臓器移植手術56例以上の移植費用を、次々と着服
競馬に使った臓器移植コーディネーターを書類送検
警視庁愛宕署は2001年15日、日本臓器移植ネットワーク北海道ブロックセンター(札幌市)の西垣 文敬・元チーフコーディネーター(44歳)を、移植費用の特別会計から約3,800万円を着服した、として業務上横領容疑で書類送検した。
愛宕署の調べでは、同コーディネーターは1997年4月ごろから2000年11月ごろまでの約3年間にわたり、臓器提供者がいる病院や臓器摘出チームなどに支払われる医療保険金を着服して、競馬に使っていた。臓器移植が行われるたびに、着服とその穴埋めを繰り返していた。約3,800万円は腎臓移植手術56例分に相当する。移植ネット側の最終的な損害額は約1,200万円だった。愛宕署は、損害額が弁済されていることなどから書類送検にした。
書類送検の横領容疑は1997年以降だが、同コーディネーターは日本臓器移植ネットワーク本部に「1996年度から移植施設からの入金の一部が未収」と虚偽の報告もしていた。着服した総額は、より大きいと見られる。
同コーディネーターは1984年、北大医学部附属臨床検査技師学校を卒業し、市立札幌病院中央検査部へ。1989年から移植コーディネーターを務め、1993年から臓器移植コーディネーター専任になった。1999年の第1例目脳死下臓器移植では高知赤十字病院に派遣され、コーディネイト業務を行った。8例目脳死下臓器移植まで関わっていたとされる。
北海道では臓器移植推進の中心的存在で、2000年12月4日に日本臓器移植ネットワークが同チーフコーディネーターを懲戒解雇し厚生省も告発した時には、北海道民に衝撃を与えた。“
アラン・シューモン教授(UCLA小児神経学)来日講演
「大脳新皮質死」論者から「全脳死」論者へ、そして「脳死は死ではない」論者に
大阪医科大学小児科の田中 英高氏ら
日本人は理論的根拠を持たないまま,『脳死=人の死』を感覚的に是認している
日本小児医事出版社発行の「小児科臨床」54巻10号(2001年10月号)は、p1935〜p1938に「子どもの脳死と死::脳死概念や定義の不整合性について
UCLA
小児神経学・アラン・シューモン教授 来日記念講演の概要と解説」を掲載した。これは2001年3月の講演会の要旨。著者は大阪医科大学小児科の田中 英高氏、玉井 浩氏、:東京大学医学部小児科の榊原 洋一氏、東京医科大学小児科の星加 明徳氏。以下は
主要部分の要約。
米国では,脳死診断基準を満たせば,ただちに死体とみなされるため,延命治療(死んでいるので,延命とは言えな
いが)に対して,一切の医療保険は適応できないため,ただちに治療は中断されるのが実情である。そのような国にあって,科学的,理論的,客観的な立場から,現在の脳死概念の矛盾点を指摘
しているのが,UCLA小児神経学教授,アラ
ン・シューモン氏である。
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ア'ラン・シューモン(Alan Shewmon)氏について
教授はハーバード大学音楽専攻出身のピアニス
トであったが,在学中の霊的体験から,卒然と魂を探究する医師になろうと,神経内科医に進路転向したという経歴の持ち主。敬虔な
ローマカソリック教徒で,教皇庁科学アカデミーの会員でもある。主たる研究テーマは,小児難治性てんかんの治療,およびbrain
deathの概念やbrain deathの遠隔成績がある。意識があるhydranencephalyや身長増加を認める脳死小児などの自らの診療経験を通して,信頼あるデータを基にしたアカデミックな立場から,感情的な論調ではなく,自験例を通して,脳死の論理的矛盾点を冷静に指摘している。
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講演演題名 "Decorticate Children, Brain Death and
Death" by Prof. Alan Shewmon
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講演抄録
"brain death(脳死)"という言葉は,ほぼ誰しもが受け入れて使っているものの,その概念は世界中で混乱しているのが現状である。すなわち
"brain death"の持つ正確な言葉の意味と,それが"death(死)"と同じものなのかといった理論的根拠のいずれにおいても,実のところ,その概念に整合性がないのである。
私は,哲学や生命倫理に強い関心を持っている小児神経科医であるが,何年もの間,人の死に対する理路整然とした概念や,臨床神経学と哲学的原理との統合を求め続けてきた。私の臨床経験の結果,高次機能と
しての大脳皮質そのものよりも,脳組織全体がよ
り重要な機能を果たしていると考えたこともあった。しかしながら最終的には,現在行われているあらゆる脳死診断は誤りであると考えるに至ったのである。
大脳皮質の死は人の死?
私は,臨床経験の初期の頃には,極端な唯脳論者であった。人の死というものの本質を神経学的に理由付けようとして,"whoIe
brain death(脳全体の死)"だけでなく,"neocortical
death(大脳新皮質の死)"ですら人の死と言い切ろうとした。そして議論の余地もないほどの思考実験を行い、過去に発表してきた。
その“思考実験”をここでお話したい。ある人物Aさんを頸部で切断して,頭部はただちに人工心肺装置を取り付け延命させ
"head"とする。そして胴体だけのもう―方は,人工呼吸器などをつけて延命させ"body"とする。この場合,どちらがもともとの"Aさん"か?当然,人工心肺装置につながれた,"head"がもとの"Aさん"であろう。なぜなら,"Aさん"は,きっと"こっちの僕がAだ!"と喋るから。
この実験をさらに進めて,"head"の大脳皮質と眼だけを取り出して,酸素化した溶液を満たしたビーカー内に入れる。すると大脳皮質は思考して,目もぱちくりさせるので,きっとこちら側がもとのAさんであろう。大脳皮質だけを除去された自発呼吸のある,ほぽ原形を保っているもう―方の側は,もとの"Aさん"ではなくて,ただの死体ということになる。すなわち,大脳皮質自体が"人間"そのものであり,皮質が機能しなければ,あるいは皮質がなければ,人ではなく,死体である,とい
う結論が導き出されたわけである。
水頭無脳児との出会い
私がこのような理論を発表していた時,大脳皮質がほとんどないにもかかわらず,意識のある
hydranencephalic children(水頭無脳児),Andrew君 (6歳)に出会った(講演会当日はビデオ供覧)。彼は水頭無脳児でありながら,音楽にも嬉しそうに反応し,鏡に映る自分の顔をみて嬉しそうに笑うのである。さらに
は,背臥位の状態で足をぴょこぴょこさせなが
ら,家具にぶつかることもなくべランダに出ることができた。
このような症例を目の当たりにして,私は今までの大脳新皮質の死論主義を捨て去る必要に迫られ,一般に受け入れられている植物状態に対
する神経学的なドグマ,すなわち,植物人間はいくら努力しても改善はのぞめない,という教義を見直さなければいけなくなった。そこで,先ほどの"思考実験"を逆にたどり,―歩譲って,脳全体の死であるならば,それは人の死と認定する考えの立場をとったのである。すなむち,『脳全体の死』論主義者となった。そんな時(1989年),欧米社会で最も権威の高い教皇庁科学アカデミーに参加すると,私の主張する脳全体死,いわゆる現在の脳死)が,人の死として是認され,この会議の共同声明がなされた。
脳死がなぜ人の死であるか,というrationale(理論的根拠)の中で,現在,最も正当性があるものは,脳が"central
integrating organ"で
あるというものである。すなわち,脳は身体各部の臓器をintegrate(統合)している器官である
から,脳死によって統合機能が失われると身体各部臓器がばらばらに動き始め,内分泌機構,感染防御機構は破綻し,数日(小児では約10日)以内
に確実に死を迎える,というものである(注:米国大統領委員会,1981年)。すなわち,脳死患者は数日以内に死ぬので,脳死=死と考えるのである。また身体機能を維持するためには身体各部の統合機能が必要で,それを行い得るのは脳だけだ,とする論理である。すなわち,脳=central
integrating organ』という理論的根拠に基づいて,脳死を人の死と是認しているのである。
臨床的脳死児 T,K,との出会い
ところが,その後の3年間に,私はさらに第二の転換をせまられることになる。14歳少年で交通事故による脳死後,2カ月以上生存した症例や,
4歳時に化膿性髄膜炎から臨床的脳死に陥りなが らも8年間も生存している男の子(T・K)に出
会った(講演会当日はT,Kのビデオ供覧)。
T・K・は先ほどのAndrew君とは違って,4
歳時の化膿性髄膜炎罹患直後から,全くの植物状態であった。無呼吸テストは母親が拒否したためできないが,それ以外の脳死判定はすべて満たしていた。この状態なら,約10日以内に確実に死を迎える,と考えられていたが,T・Kはそうではなかった。外傷が生じた時,神経系統の調節がなくとも,傷は自然に治った。統合機能が失われ身体各部臓器がばらばらに動き始め,内分泌機構,感染防御機構は破綻するどころか,8年間も生きているのである。またさらに,驚くべきことに身長も確実に伸びているのである。
この事実は,明らかに,現在の脳死の理論的根拠,"central
integrating organ"説を根底から
覆すものである。『普遍的真理は,唯一つの例外
も許してはならない』のであるから,T・Kの 例は,"centraI
integrating organ"説が誤りであったことを示しているのである。とうとう,私
は『脳全体の死』すらも人の死でないと
考えざるを得なくなったのである。
脳死=死,の理論的根拠の不整合性
『死』というものは,脳を含めた身体各部の臓器のvital
systemが破綻し,さらに回復不能の時点まできた時 (point of no
return)のことを指すと考えられる。脳死の患者(脳以外の他の身体機能が正常に維持されている場合)は,『死』ではなく,むしろ『致死的状態』か,あるいは
『深い昏睡状態』と考えるべきであろう。 脳死=死,の理論的根拠となっている"centraI
integrating organ"説は,注意深く理論的にかつ生理学的に,精密な再評価すると,以上述べたような理論的矛盾が噴出してしまうのである。またさらに,脳死=死を主張する人達があげているもう一つの理論的根拠,すなむち脳死体における人間性の欠如(人間らしさの欠如),とい
う根拠にも矛盾がある。世間には人間らしさがなくっても基本的人権をもって生きている人が大勢
いるからである。
以上のべたように,"Brain death"なる言葉や概念は,不明確で理論的裏打ちが間違ってお
り,『脳死』という言葉自体,必要性を欠いたものである。『脳死=人の死』の理論的根拠が間違っている現状において,また関連学会において
も,『脳死=人の死』を否定する意見が10年前よ
りもはるかに多くなってきた現在において,日本がわざわざ急いで,古い間違いを犯すことのない
ことを期待している。
本記念講演会にお いて,Shewmon教授は,彼の信条を180度変えてしまうようなAndrewやT・Kの臨床経験について語ったが,これらの臨床例は講演会の聴衆の我々にとっても大きな驚きであった。彼はそれを単なる驚きに留めることなく,欧米における現在の脳死の定義を理論的にかつ,生理学的な立場から精密に論じ,その重大な欠陥を指摘して,我々に冷静に提示してくれた。
今回の彼の講演を聴いて,我々は今後さらに議論の必要な,次のような重要課題に気がつくのである。
欧米では,『脳死がなぜ人の死であるのか』と
いう理論的根拠は,大統領委員会の声明にもある
ように,脳死になれば,ほぼ全例,数日以内に死亡する(なぜなら,脳は
central integrating organであるから)という点にある。Shewmon
教授は,数多くの証拠を挙げてこの理論的根拠の間違いを指摘したのである。
しかしこの根拠は,我々日本の医師にとっては,納得がいかないのではないか。多くの日本の医師は患者が脳死に陥ったとき,数日以内に死亡
するとは思っていない。それどころか,献身的に通常の治療を行えば,脳死患者は延々と生命が保たれると感じている。実際に,脳死患者では長期
の治療のため莫大な医療費がかかり,脳死患者にいつまで高額な治療を続けたものかと,考えあぐねることもしばしばである。現に日本医師会ニュースにおいても,脳死患者の高額治療を中止するためにも,脳死臓器移植を推進しようという論調が見られる。
同じ脳死患者でも,死亡までの時間が,日本では欧米よりは長いという事実は,日本における『脳死=人の死』を支える理論的根拠として,欧米流の理論的根拠(すなわち,脳死患者は数日以内に死亡する)は,まったく使えない,という重大な問題を突き付けるのである。これはとんだ落とし穴であった"すなわち,『脳死=人の死』と
考えている人達は,上記のような背景を知らずに,欧米の理論的根拠を追従してきたと考えられるからである。
では,日本において『脳死=人の死』を支える理論的根拠は,いったい何なのか?ここで我々は,根本的で初歩的な問題に行き当たることにな
る。日本では,『脳死』については,全体脳の非可逆的な機能全廃,と定義されている。しかしながら,『脳死=人の死』という等式を肯定する理論的根拠は,なんら規定されていないのである。すなわち,日本では,脳死の理論的根拠が不明確なまま,便宜上,脳死臓器移植を法制化したと言っても過言ではない。しかしその根本において,よりもっとも重要な『脳死が,なぜ人の死か』という正当性について,明確な言語を使った責任のある説明はまだなされていない。我々,日本人は,正しい理論的根拠を持たないまま,『脳死=人の死』を感覚的に是認して法律を作った,とい
う歴史的事実を覚えておかなくてはならない。
これから日本で論議されるはずの脳死臓器移植法改案においては,こうした事実を十分に踏まえ
た上で,議論を重ねる必要があろう。奇しくも昨
年10月,臓器移植法改案作成者のひとりである町野 朔教授がある雑誌のインタビューに対して,『脳死判定後,もし何年も心停止しない症例があれば,脳死を人の死とすることはできず,今回の改正試案は撤回ということになるでしょう』と発言したことを書き添えておきたい。
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