児玉真美著“死の自己決定権のゆくえ 尊厳死・「無益な治療」論・臓器移植”
尊厳死が法制化される意味、子孫にどんな社会で生きてもらいたいかの岐路
当事者を「自己責任」に遺棄する社会か、他者を支援する力を蓄えた社会か
2013年8月23日付で、児玉 真美著「死の自己決定権のゆくえ 尊厳死・「無益な治療」論・臓器移植」が大月書店から発行された。四六判、224ページ、税別1,800円、ISBN
9784272360697。
著者は、主にインターネットで近年の英文のニュースや文献を集め、欧米諸国では安楽死・安楽死後臓器提供・自殺幇助・治療の強制終了などが合法化され、あるいは根拠なく対象も拡大されていることを紹介し、尊厳死とその制度化の問題点を考察した。
高齢者、障害児・者、介護者を「社会で支える」という視点が欠けているために事件が頻発していること。「無益な治療」論がコスト論とともに対象者の範囲を拡大し、患者に「生きる」自己決定は封じられていること。コスト論は、実際には患者選別への同意を問うていること。病者、高齢者、障害児・者が、人間が体験し得る最も恐ろしい孤独と恐怖と絶望に直面するも、そこから立ち去ることを推奨する現実などを告発する。
著者は“尊厳死の法制化は、その後のこの国のあり方を大きく方向づけること”、“「苦しければ助けを求めて欲しい」
と呼びかけ、支援する力を蓄えた社会であり続けようとするのか。痛苦の責を患者や介護者に転嫁し、当事者を「自己責任」の中に放棄する社会になろうとするのか”“私たちの子どもや孫たちが生きていく人の世がどんな場所であってほしいか、という問題でもある”と指摘した。
医療への期待、本当の「自己決定」ができるための方策についても考察している。同書の注に掲載された関連サイトのURLは、著者のブログ内の“『死の自己決定権のゆくえ』注:URLリンク一覧”http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/66642327.htmlに掲載されている。
以下は「死の自己決定権のゆくえ」より、注目される記述の抜粋または要約。
第1章 死の自己決定権をめぐる議論
p19〜p20 尊厳死が法制化されることの意味
尊厳死の(中略)法制化に反対する人の中には、尊厳死には賛成だけれども、それを法律で決めてしまうことには反対する、という人が少なくない。(中略)死に方はその人の生き方そのものであり、生き方と同じく死に方も本人だけのもの。(中略)尊厳死は一人ひとりの自由な意思決定の問題だとしても、それを法律で定められるとなると、それは一人ひとりの問題を超えて、多様な人が生きている社会そのものの価値意識やあり方に大きな影響を及ぼし、それらを規定することになる。(中略)
確かに法案の第三条には「国及び地方公共団体は、終末期の医療について国民の理解を深めるために必要な措置を講ずるよう努めなければならない」とある。(中略)
臓器提供では、(中略)厚労省の関連予算を使った普及啓発の一環で、まさに「国民の理解を深めるために必要な措置」として、子どもたちに向けた「いのちの教育」が広がっている。(中略)なるほど、国が法律で定めるというのは、こういうこと、その後のこの国のあり方を大きく方向づけることなのだ。
p48〜p49 安楽死後臓器提供
ベルギーでは2005年から2012年までのあいだに「安楽死後臓器提供」が9例行なわれている。アントワープ大学病院の移植医らが2010年に発表したところによると、すでにプロトコル(手順書)もできている。通常の安楽死と異なっているのは、ドナー本人だけでなく関係親族の同意を取ることや、手術室または周辺での安楽死になること、死後の手術への準備の処置を行なうことにドナーから許可をもらうことなど。(中略)
安楽死者の多くはがんの終末期なのでドナーになりにくく、安楽死ドナーの大半は神経筋肉障害者である。発表の際のパワーポイントには、2008年の安楽死者705人のうち20%に当たる141人が神経筋肉障害者だったとのデータを挙げて「潜在的可能性?」と書かれている。
当Web注:日本では、ドナー本人の同意の存在は別として、生前からの臓器摘出目的の処置、そして本人が生存しているのに人為的に心停止を起こして移植用臓器を摘出する行為は、1968年に実施したことが弘前大の山本実によって報告されている。筋萎縮性側索硬化症患者患者の「死体」腎ドナーも報告されている。
p63〜p65 「社会で支える」視点の欠落
介護者による自殺幇助事件が相次ぐ中、こうした自殺幇助事件を介護という視点から考えてみると、多くの議論に「社会で支える」という視点が欠けていることにも私は違和感を覚える。ギルダーデール事件のリンはなぜ14年間も部屋から出ることすらなく寝たきりで暮らさなければならなかったのか。なぜ母親のケイは14年間もつきっきりで介護するしかなかったのか。(中略)
自分では背負いきれずに苦しんでいる人に対して、「社会で支える」という選択肢を封じたまま、死の自己決定権や自殺幇助という選択肢を差し出すならば、そこでは「苦しいから(苦しいなら)助けを求める」という選択肢は封じられてしまう。(中略)「自己決定権」や「自己選択」という名のもとに、実は「自己責任」の中に個々の家族が冷酷に投げ捨てられ、そこに置き去りにされ、見捨てられようとしているのではないのだろうか。
そのことを考えるとき、私の考えは日本の尊厳死法制化の議論で気付かされた「尊厳死の是非と尊厳死法制化の是非とは別の問題だ」ということ、「法制化とはその後の社会のあり方を方向づけること」ということに立ち返ってゆく。米国の生命倫理学者、エゼキエル・エマニュエルは1997年にオレゴン州の自殺帯助合法化を批判して以来、一貫して安楽死と自殺帯助の合法化を批判してきた腫瘍科専門医だ。彼は1997年に(中略)警告している。安楽死がいったん合法化されれば医師は致死薬を注射することに慣れ、国民は安楽死という選択肢が存在することに慣れる、そして慣れれば例外はルーティーンとなり、ベビー・ブーマー世代の高齢化で財政的な圧力がかかれば例外はやがて必ずルールとなる
。
第2章 「無益な治療」論と死の決定権
p88〜p94 コスト論とともに拡大する対象者の範囲
(前略)英語圏の「無益な治療」論による生命維持の一方的停止や、救済措置や治療の一方的な差し控えをめぐる事件(中略)が起こり議論がくり返されるたびに、すこしずつ「無益な治療」論そのものが変質・変容していくように感じられる。(中略)
まず気がかりなこととして、コスト論がどんどん露骨になっている。(中略)
2001年にカナダで回復不能の植物状態にあるとされる1歳の男児について、裁判所が呼吸器の取り外しを認めたジョセフ・マラアクリ事件でも、ピーター・シンガーが功利主義的なコスト論を説いている。この事件では、判決の後も家に連れ帰って死なせてやりたいと望む両親の願いを受け、キリスト教系の支援団体が募金を行った。そのおかげでジョセフは米国の病院で気管切開を受け、5ヵ月後に亡くなるまで自宅で過ごすことがかなったが、シンガーは、その募金について、「もしプリースト・フォー・ライフが真剣に人命を救おうとするなら、子ども時代の正常なよろこびを経験することも、まして成人することもできないというのに、ほんの数ヵ月だけべッドに横たわっている時間を延ばすためにジョセフを「救出する」代わりに、募金で集めた金を使って150人の命を(途上国にワクチンを届けることによって)救うことができたはずだ」と書いた。
しかし、このような功利主義的なコスト論は、固有の事実関係にもとづいて、特定の治療がその患者にとって無益かどうかを検討する個別判断の問題から、一定の障害像の人への生命維持のための医療費を社会が認めるかどうか、という包括的な問題へと「無益な治療」論を飛躍させてしまうものではないだろうか。
シンガーは(中略)、ゴラブチヤック事件に際して「納税者には市民仲間の宗教的信条を支えてやる義務はない」と書いた。(中略)。シンガーのこの主張に頷いた人の多くは、もしかしたら次には「宗教的信条」を「個人的な死生観」「愛する家族への思い」など他のものに置き換えても、「納税者には支えてやる義務はない」という主張に同様に頷くのではないだろうか。それなら、シンガーが「宗教的信条を支える義務はない」という言い方で暗に主張しているのは、実際は(中略)生命維持のコストを認めるかどうかを決めるのは社会や納税者だ、ということではないだろうか。
もうひとつの疑問は、シンガーもフォストも社会や納税者が決めることだと言いながら、同時に専門家である医師に決めさせろと主張することだ。それは、医師に社会や納税者の代表として判断をしろということなのだろうか。(中略)
いったい、ここで議論されているのは「特定の治療が患者本人にとって無益かどうか」という個々の医学的判断なのか、「患者本人の利益にならない医療はコストの無駄だからやめるべき」という不適切なコストをめぐる医療財政問題なのか、それとも「仮に患者本人の利益になるとしても、一定の障害者像の人への医療コストは社会が認めない」と、医療費削減のために重症障害児者の医療を切り捨てようとする“人間の選別”の問題なのか。それぞれは別個の問題でありながら、それらがぐずぐずのまま議論が繰り返されるたびに、「死の自己決定権」議論でもそうだったように、「無益な治療」議論で問題となる障害者像も少しずつ拡大していくように思われてならない。(後略)
当Web注:「高所得国における慢性期の医療コスト」と「低所得国における予防医療のコスト」を比べると、「貨幣価値の格差」と「対症療法と予防医療のコスト差」の相乗効果で、大きな差があるように見せることが可能になる。
p94〜p98 「どうせ」の共有を広げていく生命倫理学者らの問い
(前略)そもそも、救うことのできる潜在的な命の多寡だけが問題なのであれば、現実の一人の患者に対する特定の治療にかかる費用に対して、「その費用を他に回せば、どれほどの人の命を救えるか」と潜在的な可能性として救われる命の数とが比較計算されるかぎり、常に現実の一人には分がないのではないだろうか。(中略)
実際には、「この人へのこの医療行為にかかるコストを他に回せば、もっと多くの命を救うことができるのではないか」という問いは、患者によって、あるいは医療内容によって、問われる場合と問われない場合があるのだ。そして、その問いが問題にしているのは、本当はコストに対して救うことのできる命の多寡ではないし、言葉で問われる問いそれ自身は本当は何も問うてなどいない。この問いが問われることの意味は、あらかじめ問われる治療と患者が選別されていることにある。この問いを投げかける人が問うているのは、本当は「その選別に同意するかどうか」なのだ。(中略)
表向きはもっともらしい比較計算を装いながら、言外に「どうせ○○な人の延命なのだから」という無意識の選別を多くの人に共有させていくことができるなら、問う人がその○○の中身を少しずつ変えても、問われる側の無意識に○○への「どうせ」が共有されているかぎり、線引きをじわじわと動かしていくことも可能になるだろう。(中略)
いったい「無益な治療」論の対象者はどこまで拡大されていくのだろう?(中略)
「にもかかわらず生きる」と自己決定しようとしても、社会や納税者の代表としての判断を背負わされた医師から「あなたはQOLが低すぎるから」あるいは「あなたな救命・延命しても、どうせ要介護状態になるから」、だから「あなたへの医療コストは無益」と拒否されてしまうのだとしたら、「死ぬ」という一方向にだけ尊重される「自己決定権」が、本当に患者の自己決定の権利と言えるのだろうか。
p99〜p119 2 「意識がある」ことの発見
当Web注:この第2節では、脳死や植物状態と診断され、医師からは回復の見込みはないと言われながら、あきらめきれない家族の思いが「意識がある」ことへの発見のきっかけをつくり、回復できたケースが紹介されている。日本では報告のない睡眠薬ゾルビデムによる「覚醒」事例も掲載している。
p116〜p119 「窓を閉じて立ち去ってしまおう」との提案
(前略)「最小意識状態は植物状態よりもべターなのか」と問う声が上がり始めている。(中略)意識があればそれだけ苦痛が大きい可能性があるし、最小意識状態の人を生かしておくことに利益があるとしても、かぎられた資源を他に回すことと比べると、その利益は小さい、というのである。
いったん「ここにはもう誰もいない」と張り紙がされた場所に、なおも寄り沿い、じっと耳を傾けて、外側からしか開けることのできないその窓のありかを探ろうとする人たちがいる一方で、窓を開け、中をのぞき込んで、そこにそれまでは「いない」と思われていた人が「いる」ことを発見しながら、「でも、こんなに重度なんだから、いないのも同然じゃないか」と言って、「窓を再び閉じて、立ち去ってしまおう」と呼びかけてくる人たちがいる。
脳死や植物状態で「意識がない」ことを生命維持や救命を「無益」として中止したり差し控える正当化の根拠としてきた人たちが、今度は「意識があったとしても、どうせ植物状態のような状態であることに変わりはないのだから」と言い始めているように私には聞こえる。そして、長尾和宏医師が「もはや植物状態とも言える様相」などの表現を頻繁にくり返すことによって、いったんは終末期の人に限定されたはずの「平穏死」の対象者が、いつのまにか終末期の人を超え、さらに植物状態の人をも超えて広がっていったことを思い出す。(中略)
ここで私がどうしても考えてしまうのは、ザック・ダンラップのことだ。すべての人が立ち去ってしまった後に、たった一人、戻ってきて窓がありはしないかと探ってみたのが、あの従兄だった。もしその「たった一人」が戻ってきてくれなかったら、窓の内側に置き去りにされたザックは臓器ドナーとなり、臓器を摘出されていたのだ。(中略)
ザックは自分の身の回りで臓器摘出の準備が着々と進んでいく状況を克明に察知し、事態を理解しただろう。それでいて彼には助けを求めるすべはない。(中略)想像を絶する恐怖と絶望と苦悶の中で死んでいったことだろう。それはなんという救いのない、なんという孤独な、なんという無残な死に方であることか。恐らくそれは人間というものが体験し得る、最も恐ろしい孤独と恐怖と絶望のひとつだろう。それでも、彼には実は意識があったという事実も、彼の死に際の壮絶な孤独も絶望も恐怖も苦悶も、誰にとっても永遠に不在のままだ。みんなはとっくに背を向けて、ザックの元を立ち去ってしまったのだから―――。
p120〜135 それは臓器移植へとつながっていく
当Web注:この第3節では、重症脳損傷患者が早くから助からない患者とみなされてしまう現状について臓器獲得組織の元理事のジョ
セフ・フィンズ氏が米国医師会の倫理学ジャーナルに発表した告発と提言、カリフォルニアで心停止ドナー候補者とされた10歳児の死を早めるために移植医がモルヒネと鎮静剤の投与を命じたとされるナヴァロ事件、トロント子ども病院で心停止心臓ドナー候補者とされた生後2ヵ月女児から人工呼吸器が取り外されても心臓死に至らなかったケイリー事件、ほかが紹介されている。
第3章 いのちの選別と人間の尊厳
p146〜p152 “コントロール幻想”と差別の再生産
(前略)科学とテクノロジ一の発達はグローバルな市場経済と結び付いて、人の身体も命も簡単に操作・コントロールが可能なものとの錯覚、いわば“コントロール幻想”を広げ、それが能力至上の操作主義の急速な広がりにつながっているのではないか、という気がしてならない。(中略)欲望への執着が深まるにつれて、「未知なもの」「自分でコントロールできないもの」「快への欲望を脅かすもの」への不安と恐怖心が高まっていくのも、考えてみれば自然なことなのかもしれない。だから、操作もコントロールできず人を不安にさせるようなものは無価値であり、科学と技術を駆使して排除すればよい―――。そうした幻想がパ一ソン論や功利主義の考え方と親和し、既存の差別を掘り起こし、新たな装いで再生産されているのではないか。(中略)
科学とテクノロジーによって管理・コントロールする側とされる側、科学とテクノロジーの恩恵にあずかる側と、そのために奴隷労働力として、またはバイオ資材として犠牲に供される側とに、人間が選別されていこうとしているのではないだろうか。
もしも、その選別が重症障害者や高齢者や貧困国の貧困層の切り捨てで終わると信じていられるとしたら、それは楽観が過ぎるというものだろう。(後略)
p193〜p195 「どのような社会であろうとするのか」という問題
(前略)ダニエル・ジェームズや聴覚障害者の兄弟のような人びとに、「死にたいというなら死なせてあげよう」と自殺幇助や安楽死で応じ、慢性疲労症候群で寝たきりの娘を14年間介護したケイ・ギルダーデールのような介護者に対して「これ以上どうにもできないというなら、死なせても殺しても大目に見てあげよう」と目をつぶる社会になろうとするのか。それとも「苦しければ助けを求めて欲しい」
と呼びかけ、支援する力を蓄えた社会であり続けようとするのか。それはエマニュエルがいうように、痛苦の責を患者や介護者に転嫁し、当事者を「自己責任」の中に放棄する社会になろうとするのか、それとも、それが深く考えられずに容易に起こることであるからこそ、その危うさを自覚し自戒する社会であろうとするのか、という選択なのではないだろうか。
言い換えれば、私たちがそれぞれの自分の終末期に「余計なことはせず、さっさと死なせて」もらえるかどうかというところにとどまらず、その先、私たちが死んだ後に私たちの子どもや孫たちが生きていく人の世がどんな場所であってほしいか、という問題でもあるだろう。
保健看護学科の学生と保護者、臓器提供を話し合い済み・意見一致は1割強
話し合う機会なく、3割は提供意思推定、3割は保護者拒否、2割は学生拒否
2013年8月22日、23日、秋田市内で第39回日本看護研究学会学術集会が開催され、川崎医療福祉大学福祉学部保健看護学科の伊東 美佐江氏らは「親子における脳死や臓器提供に関する認識の相違」を発表した。以下は日本看護研究学会雑誌36巻3号p152より要旨。
調査期間:2011年9〜10月。
調査対象:A大学保健看護学科に在籍する学生とその保護者195組。
調査方法:学生と保護者を対象に、学生と保護者が一致する通し番号をあらかじめつけた無記名自記式質問紙を配布し返信用封筒にて回収し結果を単純集計した。
【結果】
学生116名と保護者108名より回答が得られたのち、学生と保護者が一致して回収できた有効回答は93組(47.7%)であった。平均年齢は、学生20.95±1.33歳、保護者50.92±4.36歳であった。男性学生18名(19.4%)、女性学生75名(80.6%)であり、保護者のうち男性14名(15.1%)、女性79名(84.9%)であった。
学生・保護者はそれぞれ、脳死を言葉だけ知っている者は10人(10.8%)・40人(43.0%)、状態まで知っている者は83人(89.2%)・52人(55.9%)であった(p<
0.001) 。
2010年の臓器移植法の改正を知っている者は、学生90人(97.8%)・保護者70人(75.3%)であった(p<0.001)。
73.1%の学生と51.6%の保護者が脳死時の臓器提供に肯定的であり、臓器提供意思カードに記入している者は双方とも約1割であった。
学生は臓器提供の意思があり保護者も我が子が臓器提供への意思があると考えている組は約3割で最多であり、話し合う機会はないが意見は一致していた。
話し合う機会を持ち意見の一致した組は10組であった。
学生は臓器提供したいが保護者はしたくないと考え話し合う機会がないものが約3割、保護者は臓器提供したいが学生はしたくないと考え話し合う機会がないものが約2割で最も多かった。
学生より保護者のほうが家族の臓器提供の意思の尊重を示した。
【考察】
本人の意思と家族の意思が異なることも多く、話し合う機会があれば必ずしも臓器提供に対する親子の意思が一致しているとは限らない。しかし本人と家族の意思決定における葛藤を軽減し、お互いの意思表示が本人の自己決定を尊重することにつながるので、話し合いが必要である。
当Web注
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保健看護学科の学生と保護者を対象とした調査のため、臓器を提供する意思と意見一致率は高めに出る可能性がある。保護者の回答者に女性が多いことは、臓器提供の拒否率が高めになる可能性がある。
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日本臓器移植ネットワークは1995年の発足以来、抗血液凝固剤ヘパリンの投与について外傷患者や脳内出血患者に原則禁忌の薬剤であることを説明しない文書を、臓器ドナー候補者家族に提示してきた。「死体」臓器提供においては、自己決定に不可欠の情報が開示されておらず、患者家族が承諾可能な範囲を超えて臓器獲得行為が行なわれている。この環境下で、話し合いを行い臓器提供に至っても「むごいことをした、かわいそうなことをした」と葛藤を抱える家族を増やす結果をもたらす。
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中年夫婦の延命医療に対する意向が一致していたのは4割との報告は看護教育研究学会誌4巻1号に掲載されている。
小松美彦著“生を肯定する いのちの弁別にあらがうために”
「人間の尊厳」概念はなくなってしまうほうがよい
2013年8月20日付で、小松 美彦著「生を肯定する いのちの弁別にあらがうために」が青土社から発行された。四六判、336ページ、税別2200円、ISBN978-4-7917-6723-6。生命倫理学、西洋思想史、医療・福祉制度など、さまざまな視点から6人の研究者・医師と「いのち」について討議した対話集。「人間の尊厳」の系譜を、ギリシア哲学やキリスト教神学からたどり直した『生権力の歴史』の入門書にもなっている。以下は、注目される発言。
第一章 生命倫理を超えて 『生権力の歴史』をめぐる対話 ×香川知晶(山梨大学大学院医学工学研究部教授)
香川 小松さんの本の最後は、ただ生きているだけの尊厳を例示するということで、長期脳死者の方のお話を出していますね。もし仮に尊厳という概念がいい使われ方もわるい使われ方もされていたとするなら、いま小松さんが言ったように、いい使われ方というのはわるい使われ方を前提にしているわけです。だとすると、尊厳という言い方を残す必要はあるのでしょうか?なぜ尊厳という言葉を使うのか。私はここが疑問です。(後略)
小松 (前略)まず人間の尊厳概念の中身を変えていきたいと考えています。まだその段階なんです。ただし、その先は香川さんがおっしゃるように人間の尊厳という言葉を使う必要はまったくないと私も考えています。それは「共鳴する死」という言葉を使う必要などなく、その実態が省みられて多くの人に広がって浸透していけばいいと思っているのと同じように、私がとらえ返した意味での人間の尊厳の内実が広がっていけばいいと思っています。(後略)
第二章 尊厳死法における生権力の作動 呼吸か「いのち」か ×市野川容孝(東京大学大学院総合文化研究科教授)
初出=月刊誌「現代思想」2012年6月号
第三章 尊厳死をめぐる闘争 医療危機の時代に ×荒川迪生(元日本尊厳死協会副理事長)
初出=月刊誌「現代思想」2008年2月号
第四章 「人間の尊厳」は解体すべき概念か 動物・理性・霊魂 ×金森 修(東京大学大学院教育学研究科教授)
初出=「週刊読書人」2013年1月11日号
小松 (前略)今からいきなり金森さんにずっと呼吸を止めなさいと言っても無理なように、瀕死の患者の呼吸器を急に外すのは、患者本人にとって相当に苦しいはずの暴力だということを言っているのです。結局、今回出ている二つの尊厳死法案の一番のポイントは、延命治療を行わなかったり中止した医師を免責することです。この点から話を少し拡大しますが、尊厳死にせよ脳死を死の基準にすることにせよ、生権力の問題を踏まえて、金森さんはどう思われているのか。フーコーは、人間を個別化するのと同時に全体化することを近現代的な生権力として見たわけですね。つまり、そこでは個人の欲望と国家による欲望が合致するようになる。それがまさしく尊厳死の問題に現れている。こんな状態で生きるくらいならば尊厳死を選びたいと個人が思ったとして、実は国家が口減らしとしてそう仕向けているのであり、そこを私は問題にしているんです。
金森 たとえば延命治療で長く生き延びられるとする。それをべストインタレストだとは思わない人もいますよね。その時に、当人が延命治療をしないと決めることが、国にとっても医療経済的に軽くなることを意味する。そこで個人と国家の意思が合致する。そのことを小松さんは危険視している。しかし本人の意思が確認できることを前提に、そのまま死なせてあげることもあり得ませんか。たとえ国家の負担を軽減するという方向と一致したとしても、そのこと自体が悪いとは言えないんじゃないか。
小松 ベクトルの向きが逆でしょう。今まで国家は、あうんの呼吸のままにさせていた。しかし医療財政が逼迫してきたから、しかも人体を科学利用できるようになったから、国家が人の死に制度的に介入してくる。これに対してはどう思いますか。
金森 当人の意思と合致する場合には、利用されてもいいと思いますよ。
小松 そうすると国家の欲望に市民がひれ伏すか、国家の欲望を自分の欲望のように錯覚してしまうか、どちらかになる。その突破口が尊厳死法案に他なりません。
金森 わかります。ひとつのあり得べき未来の軌道があって、「滑りやすい坂道」に人る前に、平坦なところで足を乗せるのはやめようという考え方ですね。でも他の可能性もあると思う。繰り返しになるが、個別意思で自分の人生を決めたいと思う人がいる。その決定がたまたま国家の財政保護政策と合致したとしても、当人の意思は尊重すべきなんじゃないか。問題は、尊厳死を法制化すると、そもそも昔から日本人は家族や社会・世間からの影響を受けやすいから、「そろそろあの世にいかなきゃいけないのかなあ」みたいな感じで、死ぬ方向に誘導されてしまう。そのことを恐れているわけですね。
第五章 生権力・生政治を超克するために 命の弁別問題から医療・福祉制度批判まで ×小泉義之
小泉 尊厳がないから殺すというときに、尊厳がないからの「から」が問題なわけです。そんな理由は成立しないはずなのにしているように見せかけていることが問題なのです。尊厳がないから生かしておく、だっていいんですよ。この「から」になんの根拠もない。ところが小松さんの書き方だと、尊厳がないと言いさえすれば、殺す十分な理由になるかのように言ってしまっているんです。
小松 それは実情がそうなっているのではないですか、ということです。
小泉 実情はそうなっています。
小松 だから私はそのうえであらゆる人間に尊厳があるといってもいいし、あらゆる人間に尊厳がないといってもいい。実際に小著の最後は、長期脳死者をあげてそこに関係性としての尊厳というものが成立しているのではありませんか、と呼びかけて開いて終わっているわけです。
(中略)
小泉 本の最後のところになりますけれども、小松さんは尊厳を再定義してしまうわけですよね。それは、こういう言い方をしたくないのですが、危険な手つきなのではないですか。さんざん尊厳概念を批判しておいて、「実は俺は尊厳はこう思うんだ、どうだ|」と言っているだけで。それは同じように排除のロジックになるのではないですか。
小松 事態として、そういうことがあるでしょう、と読者に呼びかげているだけです。
小泉 個別的にはこういう経験があるでしょうということですね。個別的にはいい経験がある、ということは小松さんがご本の最後に挙げた例を含めて、私は重々認めます。でも、そこが嫌だという人もいる。だからこそ、殺したいと思っている人もいる。私はこれは両方に理があると思っているんです。両方が自由に選べることがべストだと思っている。それにしても、おかしくないですか。小松さんの立場からすると、尊厳という語を使う必要がどこにあるのですか。
小松 私が言っているような関係性としての尊厳、あるいはその契機となる長期脳死者の存在、これが嫌だという人がいることも事実でしょうが、それを嫌だというのは私は嫌だということをその人たちに言って、また向こうは私に対してお前のそういう考えは嫌だと言い続けて喧嘩していけばいいということです。
小泉 そういう対等平等な関係は現時点では作られていないということですよね。作られていないから法制化に反対していくということではあるんだけれども・・・・・・。
小松 対等平等な喧嘩の地平を国家がかっさらっていくわけでしょう。
小泉 ただそのときに小松さんの美じい口マンは医療の保険診療ができて成立しているんですよ。(中略)それはまさしく現在の生権力・生政治において保障されているなかで咲いている花ですね。(中略)私は人工呼吸器は本質的医療に入ると思っています。というか、医療ですらないと思っています。iPS細胞にあれだけ金を注ぐんだったら、人工呼吸器の改良に注げということです。人工呼吸器は素人でも使えるんだから、医療でもなんでもない。私はそのように制度的にものを考えてしまうんです。(中略)私は、小松さんが福祉国家・医療体制に対して、普通の話しかしていないのが不満なのです。たかだか単なるネオリベ批判に終わっている。そのため、現在の医療を丸呑みしてしまっているように見えてくる。もっと医療を、もっと福祉を、もっとケアをという話としてしか聞かれないんですよ。私は、そういうことではないということを本当に誰かが言わないとどうにもならないと思っている。(中略)しかし、本当に困ったことに、世の中にこの間題に取り組んでいる人っていないんですよ。(後略)
第五章 脳はいかなる存在か DBS・認知機能・植物状態・脳死状態 ×片山容一(日本大学医学部長)
初出=月刊誌「現代思想」2006年10月号
法的「脳死」臓器移植患者の死亡は累計109名
肝臓移植患者、肺移植患者がそれぞれ2名死亡
日本臓器移植ネットワークは、2013年8月14日に更新した移植に関するデータページhttp://www.jotnw.or.jp/datafile/offer_brain.htmlにおいて、法的
「脳死」臓器提供にもとづき肺移植を受けた患者と肝臓移植を受けた患者の死亡が各2名増加し、法的「脳死」臓器移植患者の死亡は、心臓11名、肺37名、肝臓35名、膵腎同時8名、腎臓14名、小腸4名の累計10
9名に達したことを表示した。
これまでの臓器別の法的「脳死」移植レシピエントの死亡情報は、臓器移植死ページに掲載。
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