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2012年1月31日 倉持氏:脳死への疑念の源は、長期生存可能な臓器ドナー適格者
小松氏:臓器確保が至上命題 デッドドナールール撤廃に進む米国
福嶌氏:三徴候がすべて揃っても、死亡しているとは限らない
会田氏:脳死の二重基準が妥当、選択肢増やし実情に対応
粟屋氏:人を幸せにしない倫理や法に存在価値はあるのか
島氏:すでに行なわれている積極的安楽死ドナーに無知
シリーズ生命倫理学 第3巻 脳死・移植医療
2012年1月26日 法的「脳死」臓器移植患者の死亡は累計76名
肝臓移植患者1名が死亡
2012年1月13日 法的「脳死」臓器移植患者の死亡は累計75名
腎臓移植患者1名、肝臓移植患者1名が死亡
2012年1月 1日 インテンシヴィスト「End-of-life」を特集
射水市民病院事件の伊藤医師:人工呼吸器取り外しで患者に苦痛を与えるな、脳死状態の診断技術が重要
川崎協同病院事件の須田医師:現在の法律上、延命治療の中止が許されているのは、脳死くらいではないか
飯塚氏:倫理委員会は、事実上、医療者と切り離せない関係にあり、決定事項の正当性には疑問の余地あり
松崎氏:脳が完全回復する見込みがない場合に延命治療を望まなかった患者、ドナーとなるも心停止せず

矢口氏:ベルギーの集中治療医「臓器提供は生贄だよ」、医療従事者のみで終末期治療方針決定は事実
後藤氏:オーストラリア 移植患者の利益になるヘパリンの投与、カニュレーションは許可されていない
川口氏:海外PICUの死亡事例、20〜55%が生命維持治療の中止決定後に死亡、半数は脳死症例
橋本氏:子どもからの臓器提供 “奇跡”が起こるのではないかといった家族・医療者の心の有り様
   

20120131

倉持氏:脳死への疑念の源は、長期生存可能な臓器ドナー適格者
小松氏:臓器確保が至上命題 デッドドナールール撤廃に進む米国
福嶌氏:三徴候がすべて揃っても、死亡しているとは限らない
会田氏:脳死の二重基準が妥当、選択肢増やし実情に対応
粟屋氏:人を幸せにしない倫理や法に存在価値はあるのか
島氏:すでに行なわれている積極的安楽死ドナーに無知
シリーズ生命倫理学 第3巻 脳死・移植医療

 丸善出版から、2012年1月31日付で「シリーズ生命倫理学 第3巻 脳死・移植医療」が発行された。A5判274ページ、内容の一部(p7まで)はhttp://pub.maruzen.co.jp/book_magazine/view/9784621084809.htmlで読むことができる。以下は注目される記述。

 

第1章 合法性と倫理性(倉持 武 元松本歯科大学 教授)

p6〜p7  心停止下臓器移植
 仮に提供臓器数が大幅に増えたとしても「臓器不足」が解決するわけではない・・・(中略)・・・
 移植関係学会合同委員会が1997年7月29日に発表した移植適応基準によれば,心臓および肝臓の適応基準にはいずれも「不治の末期的状態」が,腎臓の場合には「末期腎不全」が,肺の場合には「残存余命が限定される」という条件が人っているので,私には「4〜5年待機可能な「末期腎不全」の腎臓移植レシピエント候補」とか「平均待機日数が1,000日以上の「不治の末期的状態」の心臓移植レシピエント候補」ということが理解できない.彼らあるいは彼女らは何を根拠に「末期」といわれ,移植が必要だといわれているのだろうか.移植が必要なのは,救命のためなのだろうか,QOLの向上のためなのだろうか.それとも医療費削減のためなのだろうか.現在,親族への優先提供に絡んで適応基準の見直しが各作業班で臓器ごとに進行中だが,暖味な余命予測をそのまま容認したり,あるいは余命予測を移植適応基準から外して適応症だけで決めたり,適応症を拡大したりし続けるならば,「移植が必要」と医師から告げられる患者の数はさらに増加し 脳死患者全体の数をはるかに凌駕することになるのは必定だろう.再移植患者数はまだ少ないようだが,移植臓器の耐用年数は一般に10〜11年,若いレシピエントは生涯で3〜4回前後の移植が必要と見込まれているので,再移植を必要とする患者の数もこれからは増加の一途をたどるに違いない。
 これは脳死移植だけではすべて「移植が必要な人を救うことはできないということを意味している・・・(中略)・・・法的脳死判定を避ける方法の1つとして,「心停止下移植」の名のもとに増えていくことだろう・・・(中略)・・・NHBDの場合のドナー管理および心停止不可逆性確認の適切性について徹底的な議論が不可欠だと考える.

当Web注:p7の注11は、広義の心停止下移植のインターネット情報を“「脳死・臓器移植に反対する関西市民の会」ホームページ、特にhttp://www6.plala.or.jp/brainx/NHBD.htm”としているが、http://www6.plala.or.jp/brainx/NHBD.htm(心停止後臓器提供の終焉)の開設者は守田 憲二。また、このサイト内には
「脳死」小児からの臓器摘出例
「心停止後」と偽った「脳死」臓器摘出(成人例)
心停止ドナーの管理
心停止ドナーからの臓器摘出時の麻酔管理例
注11で紹介されている「季刊 福祉労働」 127号参考文献がある。

 

p9〜p11 長期脳死・脳死からの回復
 脳死妊婦からの出産はかなりの数があるし、「一項目でも満たされない場合脳死は否定される」と脳死判定基準に明記されている事態の再出現の報告は数えきれない。

当Web注:上記に付記されている注15は、“守田憲二氏のホームページ「「心停止後臓器提供の終焉」」http://www6.plala.or.jp/brainx/NHBD.htmに非常に多くの例が載っている”とし たが、正しいURLは
小児脳死判定後の脳死否定例http://www6.plala.or.jp/brainx/recovery3_15.htm
脳死妊婦の出産例http://www6.plala.or.jp/brainx/birth.htm#bdbirth
臓器摘出時に脳死ではないことが判ったケースhttp://www6.plala.or.jp/brainx/wrong.htm
人工呼吸器の停止後に脳死ではないことが判ったケースhttp://www6.plala.or.jp/brainx/respirator.htm

 

p11〜p14 脳死判定基準の欠陥
 
唐沢、實渕および守屋氏らの研究からいえることは,中枢神経抑制剤の影響を完壁に排除した脳死判定というものは原理的に不可能だということである.
 2つ目の欠陥も唐沢秀治氏の指摘から導き出されるものである.唐沢氏は脳死と判定された患者には@非常に不安定で,いかなる治療を施しても短期間で死亡する群に属する者と,A不安定な急性期を乗り切れば比較的安定し長期に生存し続ける群に属する者の両者がいる,と指摘している.前者は全中枢神経死に近い群,後者は植物状態にきわめて近い群といってよいだろうと思う.全中枢神経死に近い群に属する脳死患者は長期脳死にはならないしおそらく,ラザロ徴候も生じないし,「一項目でも満たされない場合は脳死は否定される」と脳死判定基準に明記されている事態を再び出現させることはないだろうと推察される.我々が脳死患者に対して抱いているイメージどおりの「脳死」である.これに対して,ドナーとして最適な,植物状態にきわめて近い群に属する脳死患者は,長期脳死にもなるだろうし,妊娠していれば出産可能だろうし,ラザロ徴候も生じさせるだろうし,「一項目でも満たされない場合は脳死は否定される」と脳死判定基準に明記されている事態を再び出現させもするだろう.臓器摘出に際しては,筋弛緩剤や麻酔が使用されなければ血圧や心拍を急変動させるだろうし,メスから逃れるように体を動かすだろうし,冷や汗を流し続けることだろう.脳死に関して抱かれる疑念の源は彼らにあると考える.我々が脳死についてもっているイメージは無動で,短時間で心停止に至る全中枢神経死に近い群に属する脳死のものであるから,そのイメージから大きく外れる長期脳死患者など植物状態にきわめて近い群に属する脳死患者の存在にとまどってしまい,次々と疑念が生れてくるのである。
 最大の問題は、脳幹死説あるいは全脳死説に基づく脳死判定基準は、脳血流検査を必須検査とするなどいかに厳密化したとしても、この2つの群を区別できないということである。

p14〜p15 死亡判定基準・治療停止判定基準
 「脳死は一律に人の死」を実践するには大変な困難が伴うということも忘れてはならないだろう・・・(中略)・・・現在、日本では年間100万人強の人がお亡くなりになる・・・(中略)・・・2度の無呼吸テストと6時間以上の経過観察が必要である。毎年10,000件以上のこのような脳死判定を行なっていたら、救命救急医療は脳死判定医療に変じ、死亡判定のための医療費は総医療費に甚大な影響を及ぼすこと必定である。脳死判定基準を緩和すれば「脳死」の意味がなくなってしまうし、脳死判定対象を臓器提供可能者に限定するならば、死亡判定としての脳死判定は臓器移植のために必要とされているのだという本質がむき出しになってしまう。

 

 

第3章 脳死論(小松 美彦 東京海洋大学海洋科学部 教授)

p45〜p47 ハーバード大学「不可逆的昏睡の定義」の登場とその陥穽
 脳死判定基準自体によって判定されるのは、決して死の到来ではなく、脳死状態の到来にすぎない。たとえ今後、いかに脳死判定基準が厳密化し、判定技術が向上しようとも、事態は変わらない。なぜなら、判定基準で確定される脳死と個体全体の死とは別次元の事柄だからである。両者をつなげる論理を欠いたまま等値することは、「カテゴリー錯誤」にほかならない。そして、そのカテゴリー錯誤を無理押しすることは、心臓ペースメーカーや人工透析機の助力で生きる心不全や腎不全の患者を死者と断定することと同然であろう。

p51〜p52 体動の存否
 脳死者にはラザロ徴候を示すような生理状態が保たれている場合が多いため、臓器摘出の際に麻酔や筋肉弛緩剤による処置がなされている。なぜなら、そのまま脳死者を執刀すると、脈拍や血圧が急上昇し、暴れて摘出手術が困難になるからである。いうまでもなく、解剖実習や検死解剖で遺体を薬物で鎮静化しないのは、正真正銘の死体だからにほかならない。してみると、脳死者に対してだけそうする理由は、いかに弁明されようとも、歴然としているだろう。

当Web注:上記に付記されている注9は、“麻酔や筋肉弛緩剤の投与については、「死体からの臓器摘出に麻酔?(http://www6.plala.or.jp/brainx/)が最も詳細に返している」”としたが、正しいURLは同サイト内の
臓器摘出時の麻酔管理例http://www6.plala.or.jp/brainx/anesthesia.htm

 

p52〜p55 心停止までの時間と長期脳死
 (長期脳死について)臓器移植法改定の中心的役割を担った河野太郎衆院議員は、自身のブログ「ごまめの歯ぎしり」(2004.2.17)に、「アメリカの見解」として次を掲載した。「例えて言えば、首を切り落とされて走り回っている鶏を、さらに長時間走り回らせることができるようになっただけで、死んでいることには変わりはない」。また、日本移植学会理事の相川厚は、前記 「毎日新聞」(2007.10.12朝刊) の記事をこう批判した.。「これらの事例はすべて脳死ではありません。脳死判定するうえで欠くことのできない無呼吸テストが全例について行われていないからです」。さらに、日本移植学会理事長の寺岡慧は、臓器移植法改定をめぐる参議院厚生労働委員会 (2009.7.2) において、次のごとく明言したのである。

 最近繰り返し報道されているいわゆる長期脳死につきましては、法的脳死判定の基準あるいは小児脳死判定基準を完全に満たしている事例は存在せず、脳死とは言えません。すなわち、無呼吸テストが実施されておらず、またその他の判定基準も一部しか満たしていないのが事実です。・・・・・・さらに、本当に脳死であれば、人工呼吸器による呼吸管理に加えて、ピトレシンなどの脳ホルモンの投与、輸液による体液の調整、昇庄剤の投与などを必要とし、一般家庭でのケアは到底不可能です。実際に脳死でないにもかかわらず脳死とすることは、医学的にも倫理的にも決して許されないことです。

 ・・・(中略)・・・長期脳死一般を否定した寺岡理事長の発言は、さらに重大である・・・(中略)・・・寺岡は同国会でまさに竹内班の報告書を援用したにもかかわらず、かように証言した。となると氏は、長期脳死を巡る事実を隠蔽し虚言を弄した可能性がある、とみなさざるを得ないのではないか。・・・(中略)・・・寺岡の国会での責任発言は、「医学的にも倫理的にも決して許されないこと」なのではあるまいか。

p57〜p61 近年の米国の動向
 (2008年の「死の決定に関する論議 大統領生命倫理評議会白書」について)粉飾を凝らした「肯定論」とは、つまるところ、「呼吸と意識の消失が人間の死(の基準)なのだから、それらを消失した脳死者は死んでいる」と反復しているにほかならない。
 以上、有機的統合性論の破綻を認めた「白書」の肯定論は、あらかじめ破綻しているといえよう。それは有機的統合性論にも劣る“循環論”にすぎない。・・・(中略)・・・

 なるほど「白書」はデッドドナールールの厳守を訴える。だが、移植先進国の米国全体は「全脳不全=人の死(の基準)」、操作的心停止後臓器提供、デッドドナールールの撤廃、この3種の道を突き進むのだろう。そこに共通するのは、臓器確保という至上命題にほかならない。

 

第6章 小児の脳死移植T(福嶌 教偉 大阪大学医学系研究科 寄附講座教授)

p108〜p110 脳死とは
 
三徴候死を迎えたばかりの人を考えてみると・・・(中略)・・・AEDを作動させると、心臓が動き出し、人工呼吸をして酸素を肺に送れば、その人は意識も息も取り戻すことがある。つまり、三徴候がすべて揃っても死亡しているとは限らない。

当Web注:「心停止後」と称する臓器摘出では、草創期から死亡宣告後に心臓マッサージ、人工呼吸が行なわれ、三徴候による死亡宣告を形骸化してきた。

 

第10章 脳死の「理」と「情」(会田 薫子 東京大学大学院人文社会系研究科 特任研究員)

p191〜p193 看取り医療の選択肢としての臓器提供
 
脳死の状態になったら,そのまま看取り看取られるよりも,臓器提供することによって他者のために役立ちたいと考える人もいる.そのような場合,臓器提供は看取り医療の選択肢の1つとなろう.何かできることが残されている−−−それが慰めになり,グリーフ・ワークとなる場合も少なくないと,家族ケアに重点を置く医療者は語っている。
 このようにドナーになろうと考える人たちの意思を生かすためにも,脳死の二重基準は有用である.冒頭で述べたように,日本社会は脳死体からの臓器提供を受ける移植医療の実施を法制化している.したがって,レシピエント候補には移植医療を受ける機会が提供されるべきであり,病む人を助けるためにドナーになろうとする意思は,それが本人のものでも家族のものでも,尊重されてしかるべきである.
 ただ,臓器提供という選択肢を提示する際に,紛らわしい言説によって,移植医療と臓器提供に過度の美名を付すことは慎むべきであろう.現代では科学的でも論理的でもないことが明らかになった脳死の概念を使用していることや,完全脳不全の状態の患者に「死体」というラベルを貼ること,移植医療には生きた健康な臓器が必要であり,脳死体を死体と法的に認定しなければ脳死からの臓器提供は困難になることなど,脳死と臓器移植についての現状の事実と矛盾を,淡々と率直に,ドナー候補となる可能性がある一般市民に広く知らせる必要があろう.その上で,それらの事実が各人の価値づけによって判断され,臓器提供するという意思決定がなされた場合は,社会はその意思をありがたく受け止め,尊重する.現代の脳死臓器移植で必要なことは,こういうことなのではないだろうか.

p193〜p194 おわりに 現代という時代を超越した着地点
 一律に「脳死は死」と強弁することは,時代に逆行して時計の針を回すことであり,科学的に不誠実であり倫理的に不適切である.看取り医療の提供という点からも,脳死診断の時点を一律に死とすれば,家族への説明としてはその時点で一律に患者の死亡を告げることになり,そうなると,その後に受容の援助を行うといっても,それは家族の視点からも困難になる.一方,脳死の二重基準に対しては,ご都合主義であり便宜的であり,もともと政治的な妥協の産物であるとの批判があるかもしれない.しかし,死の基準が意味するところを考えると,現代,科学的にも実はこれが妥当な解であることが明らかになってきたといえるのではないだろうか.
 (中略)21世紀初頭という今の時代において,脳死の概念と定義と診断基準の間の齟齬は明らかである.現状でいえることは,脳死の診断は死の診断ではなく,予後診断ということである.一方,脳死から臓器提供を受ける移植医療は必要であると社会が認定し、予後絶対不良の脳死患者からの臓器摘出を法制化している。この状況において、脳死の二重基準は人生最後の選択肢を増やすものであり、「理」の面で科学の現状に沿い、「情」の面で社会に実情に対応する,現代の脳死の社会的構成概念であると考える。

当Web注:加藤 抱一医師は、「回復は絶望的」と診断されていたが低体温療法で社会復帰した。聖路加国際病院では、心肺蘇生後にDNARのリビング・ウィルが判明し 、不可逆的な脳不全で終末期と判断したが、低体温療法下における誤診で、患者の脳機能は回復して退院した。予後絶対不良の診断も、実態との齟齬がある。リビング・ウィルにもとづき臓器提供が行なわれた場合、取り返しのつかない事態に至ったケースだ。法的脳死臓器提供においては、脳死判定が確定する以前から脳不全を悪化させかねないドナー管理がメディカルコンサルタントにより、制度化して行なわれている。会田氏の「着地点」は、科学の現状に沿わない、臓器提供現場の実情を踏まえていない、縮命を一方的に促進する提案となっている。

 

 

第12章 臓器売買(粟屋 剛 岡山大学大学院医歯薬学総合研究科 教授)

 臓器売買の実態を紹介するとともに、「臓器は物ではないといえるか」「臓器は取引の対象にできないものか」「臓器を売る権利はあるか」「臓器に値段がついて当然か」「臓器売買はドナーの人権や健康を侵害するか」「臓器売買はドナーからの搾取か」「臓器売買は人間の尊厳を侵害するか」「臓器売買は必要悪か」など、臓器売買の論理と倫理を考察している。p230のおわりに の文末は腎臓を売って「今大変幸せだ」といっていた男性を紹介し、「腎臓を売った時代に禁止立法ができていたら彼の幸せはなかっただろう。人を幸せにしない倫理や法に果たして存在価値はあるのか」。

 

 

第13章 外国の移植事情(島 次郎 自治医科大学 客員研究員)

p237〜p238 心停止後ドナー 実施状況
 通常の心肺停止後の提供だけでなく、まだ脳死状態に至らない末期の段階で、生命維持装置の停止を医師と家族が決定し、心停止に至らしめ、臓器を摘出する方式である。すでにいくつかの国で、この方式による臓器提供が進められている・・・(中略)・・・その方法からみれば「消極的安楽死ドナー」というべきかもしれない。この提供方法に対しては、家族の同意だけで提供者の死期が早められるおそれが脳死下提供の場合よりも大きくなるので、強い抵抗が予想される。特に日本では、脳死を人の死と見なすことに対し、依然異論が絶えないことが2009年の法改正の議論で示された。心停止後ドナーの提唱は、脳死よりさらに前の段階での治療中止を想定しているので、激しい論議を引き起こすだろう・・・(中略)・・・このように海外でも進展してきている心停止後ドナー方式が、WHOからも推奨されていることにどう対応するか、日本でも議論しておくべきではないだろうか。

当Web注:日本における生命維持装置の停止による人為的心停止後の臓器摘出が、すでに行なわれていることは本書の第1章、第3章でも触れられている。
 積極的安楽死ともいえる凍死殺害後の臓器摘出は1968年7月23日に実施された。1990年に 日本移植学会雑誌「移植」(25巻4号、p457〜p461)は、1988年末までの5年間に行われた429例の死体腎摘出のうち、67例(15.6%)が人工呼吸器を外して無呼吸を確認後に腎臓を摘出、133例(31.1%)が人工呼吸器を外して心停止を待ち腎臓を摘出したとを報告している。
 日本臓器移植ネットワークは、2004年にNEWS LETTER Vol.8のp9http://www.jotnw.or.jp/datafile/newsletter/vol.8/P9.pdfで、1995−2003年の約9年間でレスピレーターオフ後の臓器摘出が280件あったと報告している。
 「心停止後」と称する膵臓摘出・膵島採取のために、1997年9月29日、公衆衛生審議会難病対策部、臓器移植専門委員会は人工呼吸器の中止を含む「心停止下における膵ドナーの摘出条件」ガイドラインを策定し、すでに実施されてきた。

 


20120126

法的「脳死」臓器移植患者の死亡は累計76名
肝臓移植患者1名が死亡

 日本臓器移植ネットワークは、1月26日に更新した移植に関するデータページhttp://www.jotnw.or.jp/datafile/offer_brain.htmlにおいて、法的 「脳死」臓器提供にもとづき肝臓移植を受けた患者の死亡が1名増加 し、法的「脳死」臓器移植患者の死亡は、心臓4名、肺26名、肝臓27名、膵腎同時6名、腎臓12名、小腸1名の累計76名に達したことを表示した。

 これまでの臓器別の法的「脳死」移植レシピエントの死亡情報は、臓器移植死ページに掲載。

 


20120113

法的「脳死」臓器移植患者の死亡は累計75名
腎臓移植患者1名、肝臓移植患者1名が死亡

 日本臓器移植ネットワークは、1月13日に更新した移植に関するデータページhttp://www.jotnw.or.jp/datafile/offer_brain.htmlにおいて、法的 「脳死」臓器提供にもとづき腎臓移植を受けた患者の死亡が1名、そして肝臓移植を受けた患者の死亡も1名増加 し、法的「脳死」臓器移植患者の死亡は、心臓4名、肺26名、肝臓26名、膵腎同時6名、腎臓12名、小腸1名の累計75名に達したことを表示した。

 これまでの臓器別の法的「脳死」移植レシピエントの死亡情報は、臓器移植死ページに掲載。

 


20120101

インテンシヴィスト「End-of-life」を特集
射水市民病院事件の伊藤医師:人工呼吸器取り外しで患者に苦痛を与えるな、脳死状態の診断技術が重要
川崎協同病院事件の須田医師:現在の法律上、延命治療の中止が許されているのは、脳死くらいではないか
飯塚氏:倫理委員会は、事実上、医療者と切り離せない関係にあり、決定事項の正当性には疑問の余地あり
松崎氏:脳が完全回復する見込みがない場合に延命治療を望まなかった患者、ドナーとなるも心停止せず
矢口氏:ベルギーの集中治療医「臓器提供は生贄だよ」、医療従事者のみで終末期治療方針決定は事実
後藤氏:オーストラリア 移植患者の利益になるヘパリンの投与、カニュレーションは許可されていない
川口氏:海外PICUの死亡事例、20〜55%が生命維持治療の中止決定後に死亡、半数は脳死症例
橋本氏:子どもからの臓器提供 “奇跡”が起こるのではないかといった家族・医療者の心の有り様

 メディカル・サイエンス・インターナショナル発行のINTENSIVIST(インテンシヴィスト) 2012年1号は、特集:End-of-lifeを掲載した。以下は同書から注目される部分。

 

*伊藤 雅之(高岡みなみ病院外科、元射水市民病院外科部長):拝啓 これからの日本の医療を担う医師の皆様へ 正義も人権もベッドサイドにのみある、p130〜p132

 「終末期にある患者に人工呼吸器を装着すること」の是非は、目の前の患者の意思だけではなく、その病態や、なされてきた医療行為の流れのなかで決断されなくてはなりません。家族環境などによっても違ってきます。私の経験では、延命治療を行うか拒否するか、という事前の“抜け目ない”書類作成には違和感があります。終末期でも、肺炎やその他の合併する疾病を乗りきることができれば、いったん人工呼吸器から離脱して退院できる患者は少なからずいるのです。「自己決定」にすべての権限と責任を負わせることは、医師の責任逃れにすぎないと考えます。

 (中略)入院患者が急変して、人工呼吸器を装着するか否かのとき、その決定は主治医の裁量にかかっています。救命のために最大の尽力は当然のことです。心拍が再開して自発呼吸が出てくれば、意識の回復を期待して集中治療は継続されます。急変の知らせで駆けつけた家族は、意識が回復することを祈りながら主治医の状態説明を聞くでしょう。この時点では、「人工呼吸器を取り外す」ことなど議論をする余地はありません。一連の流れのある救急医療の現場だからです。

 「脳死」は見えない死、と表現する人もいますが、人工呼吸器が装着されたときにみられていた表情筋の動きや、季肋部の微細な動き、咳反射、対光反射などは「生きているというリアリティ」を与えてくれます。医師や医療スタッフのみならず、傍らで状況を見守っている家族にさえも「生きているリアリティ」として映っているものなのです。「生きているリアリティ」が失われたとき、脳死状態に陥った疑いをもって医師は検証 (人形の目現象、各種神経反射、対光反射など)を行うのです。
 「脳死状態」は救命できないことや医療行為を断念しはなくてならない状態ですから、救命を願っている家族にはその可能性がなくなったことを説明しなくてはなりません。そのときに家族がその説明をどのように受け止めるのかが、大変重要なことです。「人事を尽くした結果なのだ」と静かな諦観をもって受け人れている家族なのか、あるいは説明に納得できず患者の死が受け入れられていない家族なのかで対応はまったく違ってきます。つまり、医師と患者・家族との信頼関係と、患者の死の受け入れがあって初めて人工呼吸器を取り外すことによる「看取り」が実現できるのです。その際、気をつけなくてはならないことが1つあります。「人工呼吸器を取り外したことにより患者に苦痛を与えたような印象を、家族に与えてはいけない」という配慮です。だからこそ、脳死状態の診断技術が重要なのです。
 私は上述の一連の流れは、責任ある立場で働いてきたまっとうな医師なら当然経験してきたものと考えています。「脳死状態」について所見をとったことも、説明をしたこともないとすれば、臨床医としては極めて経験が浅いか、ベッドサイドよりもデスクワークを優先する医師であるかのどちらかでしょう。
 (中略)警察の聴取だけではなく医療管理者からも「放っておけばどうせ死ぬのに、なぜ人工呼吸器を外したのか?」というお行儀の悪い質問を受けましたが、「亡くなるのであればせめて人工呼吸器を外してあげたい」という家族の気持ちのわかる医師であるべきと考えます。

 (中略)看取りを実現する環境は平易なものではありません。しかし、適切な医学知識と「人事を尽くした」ことへの患者、家族の納得のなかで、主治医として「看取り」の実現が必要と考えるならば、「心の命ずるまま」に行動することです。それこそが、求められる道徳的な臨床医の姿だと思います。
 (中略)今の日本の医療を支えているのは、権威的な学会や病院管理者などではなく、ベッドサイドに寄り添っている若い皆さんなのです。正義も人権も、ベッドサイドにしかありません。これからも、若い皆さんが多くの人たちの人生の終焉にかかわれることの光栄さに感謝して、積極的にかかわれる医師であることを切に願っています。

当Web注:中島 みち著の“「尊厳死」に尊厳はあるか”(岩波新書、2007年)のp28〜p50によると、射水市民病院事件で人工呼吸器を停止された患者概要は下記枠内のとおり。人工呼吸器の装着を拒否した患者への装着、人工肛門造設の是非が指摘されるなど、過剰医療の疑いがある。縮瞳や糖尿病など脳死判定対象外患者への脳死判定の強行など、脳死診断技術にも疑いがある。さらに人工呼吸器を停止してから心停止までの時間が20分、28分、100分など、脳死と誤診したがために呼吸困難下に弱い自発呼吸で死を迎えたと予想され、「人工呼吸器を取り外したことにより患者に苦痛を与えた」可能性もある。

症例 人工呼吸器装着につながった原因 心停止までの時間 問題点または注目点
80代前半女性 胃瘻造設術後、肺炎、心肺停止後蘇生 15分 縮瞳しているのに脳死と判定
80代前半男性 胃ガン全摘術後再発、肺炎、心肺停止後蘇生 100分 血圧測定不能後に人工呼吸停止
50代前半女性 胃ガン、癌性髄膜炎、慢性硬膜下血腫      28分 脳外科医が「脳死に近い状態」と説明
90歳男性 肺炎、四肢チアノーゼ、下顎呼吸 13分 人工呼吸器装着を拒否した患者に、9日間装着
60代前半男性 胃切除術後肺炎、心肺停止後蘇生 20分 糖尿病患者を脳死判定
80代前半女性 人工肛門造設術後敗血性ショック、心停止後蘇生 2分 人工肛門造設術の是非
70代後半男性 膵臓ガン開腹術後、呼吸障害 15分 呼吸器停止日の午前に対光反射あり、処置に対して顔をしかめた

 

*須田 セツ子:川崎協同病院事件について、p26〜p28

  裁判ではA氏の病状は,脳障害のみの予後で判断しており,COPD合併の気管支肺炎や無気肺、敗血症などは考慮されず、約1週間後には患者の死が不可避であるとは認められない、と判断されたのです。そこには、脳波を代表とした、検査や数値の羅列しか判断の材料はなく、ガーゼで覆っていた半開きの濁った目の色や気管チューブから溢れる血性膿性痰や、苦しげに響くガラガラ音など、ごく普通の人間が感じる視覚や聴覚に訴える材料は無視されているのです。
 また、高裁判決では、「自己決定権」による解釈だけで、延命治療中止を適法とするには限界がある、と述べています。要するに、元気な日常生活上の意思などは気楽なもので、いざ 「死」を前にしては変わり得るものであるし、意識がない状態や判断能力がない時に、「気楽な意思」をそのまま認めるわけにはいかない、ましてや患者の意思がわからぬまま、家族による自己決定の代行は、終末期医療に伴う家族の精神的・経済的負担などの回避という患者本人の気持ちに沿わないこともあるし、「尊厳死法」がない状況では自殺帯助罪や同意殺人罪などの危険性を生じる可能性もある、と述べています。
 では 「治療義務の限界」から延命治療の中止は可能でしょうか。本件では患者の余命は必ずしも1週間とは断定できず、終末期ではない、とされました。
 もっとも、終末期として認められている悪性腫瘍の末期ですら、1週間以内と断定するのは難しく、ましてや高齢者の認知症や老衰、合併症をもつ脳疾患、植物状態などでは、その予後を正確に診断することは不可能でしょう。
 これらを総合的に判断すると、現在の法律上、延命治療の中止が許されているのは、脳死くらいではないでしょうか。

 これから拍車がかかる日本の高齢化社会においては、「死をどのように迎えるか」は誰しも身近な問題です。自分で物事を判断せず、正論を笠に着て他人に任せ、責任をもたない日本人の気質に「延命至上主義」はよく似合っていたかと思われます。また、どんな状態でも「生きていてくれる」ありがたさを享受する家族や友人がいれば、その意義は大きいと思います。
 しかし、いざ自分自身の老い先を思えば、「胃痩から栄養剤を流し込まれ、寝たきりで生き永らえる延命治療」に疑問はないのでしょうか。医療者から始まった疑問は、身近な家族などを看てきた一般の方にも少しずつ広がってきています。
 また、延命治療が中止できないばかりに、人工呼吸など積極的な救命治療を差し控えてしまい、救えるかもしれない命をあきらめる悲しい現実もあります。年単位の胃瘻患者でも、ある日自力で摂取可能となる方もいらっしゃいます。
 本来、医療は試行錯誤の繰り返しで成り立っています。最上の救命治療をあらゆる方が躊躇なく受けられるためにも、無駄な延命治療を中止できるよう法の整備、制度の確立、社会の成熟を望んでいます。
 延命治療が進歩した現実を無視して、昔ながらの「延命至上主義」を掲げたままの司法判断が横行すれば、国民の不幸は目に見えているのではないでしょうか。

 「親父を殺された」と言い続けた患者家族には、控訴審をまたずに病院弁護士の庇護のもとで5,000万円の損害賠償金が支払われました。(中略)昔から医療は、本能的に「目の前の苦しんでいる患者を助けたい」という使命感があって、医師や看護師ら医療者は、時には自分の寝食や家庭を忘れて頑張ってきたのだと思っていました。自分のできることで互いに助け合っていく、それが人間本来の姿であり、そんな誠意あるやりとりを感じられれば、不幸にして残念な結果や死に至ったとしても「許し合える」関係を構築していたのだと思います。
 看取りの医療の問題は永遠のテーマであり、結論などありません。ただ、医療者のためでも、司法のためでも、ましてやお金のためでもなく、みんなの幸せのために「人生の最期」くらいは、本音で語り合える世の中になってほしい、と心から願っています。

当Web注:脳死判定後の心停止までの時間は、1902年の23時間から延長しつづけ、現代では脳死判定基準を満たすことと心停止(心臓死、全細胞死)の関係は断絶している。

 

*飯塚 悠祐、橋本 圭司(松江市民病院麻酔科集中治療室):用語の解説、p7〜p16

 医学的無益性の概念を医療の現場に反映させる方法 1999年、American Medical Association(米国医師会)は 「futile careとは、;個々の価値観にも左右されるため (value-laden)、万国共通の同意が得られるfutile careを確立することは困難であろう。futilityの決定には、むしろその過程を重視する方法process-based approach が推奨される」との声明を出した。これに従い、多くの病院でfutilityを決定するための方法が模索された。
 また、病院のみならず、州の法律でfutilityを決定する過程を規定したものもある (The Texas Advance Directives Act) 。この方法はfutilityに関して、医療者と患者/家族とで意見が異なり、同意を得られない場合、御意見番として病院の倫理委員会に、この治療がfutileであるかの決定を委ねることを特徴とする。しかし、これにも問題はある。ここでは、倫理委員会が両者の意見を考慮して最終的な決定をする非常に大きな役割を担っているが、多くの場合、倫理委員会は医師・看護師などの医療者から構成され、明らかに社会全体の代表者ではないことにその本質的な問題がある。言い換えれば、家族と医療者との価値観の違いから生まれる議論に指針を与える倫理委員会は、事実上、医療者と切り離せない関係にあり、その決定事項の正当性には疑問の余地が残されることとなる。

 

*松崎 孝、酒井 哲郎(岡山大学医学部集中治療部):米国における終末期医療、p35〜p42

 DCD(心臓死後臓器提供)症例(UPMC における実際の症例から)
 過去に病歴のない41歳の男性。市民マラソンに参加中に突然倒れ、CPRがすぐに行われた。救急隊到着時は、モニター上、心室細動であり、5分以内に除細動され、通常のリズムに回復した。30分後、救急室で再び無脈性電気活動となり、CPR が行われ、アドレナリン3mg、アトロピン1mg、炭酸水素ナトリウムなどが投与された。心室細動へと移行後、除細動が成功した。神経学的所見は、外部からの刺激に反応はなく、瞳孔は散大、角膜反射も消失していたが、脊髄反射は残存していた。心肺停止発生から30分以内に33度Cの低体温療法が24時間行われた。心エコーで、左室肥大と著しい壁運動低下が認められた。ST上昇のない急性心不全と診断。
 心肺停止発生後24時間での頭部CTスキャンでは、広範な脳浮腫を認め、脳室は著明に圧排されていた。心電図は24時間モニターされ、シバリングを抑制するためにプロポフォールとミダゾラムが投与されていたにもかかわらず、時折痙攣が認め られた。低体温療法中止後、抗痙攣薬が追加され、痙攣のコントロールは可能となった。脳波の平坦化は認め られなかったが、心肺停止後9日目の頭部MRIでは、白質に広範囲の壊死が認められた。
 翌日、患者の現状と予後に関する話し合いが家族と行われた。家族によると、患者自身は倒れる前に、脳が完全に回復する見込みがない場合は、延命治療を望まないと宣言していたことを述べた。検討の結果、患者の希望に添い延命治療を中断することが決定された“do not attempt resuscitation”の宣言が文書として残され、ペンシルベ二ア臓器ドナーネッ トワークに直ちに報告され、家族間の連携を行うコーディネーターがDCDに関する説明を家族に行い、最終的にDCDを行うことが決定された。手術室へ搬送し、DCDの手順が施行されたが、最終的には60分以内での心停止という基準を満たさなかったため、再び緩和医療の継続のため、ICUへ再入室となった。

 

*矢口 有乃(東京女子医科大学救急医学):ヨーロッパにおける終末期医療、p49〜p54

 私が滞在していたベルギー王国を中心に、(中略)言及する。(ベルギーでは)「脳死」に関しては「死」であり、1986年にの診断についての法律が定められている。本邦の法的脳死判定とほぼ同じである。一般には、本邦のように厳密な脳死判定を行うのではなく、簡略化された医師の臨床診断で「脳死」と診断し家族へのインフォームドコンセント後に、人工呼吸器のスイッチがオフとなる。スイッチがオフとなった瞬間は、家族の号泣がICU中に響き渡るが、「脳死は死」と市民には受け入れられており、その後は心臓死の場合と何も変わらない。
 (ブリュッセル自由大学付属)エラスム病院の集中治療部には、常時、約10人ほどの海外からの留学生がいるが、エジプト、ブラジルから来た医師は、“They(集中治療部の医師のこと) definitely kill patients.”と言っており、彼らの目にはそのように映っていたようだ。

 移植医療への臓器提供については、ベルギー国民は(外国籍者は別)脳死状態となった際に臓器提供を希望しない場合は、生前に書面で「臓器提供を希望しない」旨を区役所に届け出ている必要がある。この届け出がなく、かつ家族が拒否をしなければ、臓器提供者となる。臓器提供者が少ないための対策だそうだが、集中治療部の医師が「sacrifice だよ」と平然と言っていたのが印象的であった。ただし、交通事故などの突然の「脳死」患者の家族には、「臓器提供は家族として拒否できる可能性(権利)」を説明するそうである。(中略)
 エラスム病院のICUで、脳死患者の人工呼吸器がオフとなった翌日に、出勤すると臓器移植後の別の患者が入室している、という光景は時々経験した。

 フランスでは44%の症例で家族を含めて治療方針の決定が行なわれる(Lancet 2001;357:9-14)が、スペインでは28%の症例ではwithdrawかwithholdなのかを家族に知らすことなく決められている(Intensive Care Med 2001;27:1744-1749)。ポルトガルでは、患者の家族を含めて終末期医療の方針を決定する集中治療医は11%未満であり、看護師が含まれる場合も15%程度である(Crit Care 2003;7: R167-175)。
 また、イタリアでは、withdrawかwithholdかの決定の約8割は、医師のチームによって行なわれ、看護師が含まれるのも13%となっている(Intensive Care Med 2003;29:1902-1910)。(中略)

 米国でもそうであるが、ヨーロッパ、特に北欧、中欧は、個人主義が本邦と比較にならないほど徹底しているように感じた。自己決定権は、ヨーロッパにおいて法的にどの程度の効力があるのかはわからないが、「他人はどうであれ、自分で決める」という考えが、日常生活でも根づいている。エラスム病院でも、病状でも治療方針でも、いったん納得したら結果はどうであれ、医療従事者に意見(クレーム)する家族はいなかった。しかし実際は、いくつかの研究結果でもそうであるが、医療従事者のみでの治療方針決定が行われているのは事実である。個人主義、議論好き、「脳死は死」と市民にもコンセンサスが得られているヨーロッパでも、終末期医療におけるICUの医師、看護師と患者、家族間のコミュニケーションは、そしてdecision makingについては、いまだ課題として挙げられている。

 

*後藤 幸子(大阪大学医学部付属病院集中治療部):オーストラリアの集中治療における終末期医療、p65〜p71

 オーストラリアでは、少なくとも私が勤務していた5年ほど前までは、「終末期医療」と「臓器提供」は別の話でした。脳死移植の場合は、もちろん脳死になるまでは、全力で治療します。全力で治療したにもかかわらず、結果として脳死になった場合、脳死後の臓器提供の話になります。私たちが 「臓器をください」とお願いするわけではありません。こごでも、「患者の意思がabsolute priority」です。患者が望まれるのであれば、または、患者が望むとご家族が思われるのであれば、私たちはその意思を尊重し、全力でその意思の遂行に努力します、というスタンスです。
 私がオーストラリアで勤務していた頃は、心停止後の臓器提供donation after cardiac death(DCD)のプロトコルを作成している段階でした。説明会で湧き上がる疑問点、問題点は、日本で考えられるものと変わりません。「数分間心停止したあとに循環を再開させた患者を死亡といってよいのか」「何分間だったらよいのか」「どこでwithdraw をするのか?ICUか手術室か?誰が?」「抜管しても心停止しなかったら?」など。
 日本に帰国するまでの間、所属施設でDCDが開始されることはありませんでした。ごこ4年の間に徐々に増加し、2010年は国全体の合計で年間69症例となっています。(中略)

 現在オーストラリアにおいて、心停止後臓器提供になる患者の多くは、多発外傷、頭部外傷、脳内出血、心肺停止の蘇生後など、脳死にはならないが積極的な治療を継続しても心停止が先に訪れるであろう、または、人エ呼吸器を必要とする重度の植物状態になるであろう患者で、その状態で延命されることを望まない方々です。その場合、人工呼吸を止め、心停止を待つことになります。
 そのような状態になった方々のご家族から、臓器提供はできないのかと聞かれたことは数回ありました。当時はプロトコル作成中であったため、その希望をお受けすることはできませんでしたが、臓器を提供することで喜ばれる方と臓器をいただいて喜ばれる方がいるのなら、その橋渡しを粛々と行うのは我々集中治療医の役目なのかもしれません。ただ、米国などに比べると臓器を得ようとする積極性は低い印象でした。
 あくまで、今、目の前で命を落とされようとしている患者の望みで行い、患者に不利益の可能性が少しでもあるのならそれを行わない(non-maleficence)というのが、オーストラリアの集中治療医の基本方針です。法律上も存命中にその患者の利益にはならず、他の患者の利益になる医療行為(ヘパリンの投与、カニュレーション)は許可されておらず、患者の死亡宣告の後に行われます。

当Web注:心停止ドナーに対する処置では、心臓マッサージは草創期から報告されている。大阪大学医学部付属病院は、1966年10月10日、同病院に入院患者の心停止後に人工呼吸と心マッサージが行い腎臓を摘出した。日本臓器移植ネットワークは、出血性疾患患者にとってヘパリンが致死的作用があることを記載しない文書でドナー候補者家族に説明を行い、群馬大学医学部付属病院脳外科の医師は「移植には関わりたくない」と発表した。心臓死による死亡宣告後のヘパリン投与であっても、薬剤を全身にいきわたらせる為に心臓マッサージ=血液循環の再開が必要になり、ドナーの蘇生および生体解剖の恐れは無くならない。血液循環の再開は、心臓死の死亡宣告を無効にする行為となる。

 

*川口 敦(University of Alberta Children's Hospital Pediatric Critical Care Medicine):小児 多職種のチームで取り組む小児の終末期医療、p113〜p120

 北米、南米、ヨーロッパからの(当Web注:複数の文献)報告をまとめると、PICUでの死亡事例のうち、20〜55%が生命維持治療の中止決定後に死亡し、そのうち脳死症例は約半分を占めていた。死亡時に人工呼吸や循環サポートを受けていた症例は18〜55%に上った。また、DNARの記載があった患者のうち43%が、DNAR決定後に生命維持治療のwithdrawあるいはwithholdとなっていた。北米からの報告(2004〜2005年)では、85%の症例で何らかの制限が考慮されており、北米では近年その割合が増加してきていることが伺える。なお、制限の比率は、人種(アフリカ系米国人)、研修医がいない(教育施設ではない)施設で有意に低くなっていた。(中略)

 オランダの主に大学病院PICUを対象とした全国調査(2008〜2009年 Pediatrics 2011;127:e1004-1012)によると、医師の約半数は両親に対し医療者側の決定を説明した後、「許可」を求めていた。一方、約25%は両親へ「許可」を求めることなく決定を説明したのみであり、残り25%は両親へ「助言」の形で決定を伝え、結果として両親に決定権を与えていた。どのようなアプローチをとるかは決定事項の内容(人工呼吸器離脱など)、治療期間に強く依存していた。

 

*橋本 圭司(松江市民病院麻酔科集中治療室):人間は1度しか死ぬことはできない、p143〜p145

 海外では、子供であっても、ICU終末期の抜管などが日常的に行なわれていると聞きます。日本でも2010年夏、臓器移植法の改正が行なわれ、小児の脳死患者からの臓器提供も可能にはなりました。けれど、小さな子供のことですから、“奇跡”が起こるのではないかといった、家族・医療者の心の有り様も理解でき、なかなか客観的に語れない内容ですよね。

 


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