中年夫婦212組 延命医療に対する意向が一致していたのは4割
配偶者による代理意思決定 患者本人の意向に沿わない可能性
了徳寺大学健康科学部看護学科の多田氏と佐藤氏が調査
中年夫婦212組を対象とした調査の結果、延命医療に対する意向が一致していた夫婦は半数に達しておらず、配偶者による代理意思決定が行われても、患者本人の意向に沿った終末期医療が行われない可能性があることがわかった。この研究は、了徳寺大学健康科学部看護学科の多田 貴志氏と佐藤 みつ子氏が行い、2012年6月発行の看護教育研究学会誌4巻1号p13〜p23に「終末期医療に対する中年夫婦の意向と関連要因」として発表した。
、この研究は、終末期医療に対する中年夫婦の意向の一致・不一致とその関連要因を明らかにし、患者の意向に沿った終末期医療・援助を行うための基礎資料とすることを目的とした。多田氏らは序論で「改正臓器移植法が全面施行されたが、その後1年間に臓器提供者となった方の年代としては、40代が最も多く、次いで50代、次いで30代と60代が同数と続いている。実際の臓器提供者数がこの現状であることから、中年男女のキーパーソンが突発的に脳死や終末期状態について判断を迫られる場面が少なからずあることが容易に想像できる。厚生労働省の調査では、代理人による意思表示について調査しているが、具体的な代理人としては、配偶者をあげる者が多いことが明らかになっている」と中年夫婦を一組とする調査の意義を書いている。
研究は、山梨大学医学部倫理委員会の承認を得て行われた。調査期間は2007年7月〜9月、A大学学生の両親357組に調査票を郵送し、230組より返信を得た(回収率64.4%)。夫婦揃って返信を得たのは212組(有効回答率92.2%)。対象者は、平均年齢は夫が51.7±4.3歳、妻が48.8±3.7歳、職業は夫が会社員が最も多く、妻はパート・アルバイトが最多だった。自身の入院経験は夫58.%・妻54.7%、家族の入院経験は夫75.9%・妻81.6%と、夫・妻ともあると答えた者が多かった。
質問紙の「自分自身が終末期になった場合の延命医療に対する意向」と「配偶者が終末期となった場合に配偶者が延命医療についてどう考えていると思うか」を夫婦でペアリングし、一致、不一致による群分けを行なった。
妻の「自分自身が終末期になった場合の延命医療に対する意向」と夫の「配偶者が終末期となった場合に配偶者が延命医療についてどう考えていると思うか」が一致しているが、夫の「自分自身が終末期になった場合の延命医療に対する意向」と妻の「配偶者が終末期となった場合に配偶者が延命医療についてどう考えていると思うか」が一致していない場合は「夫が妻の考えと一致」群とし、その逆は「妻が夫の考えと一致」群とした。お互いに一致している場合は「お互いに一致」群とし、互いに一致していない場合は「不一致」群とした。
「夫が妻の考えと一致」34組(16.0%)、「妻が夫の考えと一致」34組(16.0%)、「お互いに一致」88組(41.5%)、「不一致」56組(26.4%)であった。この研究は、以下の4点を結論としている。
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延命医療に対する意向がお互いに一致していた夫婦は半数に達しておらず、配偶者による代理意思決定が行なわれても、患者本人の意向に沿った終末期医療が行われない可能性が示唆された。
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終末期医療に対する知識・理解が乏しいことや、実際の場面の想定が難しいことにより曖昧な回答となり、夫婦の意向が不一致となる可能性が示唆された。
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夫婦の意向の一致・不一致には、年齢、身近な者が延命医療を受けた経験、死観、宗教的態度が関わっていた。
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意向が一致するためには臨床現場に即した延命医療に関する情報提供が有効であることが示唆された。
愛媛県立中央病院:心停止確認後に人工心肺を再稼動し腎臓摘出
沖縄県立中部病院:積極的治療で臓器提供につながりにくい症例
3つの腎移植施設:腎臓移植で生活に改善があった者は81%
千葉社会保険病院:事前指示記入85%、7割が透析中止を希望
衆和会長崎腎病院:事前指示取得38%、5割が透析継続を希望
シャローム鋤柄病院:102歳で透析開始 認知症が劇的に改善
第57回日本透析医学会学術集会・総会
第57回日本透析医学会学術集会・総会が2012年6月22日から24日まで、札幌市内で開催された。以下は日本透析医学会雑誌45巻Supplementより注目される発表の部分(タイトルに続くp・・・は掲載ページ)。
*森 英恭(愛媛県立中央病院泌尿器科):献腎摘出をPCPS管理下にて施行した、透析歴30年の高齢透析患者に対する献腎移植の1例、p733
レシピエントは60歳女性、糸球体腎炎で透析歴30年、献腎移植の第一候補であるとの連絡を受け10月14日に入院。
ドナーは61歳男性で2011年10月12日急性心筋梗塞に対してPCPS管理下でPCI施行されたが、翌13日の早朝より血圧低下あり、家族の同意のもと心停止確認後にPCPSを再稼動した状態で腎を摘出して腎移植を施行した。血流再開数分後より初尿を認めた。
*宮里 均(沖縄県立中部病院内科):救命救急センターを有する施設における潜在的ドナーの検討、p531
当院は498床の救命センターを有する総合病院である。4類型病院にあたり臓器提供に積極的に対応している。しかしながら実際の臓器提供はほとんどなく、臓器提供の可能性のある患者の調査を行なった。2010年9月15日より2011年12月末まで当院にて死亡した患者648例、このうち15歳以上70歳までの216例を調査した。
実際に臓器提供となったのは角膜提供の1例のみ、216例のうち75%の症例が悪性腫瘍末期、持続的な重症感染症、死因が確定されないなど臓器提供の禁忌であった。残る症例は必ずしも禁忌とはされないものの積極的治療ののちになくなるなど臓器提供につながりにくい症例がみられた。そのなかの13例にはオプション提示を行い、また12例は主治医や周囲の認識があればオプション提示が可能であったと考えられた。心停止下での臓器提供が可能な患者が2%程度いる。
*小坂 志保(東京大学大学院医学系研究科成人看護学):腎移植レシピエントが認識する移植後生活の改善点、p675
3つの腎移植施設に通院中の腎移植レシピエント360名に移植後の生活の改善点について質問紙調査を行なった。263名(有効回答率73.1%)より回答があり、維持透析経験者は231名(平均透析期間6.3±6.6年)で、生活に改善があったと回答したものは213名(80.9%)であった。自由記載のあった208名の回答を分類し、「身体活動の改善:旅行に行ける」108名(52.7%)、「社会活動の改善:仕事ができる」81名(39.5%)、「身体活動の改善:運動ができる」31名(15.1%)の順で多かった。
*田代 紀子(千葉社会保険病院透析センター)、事前指示の活用について 9年間の調査から、p354
当院では、2004年から毎年全員約200名の外来維持透析患者に事前指示を記入してもらっている(回収率85%前後)。当院の事前指示の内容は、突然意識が失われた場合に人工呼吸器の装着を希望するか否か、意識の回復が望めない状況になった場合に、透析治療の継続を希望するか否か、を患者と家族に記入してもらっている。
事前指示の結果より、当院の長期透析患者の7割が透析治療の中止を希望している。現在まで事前指示を元に9名(男性3名、女性6名、年齢55歳〜87歳、透析歴4ヵ月〜33年)の患者が実際に透析治療中止の選択をし、透析中止後より4日〜19日で永眠された。
*宮本 理恵(衆和会長崎腎病院看護課):当院外来患者におけるリビングウィル 終末期医療の取り組み、p548
2010年より病状説明時に事前指示書(リビングウィル)を提示している。外来透析患者261名中205名に病状説明を行い、そのうちリビングウィルの取得率は38%で、患者本人の署名は89.4%であった。継続を希望する治療の中で「血液透析の継続」は52%であった。取得率の年代別で80歳以上が3分の1を占めていた。仕事をしている患者の未取得率は54.0%であった。5割以上の患者が延命処置のうち血液透析を希望したことにより、患者の透析に対する思い入れの深さが推測された。
*鋤柄 稔(シャローム鋤柄病院):超高齢(102歳)で通院透析の1例、p697
102歳女性、原疾患は腎硬化症、血液透析導入前、認知症症状が目立つ。家族は可能な限りの手段を尽くして延命を図ることを全員一致で選択。血液透析により尿毒症改善後、認知症が劇的に改善。家族や透析スタッフが元気になった本例の姿をみて励まされていることを知らされると、それがまた本人の喜び、生き甲斐となって今日に至っている。現在、週3回、孫の運営するグループホームから送迎バスで通院中。
野田総理大臣 川田議員の質問主意書に虚偽の回答
「検証会議は、ドナーが自殺者か否かは調査していない」
野田 佳彦内閣総理大臣は6月15日、川田 龍平参議院議員の「脳死下臓器摘出に関する質問主意書」に対して、答弁書を送付した。
「自殺者からの臓器提供は何例あったのか」との質問に対し、答弁書は「検証会議は、各事例の検証に当たって、臓器の提供者が自殺者であるかどうかについては調査しておらず、お尋ねについてお答えすることは困難である」と回答した。
また「全米臓器配分機関は『ドナーが生じた理由(児童虐待、交通事故、殺人、自殺、自然要因、交通事故以外の事故等)』、『原疾患(窒息・鈍的外傷・心臓血管・溺水・薬物中毒・感電・頭蓋内出血・鈍傷・発作等)』及び『死因(低酸素脳症・脳卒中・頭部外傷等)』と三項目に分けて整理し、事例数とその割合を公表している。日本でも少なくとも『ドナーが生じた理由』と『脳死の原疾患』に分けて公表できないのか」と尋ねたのに対して、答弁書は「『ドナーが生じた理由』については、遺族の同意が得られた場合には臓器の提供者の原疾患に含めて公表しているが、臓器の提供者や遺族のプライバシーの保護や心情への配慮から、遺族の同意の有無にかかわらず一律に公表することは、適切ではないと考えている」と回答した。
当Web注
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厚生労働科学研究費補助金を受けて行なわれた「脳死並びに心停止ドナーにおけるマージナルドナーの有効利用に関する研究(2011年)」のなかで、古川 博之(旭川医科大学外科学講座消化器病態外科学):脳死下・心停止下における肝臓提供に関する研究、脳死並びに心停止ドナーにおけるマージナルドナーの有効利用に関する研究
(厚生労働科学研究費補助金 免疫アレルギー疾患等予防・治療研究)、37−39、2011は、1999年2月から2011年1月にかけて行われた脳死肝移植100例のうち、(表2ドナー因子は)自殺13例と記載している(この報告書は、厚生労働科学研究データベースhttp://mhlw-grants.niph.go.jp/index.htmlで、文献番号201023021Aにて閲覧できる。表示されるファイルリストのうち、古川報告は201023021A0002.pdf と
201023021A0003.pdfにまたがって掲載されている)。
個別ケースでは法的脳死・臓器摘出5例目、同29例目、同60例目、同66例目、同82例目、同94例目は、臓器提供施設または移植施設から、ドナーが縊頸や頸部、両手首切創など自殺または他殺と見込まれる状態だったことが報告されている。日本臓器移植ネットワークの統計は、2010年末までの脳死下臓器提供者115名のうち、その他の外因死19名
。2011年末までの統計は脳死下臓器提供者159名のうち、その他の外因死は26名としている。外因死は事故、災害死、殺人、自殺で構成され、日本臓器移植ネットワーク
も自殺ドナーを把握している。外因死ドナーからの臓器摘出は、検視など司法手続きの適正性確保の面から、脳死下での臓器提供事例に係る検証会議の検証事項になっており、検証会議も自殺ドナーであるか否かは把握しているはずである。把握したうえで検証しなければ、検証会議の職責は果たせない。
野田総理の回答どおりに、本当に検証会議が調査していないのならば、検証会議は存在意義が問われる。
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全米臓器配分機関は統計において、ドナーが生じた理由(児童虐待、交通事故、殺人、自殺、自然要因、交通事故以外の事故等)を公表している。個別ドナーの発表毎ではなく、統計ベースでならばプライバシーの保護に抵触せず公表は可能と見込まれる。
質問本文(HTML)はhttp://www.sangiin.go.jp/japanese/joho1/kousei/syuisyo/180/syuh/s180136.htm、同文の質問本文(PDF)はhttp://www.sangiin.go.jp/japanese/joho1/kousei/syuisyo/180/syup/s180136.pdf。
答弁本文(HTML)はhttp://www.sangiin.go.jp/japanese/joho1/kousei/syuisyo/180/touh/t180136.htm、同文の答弁本文(PDF)はhttp://www.sangiin.go.jp/japanese/joho1/kousei/syuisyo/180/toup/t180136.pdfで公開されている。
以下は左側に質問を掲載し、右側に対応した答弁を掲載する。
第180回国会(常会)
質問主意書
質問第一三六号脳死下臓器摘出に関する質問主意書
右の質問主意書を国会法第七十四条によって提出する。
平成二十四年六月七日
川田龍平
参議院議長 平田健二殿 |
内閣参質一八〇第一三六号
平成二十四年六月十五日内閣総理大臣 野田佳彦
参議院議長 平田健二殿
参議院議員川田龍平君提出脳死下臓器摘出に関する質問に対し、別紙答弁書を送付する。 |
脳死下臓器摘出に関する質問主意書
改正臓器移植法が施行されて、来月(七月十七日)で丸二年になる。この二十三カ月間に本人の意思はなく家族の承諾のみによる脳死下臓器提供が七十例を超え、十五歳未満の児童も一例の法的脳死判定と脳死下臓器摘出が行われている。
また、二〇一二年三月二十九日に、「脳死下での臓器提供事例に係る検証会議 一〇二例の検証のまとめ」が厚生労働省のホームページ上に公開された。
そこで、以下二点について質問する。 |
参議院議員川田龍平君提出脳死下臓器摘出に関する質問に対する答弁書 |
一 十五歳未満の少年からの臓器摘出について
1 現在施行されている臓器移植法では虐待を受けた児童からの臓器提供を禁止しており、ドナーとなる児童が虐待を受けていたか否かについて、臓器提供病院は確認することになっている。法的脳死判定百二十九例目の少年の場合、臓器提供病院はどのようにそれを確認したのか、政府の承知するところを示されたい。 |
一の1について
児童からの臓器提供については、「「臓器の移植に関する法律」の運用に関する指針(ガイドライン)」(平成九年十月八日付け健医発第一三二九号厚生省保健医療局長通知別紙。以下「ガイドライン」という。)により、臓器提供施設(臓器の提供者から臓器を摘出する医療機関をいう。以下同じ。)に対して、虐待防止委員会等の虐待を受けた児童への対応のために必要な院内体制や児童虐待への対応に関するマニュアル等の整備とともに、可能な限り虐待の徴候の有無を確認するよう努めること等を求めている。お尋ねの事例については、臓器提供施設が、ガイドラインに基づく対応に加え、児童相談所と連携し、臓器の提供者である児童について虐待が行われた疑いがないことを確認したと承知している。 |
2 厚労省の「脳死下での臓器提供事例に係る検証会議」は、昨年十二月十六日に法的脳死判定百二十九例目の事例に関する検証を終え、問題はなかったとマスコミに発表している。法的脳死判定を行う際の除外事項はどのように検証されたのか、具体的に明らかにされたい。 |
一の2について
お尋ねの事例については、「脳死下での臓器提供事例に係る検証会議」(以下「検証会議」という。)で、臓器提供施設から提供された資料に基づき、関係法令、ガイドライン及び平成十二年三月二十二日に検証会議が定めた「脳死下での臓器提供事例に係る検証項目及び検証手続について」に照らして検証した。 |
3 児童虐待防止法は第二条で「「児童虐待」とは保護者(親権を行う者、未成年後見人その他の者で、児童を現に監護するものをいう。以下同じ。)がその監護する児童(十八歳に満たない者をいう。以下同じ。)について行う次に掲げる行為をいう。」として、身体的虐待(生命・健康に危険のある身体的暴行)、性的虐待(性交、性的暴行、性的行為の強要)、心理的虐待(暴言や差別など心理的外傷を与える行為)及びネグレクト(保護の怠慢や拒否により健康状態や安全を損なう行為)を挙げている。また、同法は平成十六年改正により、「保護者以外の同居人による同様の行為」も追加されている。
保護者と保護者以外の同居人による身体的・性的・心理的虐待とネグレクトの有無の確認方法について、児童相談所への通報がない場合は、どのように確認するのか示されたい。また、本件に関する厚労省の指示(通知)やマニュアルはあるのか示されたい。 |
一の3について
一の1についてでお答えしたとおり、児童からの臓器提供については、ガイドラインにより、臓器提供施設に対して、可能な限り虐待の徴候の有無を確認するよう努めること等を求めており、臓器提供施設は、臓器の提供者である児童について、児童虐待に係る児童相談所への通告がない場合にも、ガイドラインに基づき、虐待が行われた疑いがないことを確認すると考えている。 |
4 前記1及び2の少年は、その後、週刊誌で自殺と報道された。十代の少年の自殺は、その原因が、親や同居親族からの虐待、あるいは年長者や友人らによるいじめの可能性が十分に考えられるが、その調査の有無について事実関係を明らかにされたい。 |
一の4について
政府としては、お尋ねのような調査は行っていないが、一の1についてでお答えしたとおり、お尋ねの事例については、臓器提供施設が、児童相談所と連携し、臓器の提供者である児童について虐待が行われた疑いがないことを確認したと承知している。 |
5 遺族の同意がないことを理由として、検証内容はもちろんのこと、自殺に至った経緯も隠ぺいされており、これでは自殺や虐待防止のための対策にもつながらないことを危惧する。検証内容等を公表すべきと考えるが、政府の見解を示されたい。 |
一の5について
検証会議における検証内容等の公表については、臓器の提供者や遺族のプライバシーの保護や心情への配慮が重要であり、遺族の同意が得られないにもかかわらず検証内容等を公表することは、適切ではないと考えている。 |
二 「脳死下での臓器提供事例に係る検証会議 一〇二例の検証のまとめ」について
厚労省と日本臓器移植ネットワークは、脳死下臓器提供が行われた場合、提供日、ドナーの年代・性別、原疾患、地域・提供施設名、本人の意思の有無、臓器別移植術の施行施設名、レシピエントの年代・性別等の項目を公表している。
二〇一二年三月二十九日に厚労省が公開した「脳死下での臓器提供事例に係る検証会議 一〇二例の検証のまとめ」では、原疾患に「クモ膜下出血、頭部外傷、蘇生後脳症、脳出血、脳梗塞、脳腫瘍」と病名が挙げられている。
1 法的脳死判定八十八例目の事例では検証報告書が公表され、脳死の原因を「本症例は脂肪塞栓症候群を原因とする重度かつびまん性に進行した脳腫脹により急速に脳死の状態に陥った」としている。しかし、当初発表された原疾患は「交通外傷」であった。
第百七十七回国会衆議院厚生労働委員会(二〇一一年六月一日)で、岡本政務官(当時)はこの問題に関して阿部知子議員の質問に「当初、交通外傷が原疾患だと言われておりましたが、これは交通外傷に起因をする脳塞栓というよりは、その術中の問題があったと。それが不可避かどうかというところは先生御指摘のとおりですけれども。そういう意味で、公表の仕方として、原疾患を交通外傷としたということについての、やはり公表のあり方については少し考える必要があるだろうということは指示をしたところです。」と答弁している。
先般公表された「脳死下での臓器提供事例に係る検証会議 一〇二例の検証のまとめ」には原疾患が脂肪塞栓症候群の事例はないが、法的脳死判定八十八例目の原疾患はどのように分類されているのか明らかにされたい。 |
二の1について
お尋ねの事例の原疾患は、「脳梗塞」に分類している。 |
2 「脳死下での臓器提供事例に係る検証会議 一〇二例の検証のまとめ」中、自殺者からの臓器提供は何例あったのか。 |
二の2について
検証会議は、「脳死下での臓器提供事例に係る検証会議 一〇二例の検証のまとめ」の対象とした各事例の検証に当たって、臓器の提供者が自殺者であるかどうかについては調査しておらず、お尋ねについてお答えすることは困難である。 |
3 米国UNOS(全米臓器配分機関)は「ドナーが生じた理由(児童虐待、交通事故、殺人、自殺、自然要因、交通事故以外の事故等)」、「原疾患(窒息・鈍的外傷・心臓血管・溺水・薬物中毒・感電・頭蓋内出血・鈍傷・発作等)」及び「死因(低酸素脳症・脳卒中・頭部外傷等)」と三項目に分けて整理し、事例数とその割合を公表している。日本でも少なくとも「ドナーが生じた理由」と「脳死の原疾患」に分けて公表できないのか、政府の見解を示されたい。
4 臓器移植は他人の臓器を医療資源として用いる特殊な医療技術で、ドナーとレシピエント双方に重大な人権侵害が起きないようにするとともに、透明性を担保するために公表はきちんと行われなければならないことは法律の精神でもある。
今後も、提供日、ドナーの年代・性別、地域・提供施設名、本人の意思の有無、臓器別移植術の施行施設名、レシピエントの年代・性別等の項目に加え、ドナーが生じた理由、脳死の原疾患の全ての項目をホームページ上に公表すべきと考えるが、政府の見解を示されたい。
右質問する。 |
二の3及び4について
脳死下での臓器提供事例については、社団法人日本臓器移植ネットワーク(以下「ネットワーク」という。)が、公表について臓器の提供者の遺族の同意が得られた臓器提供施設名、臓器の提供者の年齢、性別及び原疾患等の情報を公表している。お尋ねの「ドナーが生じた理由」については、遺族の同意が得られた場合には臓器の提供者の原疾患に含めて公表しているが、臓器の提供者や遺族のプライバシーの保護や心情への配慮から、遺族の同意の有無にかかわらず一律に公表することは、適切ではないと考えている。
脳死下での臓器提供事例については、ネットワークに対して、公表について遺族の同意が得られた情報をそのホームページ上で公表するよう指導していきたい。 |
「エントリー基準に達したため一様にお話しさせていただきます」
東京医科大学病院の救急医 患者家族に臓器提供選択肢提示
東京医科大学救急医学の織田 順氏は、「救急医学」2012年6月号p726〜p730に「脳死/臓器移植におけるチーム医療」を発表した。不可逆的な脳機能不全に陥った、患者の家族に対する臓器提供選択肢(オプション)提示プロセスを重点的に書いてある。以下、枠内は主要部分。
オプション提示から移植医療にかかわる情報提供のプロセス
(戦略)患者状態が不可逆的になったことと,そのためにその後の方針がやむを得ず変更になることを患者家族に伝えるのは,当初から責任をもって診療を行い,家族に寄り添ってきた主治医チーム以外にはない。
ここで当然主治医チームは,方向性の異なるつらい話を患者家族に切り出すことにより,患者家族−医療者間の信頼関係が損なわれてしまうのではないか,というおそれを感じるし、患者家族側の精神的負担も大きい。この「切り出しにくい」あたりをどういうふうにチームを大きくして包み込んでいくかということについては後述する。
主治医チームが行うべきことは,オプション提示のイントロダクションのみであるべきだろう。そしてその後オプション提示にかかわる詳細な説明および意思確認については,治療に関して第三者的な立場の,院内外のコーディネーターにゆだねるほうが,むしろ患者家族にとって「主治医から判断を迫られる」状態にならないため望ましいと考えている。この「コーディネーターによる詳細な説明」へのプロセスを担当する臓器・組織移植コーディネーターのチームとは緊密に連携しなくてはならない。それは患者情報,患者家族の現在の心情などについての'情報共有から,具体的な日時のタイミングのすりあわせまで多岐にわたる。
スムーズに臓器・組織移植コーディネーターのチームにバトンタッチした後しばらくは,むしろ彼らにゆだねるほうがよい。コーディネーターは,主治医チームと異なる第三者的な立場であるうえ,家族側から出るであろうさまざまな質問に対して具体的で正確に回答できるプロフェッショナルという点で非常に適しているからである。(中略)
【オプション提示の詳細について】
オプション提示前後のプロセスはきわめてデリケートな面をもつ。先進的な取組みを行っている施設では,移植支援室,院内コーディネーターが充実してきているが,これらは該当症例のピックアップや主治医チームへのリマインド,正確な情報提供,
家族ケアなどの面では有効であるが,ことオプション提示そのものについては主治医チームの負担を減ずるものではない。(中略)
われわれの施設では「オプション提示クリニカルパス」を使用することにより,「エントリー基準に達したため一様にお話しさせていただきます」という,話の切り出しやすさと選別性の否定,
パスをツールとして使用する際の情報・納得度の共有を図っており、有用であるため下記に紹介する。 |
当Web注:同施設の「オプション提示クリニカルパス」は、日本救急医学会雑誌22巻11号p837〜844の「臓器・組織提供におけるオプション提示クリニカルパスの作成と導入」https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjaam/22/11/22_11_837/_pdfに掲載されている。
法的「脳死」臓器移植患者の死亡は累計84名
肝臓、腎臓移植患者 各1名が死亡
日本臓器移植ネットワークは、6月4日に更新した移植に関するデータページhttp://www.jotnw.or.jp/datafile/offer_brain.htmlにおいて、法的
「脳死」臓器提供にもとづき肝臓移植、腎臓移植を受けた患者の死亡が、それぞれ1名増加し、法的「脳死」臓器移植患者の死亡は、心臓5名、肺27名、肝臓30名、膵腎同時6名、腎臓13名、小腸3名の累計84名に達したことを表示した。
これまでの臓器別の法的「脳死」移植レシピエントの死亡情報は、臓器移植死ページに掲載。
小松氏:生理的な生命の真相は「体液(血液)の流動」 「ただ生きているだけ」に尊厳を感じる
市野川氏:日本ではルールを明確化する時、いつも生に対してネガティブなほうにしかいかない
月刊誌「現代思想」 “尊厳死は誰のものか 終末期医療のリアル”を特集
6月1日付で青土社から発行された月刊誌「現代思想」は“特集=尊厳死は誰のものか 終末期医療のリアル”を掲載した。同社サイト内の目次はこちら。小松 美彦氏(科学史/生命倫理学)と市野川 容孝氏(社会学)の対談=「【討議
V】尊厳死法における生権力の作動」には、各論考を代表し、さらに発展させた内容がある。以下は対談の主要部分(22ページの原文を約2分の1に短縮した)。
尊厳死への伏流水
(前略)
市野川 この間の動きをざっと振り返ると、一つには自已決定という論理が、きわめて制限されたかたちでしかないものの、日本社会でも強まったと思います。(中略)2006年3月に明るみになった富山県の射水市民病院の問題が非常に大きかったと思います。(中略)、その翌年(2007年)の5月に厚生労働省が「終末期医療の決定プロセスに関するガイドライン」を作成し、さらに翌08年6月には日本医師会が「医師の職業倫理指針(改訂版)」を作成しています。(中略)今回の法案は、具体的には2006年以降の流れの中で一つ一つ準備されてきたもので、その最後の上澄みの一つだと思います。特に医療プロフェッションが法的保護を求めているという側面が強い。「治療行為の差し控え」についても「中止」についても、多くの現場は日本医師会の「指針」にそって動いている。今回の法案で事態が大きく変わるとは私はあまり思っていません。すでに行われていることに対する法的追認という理解のほうが、私は正確なような気がしています。
小松 今までの流れの中の最後の上澄みとして今回の尊厳死法案があるということですが、事実上消極的安楽死がかなりの数行われていることは確かなものの、そういった事実があることと法律によってそれが保証されることとは段違いの差があると私は思っています。家族であっても本人であっても、消極的安楽死を選択すること、人工呼吸器などの不開始や中止−−今回の法案では中止については述べられていませんが−−を決めるまでにはかなりの葛藤があるでしょう。ところが、それが法律によって保証されるとなると、その葛藤がなくなってしまう可能性が大いにある。「尊厳」ということにも関わりますが、人間が自分たちの実存をかけて呼吸器を外す/外さないを決めていく重みがなくなる。要するに、法律に凭れて終わる。
その意味で、法制化した場合、尊厳死・安楽死をめぐる議論はおそらく後退していく。また、いったん制定した場合、臓器移植法と同様に「三年後の見直し」が法案の中で早くも謳われているわけですから、あとは手続きの話のみに収斂しつつ、尊厳死の対象や方法が拡大していくでしょう。
市野川 (中略)この法案は突然出てきたものではなく、これだけを切り出して論じても駄目で、これが出てくる文脈を20年くらいのスパンで押さえておく必要があるということは強調しておきたいと思います。(中略)第2次大戦後に日本で起きた安楽死事件はどれも家族(息子等)が身内(親等)を自宅で死に至らしめるというものでした。77年に末期ガンの妻を夫が病院で死なせる事件が起きていて、場所は自宅から病院に変わっているけれども、被告となったのは依然として家族です。ちょうどこの70年代の後半に日本では、施設内(病院等)で亡くなる人の割合が施設外(自宅等)を上回りました。そして、91年の東海大学付属病院事件では場所が病院であるだけでなく、被告も家族から医師に変わった。
2010年代の現在は8割近くの人が、病院や老人ホームといった施設で亡くなっています。その死のフロントに立たされているのが医療プロフェッションであり、そこでいろいろな問題が発生している。昔は家族が自宅で直面していた問題に、今は医療プロフェッションが病院等の施設で直面させられている。そういった変化も今回の法案の背景に見てとる必要があると思います。死の「病院化(hospitalization)」「施設化(institutionalization)」ということです。これは後で触れる、西洋社会で言えば約250年前に起きた死の「医療化(medicalization)」とは区別されるべき現象です。
小松 「死の病院化・施設化」は鋭い指摘ですし、私も東海大学病院の安楽死事件は大きな分岐点だったと思います。家の中で介護に疲れて絞め殺すというのは法的には個人に対する刑事事件として扱われる範囲ですが、それが一挙に医療制度の範囲にまで広がったことが今回の流れをかなり太くした。その意味で今回の尊厳死法案は、市野川さんのひそみにならうなら、「死の病院化・施設化」の「法制化(legalization)」と言えるのではないでしょうか。
法的なものへの欲動
小松 この「死の病院化・施設化の法制化」がまさに今回の尊厳死法案の具体的な中身にも関わっていて、「医師の免責」条項が入ってきていることに見てとることができます。(中略)法案名は「終末期の医療における患者の意思の尊重に関する法律案」と、あくまでも患者の意思の尊重が謳われているのですが、実質的には医師の免責が主眼になっています。
(中略)
市野川 ルールの明確化ということ自体は、私自身は重要な課題だと思っています。というのも、日本の終末期医療には密室的なものが多分にあるからです。先ほど小松さんは「葛藤」ということをおっしゃったけれども、誰がどういう考えや権限でもって治療を差し控えるのか、あるいは中止するのかというルールが日本の場合は不明確です。(中略)日本には裁判制度として「宣言的判決」に相当するものがありませんから、それぞれのケースに即して何が許され、何が許されないかという判断やルールが暖昧になりがちです。ですから、日本医師会が言っているように「医療倫理的にも、法的にも不明確な状態が続いている」ということ自体は考え直すべきだと私は思っています。
ただし、私が問題だと思うのは、日本ではルールを明確化するときに、いつも生に対してネガティブなほうにしかいかない。延命措置の差し控えとか中止のほうにしか話がいかなくて、終末期医療として最低限やらなければならないことが何なのかの明確化には向かわない。例えば人工呼吸器をつけられるという情報提供や、どういった支援が受けられるのかについての情報提供など、生命維持にとってポジティブなルールの明確化がきちんとなされているのかどうか。ポジティブなものに関するルールの明確化は、今回の尊厳死法案とは別にやらなければならないことだろうと私は思います。
(中略)
小松 まず、市野川さんも一言加えられていたように、ポジティブなルールの明確化は今回の流れとは全く違うわけですし、今回の流れにおいてはなかなか認められないのが実情だと思います。しかも、ポジティブなほうのルールの明確化も非常に難しい側面を持っています。それがマニュアル化することの危険性についてはどうお考えになりますか。
市野川 マニュアル化によって「葛藤」が削ぎ取られてしまう側面はあるでしょう。しかし、何が最低限なされなければならないのかということについての合意はつくる必要があると思います。確かに医療はつねにケース・バイ・ケースのところがあって、小松さんもよく引用なさるG・カンギレムの言葉で言えば、医者は「震えながら治療するということ」を自らに言いきかせなければならない(金森修監訳『科学史・科学哲学研究』法政大学出版局、1991年、463頁)。つまり、患者は一人ひとり違っているのだから、Aの患者に対してよかったことが、Bの患者に対しては全く逆に働くこともある。そうした個別性に向き合って医療は今でも行われているところが多分にありますから、個別性に向き合える裁量や自由度は残されなければなりません。しかし、ある医者は「人工呼吸器をつければこうしたことができる」と言い、他の医者は人工呼吸器という選択肢そのものについて何も言わない、あるいはネガティブな情報しか出さない、というようなばらつきがあるとしたら、それは考えなければならない問題だし、ある種のルールはみんなが守るべきものとして明確にする必要があると思います。
小松 最低限やれることを確認することは重要だと思うのですが、それが法律やガイドラインというかたちで一律化されることについては私はさまざまな点で懸念します。それから、何らかのルールづくり以前に、一体現場で何が行われているのかを徹底的に洗い出すことが必要だと悪います。おそらく消極的安楽死は非常に多くなされていますから、ある意味では危険なことかもしれませんが。
当Web注:日本臓器移植ネットワークは、2004年にNEWS LETTER Vol.8のp9http://www.jotnw.or.jp/datafile/newsletter/vol.8/P9.pdfで、1995−2003年の約9年間
に行なわれた1279件の臓器提供のうち、レスピレーターオフ後の臓器摘出が280件あったと報告している。日本臓器移植ネットワークの移植コーディネーター
である朝居 朋子氏は、自身の著書「いのちに寄り添って 臓器移植の現場から(毎日新聞社)」
において、15年間に100例の臓器提供に関与したことを書いているが、
レスピレーターオフ=人工呼吸器停止後の臓器提供例については、射水市民病院事件よりも大規模に、昔から人工呼吸器停止だけでなく臓器摘出まで多数を行なってきたことに注目を集めることを懸念したのか書いていない。
昇圧剤の中止による消極的安楽死後の臓器摘出例、そして法的脳死臓器摘出例のみ記載した。
長崎大グループは、心停止ドナーからの臓器摘出において、2006年を境に人工呼吸器停止後の臓器摘出を止めたが、代わりに一般的脳死診断を前提の生前カテーテル挿入に転換したこと、昇圧剤の中止は継続していることを2010年の第43回日本臨床腎移植学会で発表した。
自己決定(権)再論
市野川 先ほどこの20年間で、個人の自己決定の尊重という論理が、自己負担という論理と表裏一体になって強まったということを言いましたが、同時に自己決定の尊重も非常に限定されたものでしかなかったということは改めて強調しておきたい。(中略)2001年5月にハンセン病国家賠償訴訟で大きな前進がありましたが、他方で見捨てられたままの自己決定がある。この問題が等閑に付されたまま、終末期医療に限ってだけ個人の意思の尊重ということが云々されるのは、私はアンフェアだと思います。
小松 (中略)かつてのものが総括できたならば尊厳死法案はよいのかという問題があります。日本弁護士連合会も今回の尊厳死法案については、延命治療の不開始以前にインフォームド、コンセントや自己決定権などの患者の権利に関する制度や法が整っていないのでそちらのほうが先決だと主張しています。けれどもそうであるならば、そうした法制度が整った先には、「尊厳死を望む人もいれば望まない人もいる。両方の権利を認めることが民主的平等だから、自己決定権に基づく尊厳死法案にしよう」ということになりかねない。そして3年後の見直しでは、臓器移植法改定のときと同様、本人の自己決定権が取り外される道行きになると思います。そもそも臓器移植法の制定と改定の経緯に関して、特に日弁連には総括していただきたい歴史があります。1990年に大阪大学付属病院で脳死・腎臓移植を行おうとしたところ、大阪府警と日弁連から待ったがかかった。法整備がなされていないからと。そこから臓器移植法制定の伏流が前面浮上し、自己決定権を基軸にした臓器移植法が97年に制定され、そして2009年に自己決定権が半ば取り払われた法改定がなされた。今回の尊厳死法案に対する日弁連の姿勢には同種の危うさを感じます。
(中略)
小松 市野川さんは事態の根本変革ではなく「法=権利」の枠内で考え、それをよきものにするという改良主義的な傾向が強いように思われますが、自己決定権や生存権を国家に認めさせる、認めてくれという主張自体が事の本質を捉えていないのではないでしょうか。国家が権利を認めてあげるということは、結局のところ今回のような尊厳死法案に結びつくし、自らの自己決定権や生きる権利を国家に認めてもらうことは、そもそも国家に包摂されてしまうわけですから。自己決定権の保障と自己負担・自己責任の義務化とがセットになる所以です。
市野川 国家による内包や包摂だから駄目だというお話と理解しましたが、一口に権利や人権と言っても、例えば国際人権規約でも「自由権」と「社会権」という区別がありますよね。自由権は簡単に言えば国家からの自由です。他方、医療や福祉、あるいは社会保障に関連する社会権は、国家による自由と言えます。障害者自立支援法を例にとれば、自分の生き方を自分で決めていく権利を、国家や地方自治体による介助保障によって実現していくということです。それを国家に包摂される、内包されると表現するだけでよいのか。国家によって保障され実現される、社会権としての自己決定権があると思う。それを全否定するのは間違いだと思う。つまり、小松さんがおっしゃっているのは自由権としての自己決定権であって、社会権としてのそれが議論の射程から外れているように思いますが。
小松 そんなことはありません。やはり国家に対して「社会権を認めよ」という主張だと思います。私がかねてより一貫して述べているのは、国家に対して突きつけるべきなのは、自分たちの権利要求ではなく、「国家にはしかじかの義務がある」、「国家にはこれこれに介入してくる権限はない」と、国家の制約と否定のかたちをとらなければならないということです。近代民王主義はゾーエー(ただ生きていること)のビオス化(市民権化)を図ってきたわけですが、アガンベンの言うようにそこにこそ恐るべき落とし穴がある。つまり、そもそも権利の獲得や積極的な保護は、主権権力が備えている生殺与奪の権利に隷従する限りにおいて実現可能であり、であるからこそ、「民主主義が敵対者に対して決定的な勝利を収め、絶頂に達したと思われたまさにそのときに、全力を傾けてゾーエーの解放と幸福に努めた民主主義が、そのゾーエーを先例のない破滅から救うことができなくなった」(高桑和巳訳『ホモ・サケル』以文社、2003年、18−19頁)のではないですか。そしてまた、「ここに含まれる諸矛盾が解決されないかぎりは、[・・・・・・]ナチズムとファシズムは、悲痛なまでに今日的なものであり続ける」(同書、19頁)のではありませんか。
生権力と「人間の尊厳」
(中略)
小松 先ほどから話に出ている「現代思想」の93年の「病院都市」の特集で市野川さんは「生−権力論批判」という論考を寄稿されています。これはフーコーの「死なせるか生きるままにしておくという古い権利に代わって、生きさせるか死の中へ廃棄するという権力が現れた」という著名なテーゼの部分を実際のヨーロッパ、特にドイツ社会をもとに検証していくことによって、逆に歴史を再構成するかたちになっています。
市野川 93年の論文でも書きましたが、「死なせるか生きるままにしておく」「古い権利」の前提は、人びとは放っておいても生きていくということだと私は理解しました。その権利(な
いし古いタイプの権力)の実定性は、(中略)ある種の人間を生から出発して死に至らしめる(死なせる)ことで測られる。それに対して「新しい権力」すなわち主権力の前提は、その逆に死ないし可死性であり、放っておけば死へと落下していくようなものとしての生です。「生とは死に抵抗する諸機能の集合体である」というビシャの有名な定義がありますが、フーコーは
ビシャのこの定義から生権力をイメージしているのではないかというのが私の理解です。「死に抵抗する」という言葉でビシャは死を重力のようなものとして、生をその重力に抵抗するものとして理解している。そして、フーコ一の言う生権力の実定性は、死に抵抗して「生きさせる」ことで測られる。と同時に他方で、ある一群の人びとについては生きさせるというその作為を中止し、重カとしての死に委ねて落下させる。それが「死の中へ廃棄する」という言葉の意味だと私は思っているのです。
生権力の中で生じる死の中への廃棄は、端的には「自然死」です。そのようなものとして現出するという点にこそ「新しい」「生権力」の特質があるのではないか。
(中略)「社会的殺人」、つまり「殺人とは思えないような殺人」「殺人犯の姿が見えない殺人」「不作為としての殺人」、これが死の中へ廃棄する権力の肝だと私は思っています。分析的には誰かが死の中へ積極的に投げ込んでいるだけだと観察されうるでしょうが、そういうふうに見えた時点で生権力は失敗している。生権力の死の中への廃棄はつねに「自然死」として組み立てられる。そうでなければ、生権力における死の中への廃棄にはならない。尊厳死なるものも、すでに下降を始めている「生きるに値しない生命」に対して積極的に(あるいは不自然に)生きさせることをやめるだけだ、というロジックでその正当性が説かれる。
小松 重要なご指摘ですが、不作為が生権力の実体だとするのは無理があるのではないでしょうか。例えば脳死者を死の中へ廃棄するにあたって、結局は法律をつくりました。今回の尊厳死法案も、とりあえずは不開始だけだけれども、おそらく市野川さんも予想しているように、いずれ中止も出てくるだろうし、
今後植物状態の人など対象になる人の範囲は拡大していくと思います。死の中に滑って徐々に落ちていく人を足蹴にするようなかたちに見えないのが生権力だということですが、これは歴然とした作為ではないでしょうか。
市野川 人びとはまずそのようなものとして事態を受け取るということです。だからこそ、不作為として現出するものに作為を読み取っていくことで、生権力の批判が可能になる。今回の尊厳死法案の根幹にあるのも「不自然な延命治療をやめているだけです」というロジックですよね。生権力のレトリックは、死の中への廃棄は「作為」ではないというものです。あるいは、自然に生じているものをなぞっているだけだというものです。不作為ないし自然として現出しているものに作為や介入を見てとることが、生権力の批判なのではないか。
小松 (中略)「生きさせるか死の中へ廃棄する権力が現れた」というとき、手厚い生権力の加護の手を差し伸べて生きさせる者とその手を離す者−−私は死の中へ投げ込むのだと思っていますが−−をそもそも弁別しているわけですよね。(中略)フーコーは一
繋がりの人間種の中に境界線を引いて二つの人種に弁別するのだと単に言っているだけで、どうしてアーリア人とユダヤ人の間に境界線を引くのか、健常者と障害者の間に引くのか、どこに亀裂を人れるのかということに関しては何ら答えていないことです。私は「なぜ」と「いかに」は実は重なっている問題だと捉えていますから、結局両者に答えられていないと見ています。市野川さんに関しても、不作為という作為という論理は認めるとして、ではどうして不作為の対象がユダヤ人や障害者や脳死者であるのか、あるいは今回の法案のように末期状態の人々であるのか、このことに関しては答えられていない。私は生権力の核心はそこにあると思っているのですが。
(中略)権力があらかじめ生きるに値する人間と値しない人間とを弁別しているとして、ではその弁別線をなぜ特定の場所にいかにして引きうるのか、これこそが生権力の「核心中の核心」だと思います。その弁別装置が私の見方では、従来はまず疑われることのなかった「人間の尊厳」という概念です。
「人間の尊厳」とは、第二次大戦とナチスを総括した「世界人権宣言」にも「ドイツ基本法」にもトップで出ているものですね。アウシュヴィッツの悲惨な状況を踏まえて、「人間の尊厳」が何たるかがよくよく考えられることなく、おそらく自明のものとして導人され、現在に至っている。しかし、まさに今日のテーマである尊厳死の問題は、法案それ自体には「尊厳」という言葉は出ていないのだけれど、従前の議論では「尊厳を奪われた状態で生きるくらいなら尊厳に満ちた死を選ぼう」というかたちで、「尊厳」概念が基盤になってきた。推進する側も批判する側も、そもそも「人間の尊厳」とは何かということをほとんど論じないままなのが問題ですが、実は歴史的に続いてきた暗黙の「人間の尊厳」概念が「生きるに値する/しない」を二分する発動源になっていると思っています。
そこで歴史を批判的に辿ると、「尊厳(dignitas)」という言葉を最初に書名に導入したと言われているのが、15世紀のイタリアの人文主義者ピコ・デッラ・ミランドラの
『人間の尊厳について』(大出哲・阿部包・伊藤博明訳、国文社、1985年)です。(中略)まずピコが著書で冒頭から論じているのは「人間本性の卓越性」であり、(中略)ピコなりに考えてみると、神は世界を創造した後に、自分の偉業を賞讃する存在者を欲し、そのために最後に人間を創った。しかしすでに世界は万物で満たされており、上から神・天使・星辰・動植物という存在者の位階にあって、人間にはあてがわれるべき本性も場所もなくなっていた。それゆえ神は人間に自由意思を授け、人間はこの自由意思によって、上位の天使や星辰にも下位の動植物にもなることができるようにした。このように「カメレオン」のごとく千変万化できることが人間の卓越性だとピコは見るわけです。そしてビコにとってそもそも尊厳ある存在者とは高位の天使であり、人間が哲学と自由学芸を通じて理性を磨いて身体を斥け、高位の天使と比肩すべき位置まで達したとき、人間もまた尊厳ある存在者になる。それがピコの言う人間の尊厳です。
以上のような人間の尊厳をめぐるピコの議論で重要なのは、議論の大前提になっている事柄が三つあることです。まず人間の尊厳を論じるに際して存在者の位階的な序列が先行していることが一つ。そのとき、人間の卓越性や尊厳を考えるにあたって下位の動植物との比較・差異を持ってくるのが二つ目。そして三つ目は、なぜ人間が動植物より上かというと理性を有しているからであり、しかも理性を身体より上位のものと見なしていることです。これらの大前提が、以降さまざまな思想家やひいてはナチスを経て、現在に至るまで延々と続いていると私は見ています。
(中略)このような歴史的な「人間の尊厳」把握が爆裂したのがナチスの時代でしょう。周知のようにナチスはユダヤ人を数多くの“下等な”動物に譬えました。そしてユダヤ人は理性を備えていない寄生虫、ダニ、シラミ、ウジ、
カエル、ネズミだからこそ、尊厳のない存在者として捨て去ることが可能だった。理性がない者は尊厳がなく動物と同然だということで、アーリア民族との間に境界線を引くことができた。こうしてヒトラーは、国家という一大有機体を生権力的に生かして管理・訓育するために、国家を蝕む尊厳なき身体だけの非理性的存在者にすぎないユダヤ人や障害者を駆除して国家を治療しようとした。それこそナチスが行ったことの正体だろうし、現在の脳死者や尊厳死の対象者が死の中へ廃棄されることも同じことでしょう。つまりは、ナチスを総括して「人間の尊厳」概念を導人したはずの世界人権宣言やドイツ基本法自体が、はからずもナチスと同じ土壌にあり、その思想がさらに生命倫理に浸透して今日の尊厳死問題に至っている、と私には思われます。
市野川 (中略)何かを「尊厳」あるものと捉えるということは、それを「聖なるもの」として捉えることだと思います。(中略)聖なるものの要件の一つは「触れてはならない」ということです。触れてはならないという禁忌(タプー)が聖なるものを聖なるものにしている。小松さんがおっしゃった「人間の尊厳」をそのようにして読み替えてみると、「人間の尊厳」というのは、触れてはいけないものが人間にはあるという信念と言いかえることができるのではないか。
ドイツ基本法の第一条は「人間の尊厳(wurde des Menschen)は不可侵である」という言葉で始まり、「これを尊重し守ることは、あらゆる国家権力の義務である」と続きます。この「人間の尊厳」は生命倫理をめぐるドイツでの議論でも繰り返し言及されるもので、例えば受精卵の実験利用を禁じた1990年の胚保護法もその根拠の一つは、基本法の定めるこの「人間の尊厳」に求められた。受精した段階でそこに「人間の尊厳」を認めるべきであり、研究の自由等がそれに優越することはありえないというのが、胚保護法の論理でした。言いかえるなら、人間が例えば実験というかたちで触ってはいけないものが人間の受精卵にもあるという論理です。そのようにして作動する「人間の尊厳」は、手を触れてはならないという禁止を導き、介人を遠ざける。その意味での「人間の尊厳」は、小松さんがおっしゃった種別化をもたらすそれとは少し違うもののような気がします。
小松さんの議論だと「人間の尊厳」という概念そのものが境界をつくってきたから駄目だという話になりかけている気がしますが、他方で、人間の作為や介入を止める境界としての「人間の尊厳」、つまり「聖なるもの」としての「人間の尊厳」という概念もありうるのではないか。ナチスの一連の優生政策、つまり断種から始まって安楽死計画に至る一連の作為−−ただしレトリックとしてはあくまで「自然死」として正当化されたと私は思いますが−−に対して歯止めをかける「人間の尊厳」もありうるのではないか。
小松 私は連綿と続いてきた従来の「人間の尊厳」概念に根本問題があるということを言っているのであって、それを新たなものに鍛え直していかなければならないと思っています。もう一点、「聖なるもの」「触れてはならないもの」として措定された「人間の尊厳」の前提になっている「人間」把握がドイツでもどうかというと、まず「人格」ですよね。
(中略)その人格とは何かといえば理性を持った存在者です。受精卵は理性を有した存在者ではないのかもしれないけれど、理性を持っている存在者と受精卵との間で承認されるものが「尊厳」であり、少なくとも一方の側が理性を持った人格的存在者でないと尊厳が成立しない仕組みになっている。私が知っている限りのドイツの尊厳をめぐる議論は、アメリ力の生命倫理学に比べて圧倒的に重厚だけれど、尊厳が人格に置き換えられ、さらにそこに理性が前提とされていること自体は同様で、やはり伝統的なものの上に乗っかってそれを疑わないように見受けられます。しかも、アガンベンが生権力批判の中心に据えた「ホモ・サケル」、つまり殺害してもかまわない存在者こそが、元来は「聖なるもの」でしょう。
市野川 確かにそういう側面はあります。触れてはならないという境界設定が、死の中への廃棄と連動する可能性はあります。つまり、積極的な延命措置という作為を遠ざけるために、その不開始が「人間の尊厳」や「手を触れてはならない」という論理によって正当化される回路もある。
小松 今までの「人間の尊厳」のべースとなっているものが理性だとすると、「ただ生きている」に「理性」が備わったところが動物との決定的な差異になるわけですが、「理性を持った状態で生きている」という尊厳把握こそが私の批判する当のものです。というのは、そこでは理性がない状態になったら自ずと「人間の尊厳」もなくなることになってしまうからです。カントにせよ誰にせよほとんど同じ図式で、尊厳は「状態の価値」をめぐっている。だからこそ、優れた状態である存在者とその状態が損なわれた存在者、つまりは尊厳ある者と尊厳なき者とに二分でき、片方は死の中へ廃棄することがいくらでも行われてきた。では、対置するべき「人間の尊厳」なるものは何か。ハイデガーが置き去りにした「ただ生きていること」、ゾーエー、あるいは「裸のゾーエー」を静かに見つめて掲揚すること。「ただ存在すること」こそが「人間の尊厳」に他ならないと思っています。
その上で市野川さんがおっしゃった不作為の問題、ないしは「人間の尊厳」が現在の尊厳死法案では不作為というかたちで回収されるという問題に関してですが、一つ疑問に思うのは、積極的安楽死の場合はどうかということです。今はまだ消極的安楽死に留まっているから不作為というところで話は整合するように感じられるのですが、より積極的なものになったらいかがですか。
市野山 積極的安楽死も、レトリックとしては死期が切迫しているということが要件として出されますよね。つまり、死への斜面をすでに転がり始めているのだから、作為ではあっても、それは単に流れをアシストしているだけだと。英語圏では積極的安楽死を「医師が幇助する自殺(physician-assisted
suicide)」と表現することも少なくありませんが、作為というよりは、あくまでアシストだと思います。生権力のレトリックはそのように作動する。最初から殺人だとは見えないから、生権力のレトリックも支持を得るのだし、そういう側面を押さえておく必要があるのではないか。
(中略)
呼吸か「いのち」か
市野川 冒頭ではこの20年という話をしましたが、他方で桁を一つあげて200年ぐらいのスパンで考えるべき問題もあります。そこで問題になるのは、死の「病院化」や「施設化」とは異なる死の「医療化」です。
死の医療化は、西洋社会では18世紀後半から19世紀初頭にかけて生じていて、いわゆる「早すぎる埋葬」が一つの社会問題となり、死の厳密に医学的判定が求められる過程で生じています。(中略)先ほどふれたビシャは1800年に「生と死の生理学研究」を刊行していて、これはフーコーの言う生権力を考える上でも重要なテクストの一つだと思いますが、ビシャは機能的には「肺の死」、つまり呼吸の停止をもって人の死としていた。
先ほど小松さんは、「人間の尊厳」をめぐる議論は理性的な存在としての人格を措定し、それを基準に生きるに値するものとそうでないものの線引きをしてきたとおっしゃったけれども、西洋近代医学がはたして自己意識や人格性をべースに死亡判定を下してきたどうか。私はそんなことは決してないと思います。
ビシャによれば、時間的に見て最後に来るのは「心臓の死」だけれども、その前に生ずる「肺の死」によって静脈系の「黒い血」が動脈系の「赤い血」に刷新されずに、心臓の拍動によってそのまま全身に送り届けられることによって、全身に死が広がる。ビシャ自身の言葉を引用するなら、「窒息とは一言で言えば、あらゆる器官において同時に生じる一般的現象であって、どれか特定の器官に場所を占めるものではない」(『生と死の生理学研究』第二部、第八章)、「疾患は死一般の単に間接的な原因にすぎない。疾患が肺の死をもたらし、その結果、他のすべての器官の死がもたらされるのである」(同、第九章)ということです。そして、「身体/生命」でも強調しましたが、ビシャは「脳の死」をもって人の死とすることは早すぎるとした。
一言で言うなら、ビシャにとって人間はanima(呼吸)あってこそのanimal(動物)なんです。意識要件でも人格要件でもなく、呼吸しているかどうかでビシャは人間の生と死を分けたし、ビシャのこの考えは西洋近代医学が総体として受け入れたものだと言ってよい。そして、2012年の私たちもまた、ビシャのパラダイムの圏域にあると私は思う(拙稿「動物の人間化、人間の動物化」『現代思想』2009年7月号)。
私も出席していた2006年の脳死・臓器移植に関するあるシンポジウムで、フロアから「脳死はなぜ人の死と言えるのですか」という質問が出された。そのとき移植推進派のある医師は少し苛立ちながら、「脳死は人の死なんです。なぜなら、人工呼吸器がなければ、呼吸をしないので生きられないからです」と答えてしまった。ご本人もすぐに、しまったと思ったはずです。なぜなら、脳死状態の人も人工呼吸器によって「生きている」ということを、裏返しで認めてしまったからです。
脳死を人の死としたい人たちは、自発呼吸ができないから脳死は人の死であると言うけれども、他方で、脳死状態の人も人工呼吸器によってちゃんと呼吸をしているのだから、その人はまだ生きているし、「人間の尊厳」もあると考えることができる。ビシャはその両方に対して等しく根拠を与えていると私は思うし、その意味で私たちはまだビシャのパラダイムの内部にいると思います。
小松 今のお話は私からすると、「人間の尊厳」についてではなく死生に関することです。その上で先ほどの私の話との関連では、「人間の尊厳」はただ生きていることに理性などがプラスされた把握として続いてきたように小松は言うけれど、しかし「早すぎた埋葬」以降は、特にビシャに象徴されるように、死は身体をめぐっていて、ビシャが言う、呼吸の有無を起点に生きている/死んでいるを分けている、ということですね。
市野川 大元は一緒のパラダイムだろうということです。
小松 そのことによって何をおっしゃろうとしているのでしょう。
市野川 バイオエシックスが言うようなパーソン論はごく最近のことだということです。(中略)小松さんがおっしゃるような「人間の尊厳」という線引きがあったことも否定しないけれども、200年ぐらいのスパンで言えば、西洋近代医学の底流には呼吸の有無によって人の生死を分ける考え方が確実にあったし、今もあるということです。
小松 歴史的には死生を分かつ基準の主流が精神の有無ではなく身体にまつわる何かであったということは、その通りだと思います。『脳死・臓器移植の本当の話』(PHP新書、2004年)にも書きましたが、人間の死の基準の把握をめぐって、身体の死を重視する医学・生理学の流れと、精神に重きを置く宗教や哲学の流れの二つが別々にあり、前者が主流で優勢でした。そうした乖離がずっと続いてきたけれど、脳死を人間の死だとしたときに初めて二つの流れが「結婚」した。なぜなら、脳が一極的に精神を生み出す臓器であるという認識のもとに、「脳の生理的な死=精神の死=人の死」と考えられたからです。その意味では、1950年代から60年代にかけて、植物状態や脳死という概念が出てきた場面が極めて重要だと思います。
ただし、以上はあくまでも死生に関する話で、先ほど述べたような「人間の尊厳」をめぐる議論の歴史はさらに別立てです。しかし、別立てであったものの、やはり1950年代からのアメリカの議論で結びつけて論じられるようになっている。そもそもアリストテレスは、市民的な生としてのビオスを生物的な生としてのゾーエーより概して上に見ていたようですが、けれどもゾーエーにあっては植物的な生を動物的な生や理性よりも重視し、その見方は市野川さんの挙げたビ
シャを挟んで2000年以上にわたって続いてきた。ところが、1950年代から60年代にその序列が転倒して植物的な生が最下層に貶められる。そして、精神や理性を失った植物的な生だけの植物状態の患者や脳死者には尊厳がなくかつ死んでいるという図式が現れ、こうして尊厳の流れと死生の流れも「結婚」した、と私は概略見ています。
そのときもう一つ押さえなければならないのは、呼吸以上に“Integrity”という概念だと思われます。13世紀のトマス・アクィナスの『神学大全』の中にマティレーション
(身体切除)の議論が出てきます。神から与えられた人間の完全で統一的な身体を切除することが赦されるかどうかという議論で、トマスは本人の徳のためだったら、本人の全体を守るためだったら、部分の切除は赦されるという結論を下しています。以後その考え方でずっと来るのですが、臓器移植が登場し、
1940年代から50年代にかけて、移植のためのマティレーションは神学的に赦されるか否かの議論が起こります。臓器移植は本人のために切除するのではなく他者のために行うことなので駄目だという評価に初めはなるのですが、それに対して移植推進派の神学者が理論として引き出したのが「隣人愛」に他なりません。そこから「命の贈り物」という例の言葉がキヤッチフレーズとして捻出されたわけです。
話を戻すと、トマス・アクィナスが言っている“Integrias=Integrity”、これは直訳すると「身体的完全性」「身体的統一性」、ひいては「五体満足性」ですが、どうもそこには神から授かった完全で統一的な身体だから尊厳が宿っている、と同時に捉えられている節がある。おそらくはだからこそ、そのような完全な身体を
穢してはいけないという考え方が続いている。そして、先ほど述べたように移植のための臓器摘出も関係するのですが、その“Integrity”はむしろ「完全身体性」などというよりは端的に「尊厳」と訳してしまったほうが的確に
思える議論が1950年代にあり、その事態に大いに関係しているのが生命倫理の創始者フレッチャーです。つまり、これまで言われてきた“Dignitas”とは別に“Integrity”という尊厳概念の歴史があり、しかもそこでは身体概念と尊厳概念が神において結びついている。さらには、
1980年頃から脳死を人の死とする科学的根拠となってきた「有機的統合性」−−その論理の破綻を2008年に米国大統領生命倫理評議会は正直に認めましたが−−の原語は、“Integration”であり“Integrity”の類縁語に他なりません。
市野川さんは「ただ生きていること+理性」に対して少なくとも呼吸を中心とした生物学的な議論がありうるとおっしゃているのですが、「人間の尊厳」という問題に関しては、おそらくそれ以上に“Integrity”という人間の五体満足性のようなものをもって尊厳とする流れがあると私は見ています。
市野川 その存在は否定しません。ただそこにだけ話を限定してしまうと、この200年があまりに平板になってしまうし、今回の尊厳死法案に対する抵抗点はビシャの中にも見出せるということを言いたいのです。人工呼吸器によって呼吸が続いているのだから、間違いなく生きているし、人間であるというふうに言い切る根拠も提供しているわけですから。「ただ生きている」と小松さんはおっしゃるけれども、では「生きている」とはどういうことかとなったとき、ビシヤの考えは一つの抵抗点になりうるということです。
小松 呼吸を生きていることの在処とするのだとしたら、当然逆に「機械に生かされているだけ」、「人工呼吸器がなかったら生きていない者は死んでいるのだ」というほうへすぐに行くでしょう。このようにどちらにも行きうるときには力の大きさ次第で決まってしまうし、だからこそ尊厳死法案まで到来してしまったのではないでしょうか。
そう考えると、呼吸に特化する必要はなく、またどこかの機能や部分に特化する必要もなく、われわれは「そこにいる」ということをもっと認めるべきなのではないでしょうか。
市野川 近く発表されるご論考「『死への廃棄』と『身体利用』の基底へ−−生資本主義・生権力・人間の尊厳」(『実存思想論集』第二期第一九号、近刊)を、小松さんは「私たちが見つめるべきは
(・・・・・・)『ただ生きているだけ』にすぎない身体としてのゾーエーであるだろう」という言葉で結ばれていますが、「ただ生きている」身体の「生きている」ことはどのように根拠づけられるのですか。
小松 あえて言うなら、生理的な生命の真相は「体液(血液)の流動」だと思っていますが、しかし、「生きている」を生理学的に根拠づけるのではなく、また何かと定義するのでもなく、私たちは本当は「ただ生きているだけ」に尊厳なるものを感じてしまっているという事態を呼び起こして、その感覚を言葉にしていくことが重要だと思っています。例え
ば『長期脳死−−娘、有里と生きた一年九ヵ月』(岩波書店、2009年」を書かれた中村暁美さんがテレビなどで繰り返し述壊しているのは、長期脳死者の「娘は生きる姿を変えただけなんです」ということです。それは呼吸という一個の生理機能の存在ではなく、ただそこにいるということを体感し、それがその言葉に結晶化しているのだと思います。理性が消失したりある状態が損なわれて生きる姿を変えるということは、従来は「人間の尊厳」を失うこととされていました。しかし、何かが失われて状態が変わっても、生きていることそのものを彼女は全面肯定している。
市野川 中村さんが娘さんについて「生きる姿を変えただけ」と言うとき、それは白骨とは違うし、解剖実習に付される死体とも明らかに違うと忘う。小松さんの言うように、生きていると思えば生きているし、あるいはかたちを変えた生なのだということになると、白骨や解剖用の死体も生きているということになってしまいませんか。「生きている」という実感の根拠として、私は呼吸があるのだと
思うのです。
小松 だとすると「何か+呼吸」ということで、呼吸が失われたら生きていない、あるいは呼吸が失われた者は尊厳がないということになりますよね。例えば中村さんが「姿を変えただけ」と言うとき、それを感じさせる何かのことをわれわれは「いのち」と呼んできたのだと思います。その「いのち」とは何か
ということをそれ以上分節化する必要も科学化する必要もない。
市野川 しかし、医学が人間の生と死についてこれだけ大きな権限を持っているとき、医学自体は小松さんがおっしゃった生命観で動いていないところもある。そのときどこで留まるべきなのか。それを近代医学に向かって説得する
一つの根拠は、呼吸している存在を生きていると見なすことに求められると私は思うのです。そう言いながら死を医療化してきたのは、あなたたち自身でしょ、ということです。
小松 そこは半分認めて半分否定したいのですが、まず私はだからこそ脳死を人の死とするあらゆる論理を医学の土俵に自ら入って論理的・科学的に論破してきたつもりです。その上で、先ほどの自己決定・自己決定権の話のとき、「国家にはわれわれの自己決定を踏みにじる権限はない。国家には○○する義務があるのだ」と向こうに突き付けるやり方をしなければならないと言ったのと同様に、「現に機械の助力によって呼吸をしているこの人が死んでいるはずはないじゃないか」と批判すべきなんです。呼吸がある者が生きている者だと一義的に規定するのは、結局は新たな「生きるに値する
/値しない」の境界線をもたらし、排除を引き起こすことになる。
繰り返しますが、「人間の尊厳」は相互の関係の中に湧き上がってくるものだと思います。そのとき何を感じたために、何を見たために「尊厳」なるものが湧き上がってくるかというと、「いのち」に
他ならない。ただそれだけのことです。自然主義・生物学主義でも反自然主義・反生物学主義でもそれを分節化して定義していったとき、死権力が顕現し、「死の中への廃棄」がなされる。とりもなおさず「尊厳死法案」とはその種のものです。
市野川 おっしやることに反対はしません。ただし、今言った西洋近代医学の論理はきちんと思い出していただく必要があるということは、特に医師たちに繰り返し言っておきたい。どうして脳死は人の死なのか。それを近代医学のロジックでちゃんと説明してもらったことは、私自身はありませんから。
2012年5月7日収録
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