大阪大学 人工呼吸と心マッサージを行ないながら腎臓摘出
32歳男性の脳腫瘍患者から、和田事件よりも約2年前に
1966年10月10日、大阪大学第1外科に入院中の脳腫瘍患者(32歳男性・AB型)に対して、人工呼吸および心マッサージが行われながら左腎が摘出され、慢性腎不全末期の26歳男性(B型)に移植された。
日本移植学会雑誌「移植」Vol.2
No.1 Xpl.5
p28〜p33(1967年)に掲載されている、大阪大学泌尿器科学教室の楠 隆光教授と園田 孝夫助教授が執筆した同種腎移植の臨床報告−自験例について−は1965年3月以来、大阪大学泌尿器科学教室が経験した10例の腎臓移植を報告しているが、9例は生体(うち3例は無血縁)からの腎臓提供者であり、屍体腎はこの1例だけだ。
人工呼吸と
心臓マッサージを行ないながら腎臓を摘出することは、(後年の日本移植学会の判断でも)3徴候死後の臓器摘出ではない。
脳死臓器摘出の一類型だ。1968(昭和43)年8月8日の和田心臓移植事件よりも、約2年前の違法行為とみなされる。
この26歳男性レシピエントは血縁提供者がないために、1966年7月18日より13回にわたり血液透析を施行して全身状態の改善を図り、腎提供者の出現を待っていた(透析開始より移植まで84日間)。他の生体腎レシピエントが移植まで透析回数1回〜9回(平均3.86回)、透析開始より移植までの日数が2日間〜30日間(平均16.86日間)に比べると、きわめて長期間、透析を受けて待機していた。
透析は1967年10月より保険給付対象となった。健康保険本人は10割給付だが、家族は5割の、国民健康保険は3割の自己負担があり、自己負担分は毎月20〜30万円に達した。透析機器も不足し、透析を受けられない患者も多かった。1972年より透析医療費は医療保険に加え、身体障害者福祉法により公費負担となった。後に一部自己負担が復活した。
ドナーとされた脳腫瘍患者の死亡から血流再開までの腎虚血時間は269分を要したが、レシピエントは移植後4分にて尿分泌が認められた。術後5日間にわたって、レシピエント300mlないし700mlの尿排出が認められたが、5日目に突然、脳出血のため死亡した。移植腎は触診上、正常と考えられたが、解剖は拒否された。
「移植」Vol.2
No.1 Xpl.5はp31に「第1外科教室より、32歳の男子(AB型)で、脳腫瘍患者の屍体腎提供の承諾を得たので、人工呼吸および心マッサージのもとに左腎摘出を行い・・・」という。家族の承諾に関する記載はない。
千葉大学も1968年に、8歳児からの腎臓摘出を報告している。
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