頭部外傷患者の家族が「臓器保護のための治療」と不信感
緩和ケア病棟の患者をICUに転棟させて臓器を摘出した
日鋼記念病院救急センター
第7回日本臨床救急医学会総会が5月14、15、16日の3日間、パシフィコ横浜 会議センターで開催。日鋼記念病院救急センターの七戸 康夫氏は「臓器提供意思カードが提示された症例におけるICU管理の経験」を発表した。
以下は日本臨床救急医学会雑誌 第7巻第2号 第7回日本臨床救急医学会総会総会プログラム・抄録集p213より。
【症例1】50歳代の男性。頭部外傷にて緊急手術。脳浮腫が進行し臨床的脳死に陥る可能性が高いと判断し、家族に臓器提供意思表示カードの有無を確認したところ、所持が確認された。脳死下臓器摘出の可能性があると家族に説明した。しかし家族はその後のICU管理に関して「臓器の保護のための治療ではないか」という不信感を持った。
【症例2】60歳代の女性。脳腫瘍にて緩和ケア病棟に入院中。血圧が低下し、看取りに入った段階で臓器提供意思表示カードが家族より提示された。心臓死下臓器摘出の可能性があるが、そのために緩和ケア病棟からの転棟が必要であることを説明したところ、積極的にICU管理を希望され、その後に心臓死下の臓器摘出が行なわれた。
【結語】救急集中治療医は、コーディネータとの連絡を密にし、家族の要請、患者の病態を考慮し、慎重な対応が必要である。
以下は当Web注
2001年の第6回静岡県腎移植研究会において、聖隷三方原病院の杉山 昌巳氏らは「ホスピスで献腎された1症例」について「臓器提供は緩和ケアと相反する部分があるなか、関係スタッフの患者、家族との信頼関係、『患者の意思尊重』を最優先に取り組みをしたことで、家族に満足感を与えたことが家族の手記より読み取れた」と発表している。
小松 美彦著 脳死・臓器移植の本当の話 PHP新書
脳死患者と周囲の者との絆と生身性を想像しえないとき、
私たちは「脳死」という一個の政治言語に圧倒される
PHP研究所より、小松 美彦(東京海洋大学教授・科学史・科学論、生命倫理学)著、「脳死・臓器移植の本当の話」、本文424ページ、新書判、ISBN:4569626157、本体価格950円が出版された。
本書は、「脳死」が人の死であると強要されたり、人体を経済資源化する目的で臓器移植法の改悪が図られる事態の到来に備えて、小松氏が脳死・臓器移植について初心者から研究者までの通覧に耐えうることを目標に編述した。欧米や日本の最新情報を満載し、基礎的な事柄や不問視されてきた問題を検討した、啓蒙書であるとともに学術書でもある。全9章の構成は以下のとおり。
序章
「自分の目で見る」、「自分の心で感じる」、「自分の頭で考える」という、脳死・臓器移植問題を考察するための基本姿勢を確認する。「当然と思われがちなこの姿勢を私たちは存外にとれていない」と、筆者の体験談(知人宅でトイレを借りた女性の話)やニュートンが万有引力を発見した逸話、そして脳死・臓器移植をめぐるテレビ番組の検討を通じて述べる。「かんじんなことは、目にみえないんだよ」という「星の王子さま」のまなざしで、脳死・臓器移植の「内がわ」を一つひとつ明るみに出してゆくことが本書の意図であることを述べる。
第二章
次章以下での本格的な考察に臨むために、基礎的な事項を押さえる。(第一節)臓器交換技術のなかでの脳死・臓器移植の特徴、(第二節)重篤な状態に陥ってから臓器摘出が行われるまでの経緯、(第三節)混同ないし誤解されがちな三つの事柄@植物状態と脳死状態の違いA移植手術後のレシピエントの生存率B移植手術の延命効果の有無。
特にp66で、移植手術の延命効果についてアメリカのスチーブンソンの報告を紹介し、小松氏が「心臓移植の待機日数が9ヶ月を超えた場合は、移植手術を受けずに内科治療に専念した方が生きながらえられる蓋然性が高くなる。心臓移植の延命効果はマイナスになるのだ」という指摘は注目される。
p69で「誠に恐ろしいことではないか。本当に移植が必要な者は、その恩恵になかなかあずかれない。逆に、移植を受けたもののかなりの割合は、移植を受けなかった方が長生きできるというのだ」に関連する情報として、当Web内には臓器移植を推進する医学的根拠は少ない、
そして骨髄移植についての記事がある。
なおp46で死体移植(心停止後の臓器摘出)において、参照文献として『検証!「脳死」臓器移植』、いのちジャーナルessence臨時増刊号があげられている。この冊子は訂正および補足が6項目あるので留意願いたい。より詳細な情報は、「心停止後臓器提供」の終焉、「脳死」小児からの臓器摘出例、「心停止後」と偽った「脳死」臓器摘出(成人例)に掲載されている。
第三章
脳死を人の死(の基準)とする従来の医学的な根拠をすべて洗い直す。まず、「脳死」という用語の多義性を検討し、同じ言葉を述べているようでいて実は三種類のレベルがあることを確認する(@定義としての脳死A脳死判定基準によって理念的に確定されるはずの脳死B臨床現場で脳死判定基準によって実際に判定された脳死)。
その上で、従来の「根拠」、つまり、脳死者には意識や感覚がない、身動きひとつしない、遠からず確実に死ぬ、機械によって生かされているだけである、そもそも脳が身体の「有機的統合性」を統御している、これらを分析・検証する。そして「脳死」がなぜに「脳死」と呼ばれるのか、看過されがちなこの名称規定についても再考している。
脳死患者に対する無呼吸テスト時や人工呼吸器を外した時に起こる自発的な運動=ラザロ徴候の命名者、アメリカ・マサチューセッツ総合病院のアラン・H・ロッパー氏から写真提供を受けてラザロ徴候の写真を掲載、他の欧米のラザロ徴候の報告も掲載している。
惜しむらくは、ラザロ徴候発生時の脳死患者の二酸化炭素分圧PaCO2値を紹介していない点だ。
脳死判定における無呼吸テスト終了時の二酸化炭素分圧値は、60mmHgを超えても自発呼吸がなかったら無呼吸と判定してよいとされているが、
日本大学では二酸化炭素分圧が72mmHgで=林 成之:脳死診断の現場と無呼吸テスト、脳蘇生治療と脳死判定の再検討、近代出版、83−98、2001、
京都大学は86mmHgで自発呼吸を測定した=榎 泰二朗:無呼吸テストの信頼性について、麻酔、37(10S)、S66、1988、
日本医科大学では54歳女性が脳死判定された6目に再度、脳死判定を行なったところ100mmHgを超えて呼吸様体動が出現した=木村 昭夫:脳死判定後長期心停止に陥らなかった1症例、救急医学、12(9)、S484、1988、
藤田学園保健衛生大では4歳男児が臨床的脳死とされた一ヶ月後に自発呼吸が出現している=石山 憲雄:小児脳死例(臨床および諸検査上脳死状態と診断されうる)の特殊性について、救急医学、12(9)、S477−S478。これらの情報は、無呼吸テストに科学的な根拠が無いことを示している。
詳細は炭酸ガス刺激だけの無呼吸テスト。
さらに、欧米では無呼吸テスト終了時の二酸化炭素分圧値が日本よりも低い報告が多い(Ropper AH:Apenea testing in the diagnosis of brain death:Clinical and physiological observations、J Neurosurg、55、942−946、1981は44mmHgという)。欧米でラザロ徴候が発生した時の二酸化炭素分圧値とともに紹介されれば、この動きが脳死判定基準を満たした患者の動きなのか、それとも自発呼吸をしようとした断末魔の苦しみなのかを考える材料になる。
竹内 一夫は、前記ロッパーの論文を「41〜51mmHgで換気に有効でない呼吸様体動(脊髄性)が出現した」と紹介している(日医雑誌、第118巻第6号p858、1997年)。長期間、人工呼吸器にかけられ自発呼吸を行う筋肉が萎縮している患者から、いきなり人工呼吸器を外した時に、どのような動きが「換気に有効でない」といってよいのか。延髄以外の脊髄にも呼吸中枢があることを指摘する論文もある。感覚的な判断による非科学的・恣意的・経験則の判定が、脳死判定の本質である点も増刷版で指摘されることを期待したい。
第四章
俗説であるにもかかわらず、"正当な"学説よりもかえって流布しているようにさえ見受けられる「脳死=精神の死=人の死」という見方を批判的に検討する。また、俗説の蔓延に図らずも貢献してしまった梅原 猛氏の脳死批判を反批判している。この反批判は、近代以降の「死の定義」と「死の基準」を歴史的に鳥撤し、脳死をその中に位置づけるもの。
第五章
植物状態は"意識の消失した状態"と捉えられている以上、「精神の死=人の死」とする見方は、脳死状態に留まらず植物状態の患者にまで波及する可能性がある。このため植物状態に関する従来の認識に対して、(第一節)植物状態の患者の意識の有無、(第二節)そもそも植物状態を意識障害とする認識、(第三節)遷延性植物状態を回復不可能とする見方、これらについて検討し、その上で、ある漫画作品を援用して、植物状態の患者に向けられるべき私たちの想像力について省みる。
小松氏は「無脳児もまた覚醒した状態にあり、したがって、無脳児に意識がないとする断定も、意識に関する臨床医学の規定からすると誤りなのである」と指摘する(p184)。この点に異議はないが、実態からみた正確な用語・定義は無頭蓋症(むとうがいしょう)児であること、大脳がある程度発育してから退化に向かうこと、脳波が測定される無頭蓋症児もいることを付言しておきたい。詳細は脳波がある無脳児ドナー。
第六章
日本における二つの代表的な移植、1968年のいわゆる「和田移植」と、1999年の法的脳死判定第1例目「高知赤十字病院移植」を徹底検証する。前者は疑惑に満ちたものとされ、まるで悪の代名詞のように語られがちであった。が、問題なのは、はたして前者だけか、本書では、前者の真相に肉薄する一方、後者に関する検証委員会の資料や議事録をも視野に収め、2つの移植の実態を比較対照する。
和田移植事件では、当時の札幌医大麻酔科助手・内藤 裕史氏への取材による新事実の発掘(ドナーの心電図をとっていなかった蓋然性)などが注目される。
以上を踏まえた上で「臓器移植法」の改定問題を考え、代表的な改定原案と目されている「町野案」と「森岡・杉本案」を検討する。そして医薬品開発・バイオテクノロジー産業発展のための人体資源化、その突破口としての臓器移植法の改定が俎上にあることを指摘する。
終章
臓器提供を示唆されたほどの状態から完全社会復帰を遂げた女性、脳死状態のまま20年近くも生きつづけている男性、この両者と両者を取り巻く人々との関係を見つめる。
小松氏は「そうした絆と生身性を想像しえないとき、私たちは「脳死」という一個の政治言語に圧倒されるのである」と指摘している(p404)。
献腎移植医療費は初年度891万円 大阪市立大
移植学会の公表額より2倍 移植者は若く低医療費
Geriatric
Medicine(老年医学)42巻5号は「高齢者医療と医療経済」を特集。p636〜p643に岸本 武利氏(大阪市立大学名誉教授、トキワ腎クリニック)、土田 健司氏・武本 佳昭氏(大阪市立大学大学院医学研究科泌尿器病態学)による「腎移植の医療経済」を掲載した。
腎移植の医療費については筆者らが関与している施設をモデルにし、透析の医療費については基幹病院での導入とサテライト施設をモデルとした。
腎移植医療費は1986年8月〜1999年9月に施行された生体腎33例、献腎51例、計84例の保険診療報酬を月別に5年間算出した。平均的医療費は生体腎の場合、最初の1年間の費用は平均725万円、1年以後は月間15万円。この中には血液型不適合生体腎移植例も含まれるため高額となった。
献腎の場合は約2週間の血液浄化療法を要し入院期間も長くなる。免疫抑制剤も多種類併用とより綿密な医療を必要とするため、最初の1年間の医療費は891万円と計算された。
岸本氏らは「日本移植学会のホームページには、わが国の腎移植医療の最初の1年間の総費用は350〜400万円としているが、これはミニマムの費用と考えられる」としている。
一方の透析医療費は、最初の年間医療費は510万円、維持医療費は480万円弱と推定。「積算医療費は生体腎の場合、平均24ヵ月目、献腎の平均33ヵ月で同額となり、以後は腎移植の方が低く月日が経つにしたがい差は拡大している。・・・・・・透析者に比し腎移植者の年齢は比較的若く、健康状態も良いので合併症、他疾患の併発頻度と程度も透析者に比し低いと思われる。・・・・・・そのため基本医療以外の医療費も透析者の方が高いのが現状である」とし
た。
当Web注:腎移植医療費と透析療法医療費を比較するには、腎移植患者の生存率とQOLが透析療法患者のそれと同等以上でなければ比較すべきではないが、腎移植患者の
半数は消息が不明、また移植を受けたがためにQOLの悪化した患者がいることも報告され、さらに透析療法のQOLの良さが報告されている。
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