからしたがってCPAで来た人は確かに0ですけれども,それをもって脳死だとは誰も言ってないわけですよね。それはなぜかというと,時間軸でもって治療するプロセスについてのことが,全然ディメンジョンの違う話をしようとしちゃっているからだと思います。これは,脳波がフラットになって,水頭症だったかな,竹内先生のを引用した論文だったと思いますけれども,確かに脳血流は0だと。だけど水頭症を解除した途端にまた脳血流が戻る。患者さんは元に戻る。だから,そういう意味において脳血流があるかないかという話だけをすると,そういうふうな違ったところ,隘路に入っていっちゃう話なんだと私は思います。
杉本:まさに僕も言おうとしたことは,そういうことでして,脳血流というものの中の前提としては,その一点でこうだと言っている問題ではない。一連の治療の中でのものの考え方として,そこで脳血涙が停止しているということが証明できれば,これは脳死であろうということに関しては,それに反対という方は・・・・・・。
北原:私もそれを言いたかったんですけれども,実際に脳死を診断する場合に,患者の現疾患,治療に対する反応とかですね,そういう過程を見て,その過程で臨床的に瞳孔が散大しているとか,いわゆる脳死判定基準の臨床的な項目を,われわれはチェックする。そういう時に,たとえば頭蓋内圧をモニターしていれば,先ほど言ったように潅流圧が0になってきたとか,あるいはCTスキヤンでまったくヒズイ境界がなくて,これはもう脳がだめになっているだろうというような画像を実際われわれは予想してそのことを確認しているということですね。ですからやっぱり,先はどの血流の時間的な問題にしても,ある程度の経過を踏まえた上でわれわれは脳死というものを,そうだろうということを判定しているわけであって,ポイントだけで見ているわけではないということです。
もう一つ,堤先生の話に戻っていいでしょうか。グリア細胞の話。サイエンティフィックな問題って非常に難しい問題なんです。確かにそういうことがあるかなというのは分かりますけれども,実際それを臨床の場面でそういうことを証明するような方法というのは基本的にはあり得ないような気がするんですけれども,現実問題として・・・・・・。
科学的な意味では非常におもしろいと思いますが,実際的にはそれを証明する方法というのは基本的にはないような気がしますし,やっぱり行き着くところは,血が通っていないんだからもうグリア細胞も死んでいるだろうというようなところにもっていくしか,私自身はないように考えます。
有賀:僕は堤先生ほど,そういう意味では真摯じゃないのかもしれません。なぜかというとグリア細胞の話もそうなんですが,実は血液の中を流れている細胞そのもの,要するに白血球が遊走して行って,ファゴサイトとか何だとかいろんなことをやると。それも脳死の状態のプロセスによってはあり得るようなんですね。そういうふうな論文を読んだ時に,たしかに神経細胞じゃないよねと。だけど最終的な局面はそうだよねと自分で自分を納得させて,それで先へ進んでいっちゃったということがあるので,堤先生のような観点で,分析的なことを学会として,それなりに考えていく必要が私はあると思うんです。分析したその先には統合するという作業が出ますから,そのプロセスで患者さんに益にならないようなかたちでの統合を考えていくという話にはたぶんならないと思うので,したがって今日のような臓器の移植に関連してというふうな外圧に対しての話を展開するんであれば,いま北原先生が言ったようなかたちで統合するしかないんだろうと。ただ分析は分析として,あってもいいんじゃないかと。そういう話だと私は思います。
杉本:いま脳血流をやっている中で。一応,脳血流がないということでもって,これは十分条件でと仮にした場合,脳血流があった場合には,脳死でないというふうになるんでしょうか。
木下:それは私の報告の中で述べさせていただいたように。例外的にそういう症例はあると思います。ただそれを他の方法でどっちが正しいか決めることはなかなか難しいので,それはクエスチョンマークのまま経過を見たほうが安全で,その段階で判断すると過ちを侵すリスクはかなり高いと思います。
杉本:サイエンスとして物を見る時だったら,脳血流があって・・・・・・。
木下:あっても細胞死はあり得ると思います。
杉本:そういうものに関しては,それをもっていま言っているように脳の不可逆性,融解脳であってもいいんですが,それに至っているかどうかという判定としては不十分であるとして,それは避けたほうがいいというものの見方でいいわけですか。
有賀:私自身は,脳血流があるということがもしあれば,少なくとも私たちが普通に言っている全脳死の議論,脳幹死は別として,違うんじゃないかなと思うのが筋だなと思います。個人的な経験ですけれども,後頭蓋下に病変があって,どう考えても後頭蓋下に関して脳血流があるとは思えないと。だけれども,テント上に関しては脳の構造からみて,CTスキヤンの造影からみて,どうやらありそうだと。だけどだんだんそれが先の話でいくと血流がなくなっていくとおぼしき所見を経て,最終的には脳死になった。ゼクチオンをさせていただいたところ,いわゆる融解,オトリーシスに陥った脳死の所見なんです。後頭蓋下のほうが余計たくさん痛んでいるという所見があって,したがって脳血流がある間は脳死だというふうに考えるのは,止めといたほうがいいんだろうというのが僕の個人的な意見です。
佐藤:堤先生のご意見も,本当に予想もしないようなところの論点になったんですけれども,木下先生がおっしゃるように,やっぱり十分条件をとるということで,かなり担保できると思うんですよね。それは先生がおっしゃったように,脳血流で。
これはもう脳死論議が始まった時に立花隆が最初に言ったことですので,皆さんご存じだと思うんですけれども,私は非常に多数例でベンチレーターを外すというようなことをしていた施設におりました関係で,脳死判定をする際に,立花隆等の社会的批判にきっちり答えようということで,全例の脳血管撮影をやって血流をチェックしていたんですね。それで分かったことは,停止のパターンが3つあって,頚部で完全に止っちゃうのと,サイフォンで止るのと,MCAのM2ぐらいまでは写るけれども,それ以後は絶対写らないという,このパターンなんですね。結局それ以後が写ったケースは一例もないんですね。たぶん100例ぐらいやってると思いますが,最初は直立穿刺でやったんですけれども,そうすると圧力とか,先生がおっしゃったように入れる量とかで変わる可能性があるので,アーチスタディでやれば,これはいちばん正確だろうということで,さすがにいちいちセルディンガーで血管撮影室まで連れていけませんので,ウラキアールでやって。それに代用させていたんですけれども,それでもまったく同じ結果でしたので,血管撮影をやれば,一応血流停止というのは,ある程度確実に診断できるんじゃないかという印象を持っています。そうであればグリアも死んでいるということだと思います。
当Web注:非常に多数例でベンチレーターを外す施設とは、千葉県救急医療センターのことと見込まれる。佐藤 章の連名の下記報告では、頸動脈撮影で脳血流停止所見がありながら脳波や聴性脳幹反応があった症例、そして聴性脳幹反応1波から脳血流の存在が伺われる症例を報告している。自ら、血管撮影で脳死を診断できないことを経験しながら、総合討論の場では虚偽の発言をしたと見込まれる。
*中村 弘、渡辺 義朗、佐藤 章、小林 繁樹、景山 雄介、平井 伸治(千葉県救急医療センター脳外科)、古口 徳雄(同神経内科):切迫脳死、脳死239例の検討、救急医学12巻臨時増刊号、S128〜S129、1988
頸動脈撮影は48例(51回)、全例で脳波を、20例でABRを施行後3〜4時間以内に、また臨床的に脳死を疑った時点から14〜56時間後に施行された。48例中3例(6.3%)はnonfillingであったが、2例で脳波上Hockaday4aを、1例でABR上1波を認めた。
堤:脳血流の停止がない脳死が存在するか。それから裏表ですけれども,頭蓋内圧亢進のない脳死が存在するか。竹内先生の論文に書いてあった頭蓋内圧亢進のない脳死の症例って,僕はあれ違うと思いますね。頭蓋内圧の測定法が古いやつなんで,あれはインチキだと思っています。もしそれがサイエンスの世界において議論の一致を見ていないということになれば,やっぱりわれわれサイエンティストとしては,十分もっとそこを検討しないといけないのではないかという思いはあります。私個人の意見は,頭蓋内圧亢進のない脳死は存在しないと思っています。というのは,全脳機能の不可逆的な停止があったら,神経細胞は必ずやられているはずですよね。そうするとそれを取り囲んでいる神経膠細胞も障害が出る。必ず頭蓋内圧亢進は起こると思うんですね。ですからもし,頭蓋内圧亢進のない,あるいは脳血流停止のない脳死の例というのが存在したら,出していただきたいと思います。
たしかに竹内基準に則った脳死のあれで,そういう例があるということの可能性は否定はしませんが,それは竹内基準が全脳の不可逆的な機能停止の定義とイコールではないということに基づくものであると。そのへんはきっちり科学的に議論されるべきだろうと思っていますし,あるというなら証拠を見せてほしいと思います。ちなみに僕は1例も経験していません。
横田:一次性だろうが,二次性だろうが,CPPは0になるということは確かだと思います。私もそれにはまったく賛成だし,たぶんここにおられる先生方もきっとそうだと思います。その脳血流がある脳死が存在するかというのは,これはもしかしたら,竹内先生の補遺のほうにも書いてあったかと思うんですが,二次性の場合に,例外的に血流が認められることがあるというふうな記載はあるんですけれども,ただ私そういう文献を見たことはないんですけれども,もしそういう場合にPETをやることが可能であれば,それこそ神経細胞だけでなくて,グリアのほうの代謝も見ることができるわけですから,それこそ全脳の循環あるいは代謝の停止というのが,理論的には可能だと思うんです。先ほどお話したように,PETというのがそれほどアペイラブルでは当然ないので,実際なかなかそういうところまでの報告というのは私自身は見たことはないです。
当Web注:PETで脳代謝停止所見があっても、脳波があった症例は、杉野 繁一(日鋼記念病院)が日本集中治療医学会雑誌11巻supple、p163(2004年)に「臨床的脳死と考えられた75歳女性は、脳血流SPECT、FDG−PETでは脳血流、糖代謝は認められなかった、ABRでは1波〜5波のいずれも消失。しかし20mm/μvの高感度脳波測定で10Hz、15μv程度の振幅があった」と報告している。
○○:いま議論にありますようにCPPが0になるということで脳死が発生するということに関しては,僕も賛成です。CPPが0になって,少しまた入る可能性はあるんじゃないかと思っています。それは小児なんかで大泉門を押さえるようなことが可能な場合があるんですが,ものすごく張ってきてCPPが0になって脳死状態になって,それからまた柔らかくなるようなことを時たま経験するわけですね。ですから脳血流に関してもいったんは0になるけれども,先ほど佐藤先生が言われたように,サイフォン部ぐらいまでまた入るような例があって,わずかながら血流が脳死になってもあるような症例があってもいいような気がしますが,半永久的に脳血流が0になることではないような感じもするんですが,これを言うとまたちょっと混乱するかもしれないんですが,だけどそれは脳死であるという判定でいいとは思いますが,そういう症例が混ざることによって,脳死の判定そのものがまた混乱するということがあるんじゃないかと思います。
荒木:成育医療センターの脳外科の荒木と申します。脳血流の議論は,先生方のおっしゃったとおりで,脳死判定基準に脳血流の検査を加えるということは補完するという意味で,非常に重要なことだろうと思います。2008年に,南カリフォルニア州からの論文が出まして,小児の脳死判定については,従来のハーバード基準を無視したようなやり方が蔓延してしまって,結局全施設のうちの日本でいうところのPICU
U型といったような施設で,たとえば60%以上は脳血流だけで脳死を判定している。1968年からすると,40年後,たとえば日本でいうと2050年ぐらいのあたりになった時に,脳死判定の倫理を批判しているような論文が出て,非常にショッキングだったんですけれども,ここにいらっしゃる先生方はそんなことは僕も含めてないとは思うんですれども,潔癖性のある国民性だから,そんなことはないと思うんですが,ただ将来的にそういうふうになる恐れがあるところからすれば,やはり竹内基準を踏襲した上で,その上に乗せるようなかたちで,将来の日本の脳死判定というのを考えていく上でも,あまりに脳血流に依存したかたちだけでも難しい部分はあるんじゃないかというふうに思いました。
当Web注:荒木 尚(国立成育医療研究センター病院脳神経外科)は横田 裕行(日本医科大学高度救命救急センター)と連名で、日本臨床救急医学会雑誌13巻2号p154(2010年)に「8歳女児、無呼吸テストを除いた脳死判定を1回施行、深昏睡、全脳幹反射消失、平坦脳波、ABR消失の所見を得た。時期を異にして脳血流3D-CTAおよび脳血流シンチを施行、脳血流停止所見を認めた。事後無呼吸テストを2回行った結果2回とも自発呼吸を認め、臨床的判定により脳死は否定された」と報告している。
奥寺:ですから,一応補助診断という話で出ていますよね。しかも大人に関しては,今のところ意見の一致を見ていると思うんですけれども,小児に関しては,まだ議論はしていないわけですね,正確にいうと今日は。私も読みましたけれども,まだまだそこらへんには検討の課題があるということを少し押さえた状態で,話題をもう少し進めたいと思います。進めたいと申しますのは,今のメディカルサイエンスという部分も,当然まだまだいろんなことがある。どうも今の脳潅流圧が0であるというあたりが,ここにいるわれわれの間では,一つの一到点のような気もいたしますけれども,先ほどの北原先生と有賀先生が話されたところの,社会的な側面,提供施設でありますとか,そちらのほうにも話を進めたいと思います。たぶんお見えの先生方の中には,実は現場で実際にそういう患者を診ておられる,それでいろいろな思いをされた先生もお見えだと思いますので,ぜひ話してください。それぞれの先生方,少し補足はございますか,北原先生。
北原:私に与えられた発表の中での特に追加はございませんけれども,本年7月から法律が改正されますので,おそらく一定数はやはりこういう患者さんが増加することが予想されますよね。その場合に提供側としてはなるべくスマートなかたちで,どんどん負担がこれよりも増してくるような状況だと,おそらくもう必ず破綻することはもう目に見えている感じはします。ですから,やはり支援体制も含めたいろんな法的な体制の整備とか,あるいはそれに係るような費用の支弁とか,そういったものに真剣に考えて,きっちりと決まりを作らないといけないと考えます。
有賀:話は単純で「ない袖は振れない」わけですから,10年に1回来る台風が1年または1ヵ月,または場合によっては1週間に1回なんて話になったら,救急医療施設は潰れますから,そういう意味ではきちっと体制が。工夫の世界は院内でいくらでもやりますので,ない袖は振れないと。先ほど高山先生ですよね,2日間も付き合っていられないというのは,嫌だと言っているわけじゃなくて,もともとの本業とは違う仕事で2日間そこに費やすという話は,いくらなんでも自分たちの使命感から見て違うんじゃないかというような心の動きがあることは間違いないわけですよ。それも含めて支援するということを社会としてどう考えるのかということをしておかないと。僕たちみんな真面目なんですよね。とにかく最初は一生懸命だと思います。昭和大学だって2例目になった時に ものすごく一生懸命なんですね。夜中の2時ごろにこれはもうフラットの脳波かどうかって本気でやっているんですね。普段やっている通りやろうじゃないかと言ってそれで終わったんですね。コーディネーターの方が,これだと素人が見た時にフラットには見えませんと言って脅かすんですよね。だから,そういうふうなことでないかたちでスマートに行きたいと。そのためには十二分な人が必要だと私は思うんです。
木下:ぜひ言いたいことは,6歳未満の小児に関しては,いくら改正臓器移植法で認められたといっても,このままで突き進まれたのでは,われわれは大きな間違いを侵す可能性を含んでいると思うので,とりあえず一時中断して,もうちょっときちっとしないとだめだと思います。なんでそういうことを言うかというと,長期の症例を全然解決できていなくて,その方が脳機能不全で亡くなったのか,300日目の合併症で亡くなったのかも分からないような状態であるということになると,それはやはり責任をもてない。もう一つは,たぶんこの移植法の改正は,海外に子どもたちが臓器をもらいにいくという問題があったと思うんですけれども,6歳未満のウェイティングリストというのは,そんなに多いんですかというのをネットワークの人にぜひ聞きたいんですね。たとえば6歳から15歳までの子どもたちだったら,レシピエント候補はいっぱいいるかもしれないんですけど,1歳,2歳のドナーがそんなに必要なんですかということを,実質問題として,われわれはちょっと知りたいんですけれども,そこはどうですか。
奥寺:この中にお見えの方で,大ざっぱでも語られる方がおられれば,お願いしたいんですが,いかがでしょう。
朝居:臓器移植ネットワークの医療本部の朝居です。おっしゃったように小児の移植がいまできないという現状があるので,ウェイティングリストに小児の患者さんが載っているかというと,ほとんどいらっしゃらないです。たとえば分割できる肝臓ですと,いま現在はちょっといないですけれども,昔は2歳の方が移植されたということもありましたので,そういうことはできたんですけれども,いま問題になっている心臓移植ですと,いま現在できないから載っていないというだけで,実際にもしこれができるようになれば,今後ウェイティングリストに小さい方が載ってくるという可能性は出てくると思います。
(中略)
奥寺:実はいまいる県から,年末に心臓病で移植が必要という症例が出まして,それをコロンビア大学にうちの小児科から連絡したんですね。改正臓器移植法が通るのは7月ですよね。7月までもつのかと間いてきたんです,向こうは。そこまで海外は知っていますよ,この法律のことを。それで,それは無理だ。もう1ヵ月か2ヵ月しかもたない。そうであれば,向こうはもちろんランダムで順番待ちになるんだけれども,入れましょうということで,たまたまヒットして,2010年度の1例目に当たって,年末にうちの大学からニューヨークまで患者を運んだんです。海外もこの改正のことは知っていますから,これが当然動いてくれば,まったく話も変わってくると思います。そういう意味では,いま杉本先生が言われたとおり,きちっとした議論はしなければいけない。これはもう仕方がないと思います。しかも時間があまりないということになるわけですね。どなたかご意見ありましたら,どうぞ。せっかくの機会です。
荒木:いまの件についてですが,ここに小児関係の先生方,どなたがおいでになるかわかりませんが,小児科学会が平成12年に臓器移植に関する検討委員会というのを立ち上げ,さまざまな議論がされてきて,結局3つのポイントさえ押さえてくれれば,彼らは納得をして協力をしましょうというところまできています。そういう趨勢からすれば,やはりこの7月に,いわゆる家族やむしろマスコミだとか社会のほうが認知が高まっており,なおかつレシピエントの幸せに育っている姿などが,テレビのコマーシャルやいろんなところから分かっていて,ともすればドナー側のほうから臓器をどうか困っている子どものために使ってくださいと言ってくる家族がいやしないだろうかと思って,内心ひやひやしているぐらいです。ですから,そういった時にうちの病院では体制が整っておりませんからできませんとお断りは当然できませんので,やはり7月はデッドラインということで,どうにか体制を整えなくてはならないのが,当面うちの病院でも取り組んでいる流れのように感じている次第です。
当Web注:長期間、人工呼吸器を装着している患者に無呼吸テストを行った場合、呼吸筋は萎縮しているため、自発呼吸運動があっても見逃す恐れが大きい。
高山:ガイドラインのことについてなんですが,ちょっと小児から離れますが,それと小児のガイドラインがないということもあるんですが,ガイドラインの7ページの「(6)その他」というところなんですが,脳低温療法については云々で,当該治療を行うことを脳死判定の実施条件とはしていないことに類するというガイドラインなんですけれども,これは2005年のAHAのガイドラインで,蘇生後脳死を心肺停止後症候群に対しては,積極的に脳低温療法を行いましょうという項目があります。そういったエビデンスレベルの高い発想の部分かありながら,これは類しないというここのガイドラインについて,整合性がないようなかたちになっていますので,ここは改善が必要なのではないか。ある一定の疾患に対しては脳低温療法を行うべきであるという部分も必要になってくると思うんですが。
有賀:ガイドラインについての見解は,むしろ堤先生が臓器移植関連学会の提言を書く上で中心的でしたので,ちょっと補足していただきたいんですけれども,私自身の考えは,ガイドラインというものが医療者が現場で良かれと思ってやったり,これはやる必要がないだろうと思ってやらなかったりというようなことに,いちいちがたがた言うなと。ほっといてくれというのが,僕の偽らざる本音であります。だからこういう時にはやるべきだとか,ああいう時にはやる必要はないだろうということもないわけです。もうちょっと現場に任せてもらいたいという話になるわけで,ちょっとだけしか現場を知らないようなお役人が,なんとなくお役人が頼っているような,その筋の専門家の中での専門家と言われているようなお年を召した方々を利用しながら,物事をまとめると,そんなふうになっちゃうんじゃないかという気がします。
さっきは言わなかったんですけれども,臨床的脳死という言葉がありますよね。あれだって法的な脳死という話は,これは法的な脳死ですからそれはそれで理解できます。それから普通にサイエンティフィックな意味で脳死の患者さんと言った時の脳死というのもいいんですけれども,臨床的脳死っていったい何なのさ。これは医学的なターミノロジーではなくて,行政が勝手に作った言葉ですよね。そんなのに翻弄されるんですよね,私たちが。これも寂しい話ですよね。そういう意味ではガイドラインそのものは,もうちょっとお役人だったらお役人なりのガイドラインであるべきだし,医療職にあるものたちが,それを見てなるほどねと思うようなものを作るんであれば,それなりのものを作らなきゃいけないだろう。だから,したがってできないんだから,余計なことは言わないでくれ。ちょっと堤先生追加してください。
(中略)
堤:脳低温療法の適応については主治医が患者の病状等に応じて判断するべきものであり……。いや,たとえば脳低温療法を行わなければならないなんて,ここは書けないでしょう。この部分に関しては妥当な表現だと思うんですけれども。その場合には適用で主治医が判断するという意味で・・・・・・。
高山:そうすると脳死の数が,ある病院は増えて,ある病院も増えないということも起きるんではないかなというのが,主治医の判断でそういうふうにできてくるのが,脳死の難しいところではないかなと僕は思うんです。
堤:ちょっと理解が・・・・・・。
高山:治療をやられることと,やられないことで,脳死の数が増えるか減るかということになるのではないかというのがあるわけです。
堤:それは科学的にはあり得るかもしれませんね。そんなの全国いま救急で,こっちでは助かったけど,こっちでは助かんないのは山ほどいますからね,僕は表現上はこれで・・・・・・。
有賀:割って入るとね,高血圧性脳内出血があった時に,その手術をすれば少なくとも命は助かったであろう。だからしたがってこの症例については,脳死にならないように植物状態にすべきだったというふうな隙間の嫌がらせが入り得るというふうなことと同じ文脈でこの文言を考えているんじゃないかというのが高山先生の話。で,僕はそうだとすれば,そうであってもなくても余計なことは言わないでくれというのが,ガイドラインに対する僕の気持ちだと言いたい。おそらく堤先生もそういう意味では同じだと思うんですね。余計なことは書くなと。
堤:もっともっと根本的なところは,僕はこのガイドラインを読んでいないんですが,これは通知ですよね,厚生労働省の。私の法律の理解では,通知,通達というものは,罰則を伴わないものだと理解しております。厚労省はときどき通知,通達といって理解をすっ飛ばしてやることがあるんですが,通知・通達に関しては,公務員は従う義務があるが,公務員でない人間に関してはただのお知らせであるという理解で,これを,もし通知のかたちでやるのがいいのか悪いのかも含めて,この通知という法律上の位置づけは,おかしいんだと僕は思っています。これで何とか動かそうというのは。ぜひ教えてください。いままで通知,通達で医療の現場というのは混乱したことがあるんで,移植にかかわらず・・・・・・。
丸山:明確な答えはできないんですが,通知・通達は行政指導ですね。ですから直接の拘束力はないと思いますけれども,わが国は行政中心の国家ですので,事実上の締め付けが働くと思います。
奥寺:日本人というのはガイドラインが大好きですので,ガイドラインが来るとすぐ従わないといけないんだと直立不動になってしまうところがあると思います。いまの論点は平成22年になっているのに全然変わっていないところがあると,それは逆に言うといちいち変える必要はないではないか。こんなもんどうすると言ったら失礼かもしれませんが,極端に言えばどうでもいいんだということですよね。
有賀:でも,一定の水準で国民を拘束するような外堀としての価値規範があるとすれば,堤先生が問題として意識するように僕も高山先生もみんな思うわけですよ。そういう意味ではへんなガイドラインにはして欲しくない。ガイドラインを出すなとは言いませんが,へんなガイドラインにして欲しくないということは言ってもいいんじゃないかと思います。
奥寺:話を進めますけれども,あと支援の話,経費の話がございましたね。本当にあれで足りてるのか,そういうあたりはいかがでしょうか。
(中略)
唐澤:支援のことでちょっと発言させていただきたいんですが,船橋市立医療センターの唐澤と申します。私どもも1例だけ脳死下臓器提供がありましたけれども,それまでの私どもの病院の準備体制とすると,できるだけ自分たちで頑張ろうと。自分たちでというのは主治医を助け,ナースを助け,ソーシャルワーカーにできるだけ活躍してもらって,脳死判定もきちんとやろうという方針でやってきました。
1例目が終わってその後私どもの病院は体制の見直しを迫られました。脳死下臓器提供だけではなくて,医療崩壊といいますか,医療を取り囲む状況が非常に厳しくなったものですから。まずソーシャルワーカーが崩壊状態になりました。ソーシャルワーカーが精神的にいろいろ間に入って,もたなくなりまして,結局脳死下の臓器提供だけじゃなくて,眼球提供だとか皮膚の提供でも,ソーシャルワーカーの力を十分に借りることができなくなりました。それで私どもとしては支援を全面的にコーディネーターの方にお願いするという方針に切り替えまして,臓器移植ネットワークのコーディネーターの方に非常にお世話になっています。
もう一つ,脳死下の提供の時に非常にありかたかったのは,先ほど有賀先生も紹介してくださいましたけれども,ドナー管理をお願いできたことであります。救命はもちろん頑張って,脳死判定もしっかりやって,ただ法的脳死判定で,死亡と診断させていただいたあとはドナー管理をやってくださる先生がおいで下さって非常にありかたかったです。本当に涙が出るぐらいうれしかったです。その点はいまでも感謝していますので,今後ともやはりドナー管理をお願いしたい。それからソーシャルワーカーはなかなか負担が大きいので,コーディネーターの方に全面的にお願いしたいということで,方針転換を。一言でいうと,自分たちの病院で何とか頑張ろうと思ったのが,もう人様のお世話になろうという方針に変えまして,コーディネーターの方,移植チーム,ドナー管理の先生方,皆様に本当にお世話になりたいという気持ちです。
それから,先ほどちょっと横田先生がおっしゃいましたように,何年かしますと,病院の中の体制が変わっていますので,前は一生懸命体制整備のために尽した人物が人事異動でいなくなった。そうなりますと,脳波についても次の者を養成しなくちゃいけないとか,他の点でもそうですけれども,私どもも1例しかやっていないんですけれども,2例,3例やった施設はそうでもないかもしれませんが,1例しかやっていない施設は,今後もう1回発生するとおそらくまた混乱すると思いますので,自分たちの病院でも体制を整備する,いろんな人のお力を借りられるような体制づくりをしないといけないと思うんです。
(中略)
杉本:ありがとうございます。そのへんは少し整備していく必要があるだろうということだと思います。ますます時間がなくなってきまして,結論というわけでも,まとめにもならないかもしれませんが,一つは脳死判定において脳循環,あるいは先ほど横田先生がおっしゃってくださったSSEPとか補助的なものはやはり入れて,今の竹内基準そのものをもう1回見直す必要があるだろうというのも,合意されたことだろうかと思います。もう一つは臓器提供という面に関しても,システムとしてどうなのか。救急医療をやっているわれわれ,あるいは他の方もいらっしゃると思いますが,医療をやっている立場からそういう臓器提供をやっていくのにやはりボランティア的なものとか,こ
うだとかいうのではなしに,それがシステムとして動けるようなかたちに体制を整えないといけないことを求めないといけないというようなことでいいんですかね。
最後,行岡先生にご挨拶いただきたいと思います。
行岡:第23回会長の行岡です。2つのことだけ言います。1つは1976年にカレン裁判というのがありました。当時20歳のカレン・クインランという方が,心停止になって蘇生されて半年間人工呼吸を使って維持する。体重は20キロ減ってひどい褥瘡ができる。家族は尊厳死を求めて病院に言う。病院は拒否をするということで,ニュージャージー州の裁判になって,最高裁の判決文が非常に興味深いです。
前段はずっと事実認定をします。その中でベンチレーターMA1,われわれも使ってた人工呼吸器を使った。次にパルムを含む神経学者が出て証言しています。全員が脳死ではないといい続けています。言い続けているんですけれども,人工呼吸器を外すと死ぬかもしれない。でも死ぬまでの時間は予測できない。結局彼(当Web注:原文のママ、カレン・クインラン氏は女性)は7年生きるんですけれども,ところがその証言のあとから,ベンチレーターという言葉ではなくて,ライフセービング・アパレータス(当Web注:生命維持装置)に変わってしまいます。これは裁判長が一般市民とするならば,彼は誤解をしたと思います。最後の判決はライフセービング・アパレータスを外すことを認めるというので,その当日のニューヨーク・タイムスもワシントンポストもそれを伝えているし,日本の新聞もすべてそう伝えてます。ということは,医者が言ったことがまったく通じていなかったということ。われわれはやはり伝えていかなくちゃいけないし,ジャーナリストも勉強すべきであると思います。それが一つ。
もう一つは,見田宗介という社会学者がいらっしゃいます。彼は近代の原則と理念ということを言います。原則とは何かというと法律制です。われわれの医療に置き換えてみると,重症度が上がると,死亡率は最初は上がらないけれどもだんだん直線的に上がる。この時は効率性を高めれば死亡率を下げることは可能です。われわれは一生懸命プレホスピタルケアを作り,診断治療を効率的にして死亡率を下げようとしてがんばってきた。ところが重症度があるレベル以上を超えると,これはいくら効率性を上げてももはや救うことはできないし,ポイント・オブ・ノーリターンの考え方をとり入れれば,これは効率性の問題ではなくて理念の問題になります。見田先生は,近代の理念って何かというと自由だと。自由というのは勝手気ままではなくて,自分が納得するかたちで意思決定がなされる時に人は自由を感じる。とすれば,救急医は死にゆく人に対してその人の納得するようなかたちでの意思決定をサポートするのが,僕は職務であると思っています。
いろんな支援というのは,その文脈の中で支援がなされるべきじゃないか。その時に患者さんは自由であり得ると思います。それを欠いた議論は空虚であるとぼくは思います。カレン裁判の問題と近代の原則と理念ということの大事さを改めて感じました。
今年の6月の脳死・脳蘇生学会は,今日の議論を踏まえて,もう一度プログラムを組んでみたいと思っています。どうも本日はありがとうございました。 |