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2011年12月31日 「移植の曙 千葉大学第二外科移植班の記録」が刊行
雨宮:口説き落として腎提供をうけることはない、死体泥棒扱いに愕然
深尾:筑波大での腎移植第1例当時、透析も初めて、岩崎教授が強行 
   ドナー候補者家族に断られても、30分は粘り強く力を尽くして頼む
雨宮:脳死臓器提供、検証はすべて合格 事実無視の議論は進歩なし
植松:フランス 移植適応外の元大統領の甥に移植、外科新病棟建つ
2011年12月10日 国内心臓移植患者の累計死亡5例 阪大で4例死亡、生存率急落
2010年に心停止ドナー、市立札幌10例、北大10例、藤田8例
外国人の生体間腎移植15例?生体ドナー1年で追跡不能11%
0〜9歳「心停止」ドナー1例、6割にカニュレーション、心マ25%
2011年12月 6日 法的「脳死」臓器移植患者の死亡は累計73名
肺移植患者1名、肝臓移植患者1名が死亡
   

20111231

「移植の曙 千葉大学第二外科移植班の記録」が刊行
雨宮:口説き落として腎提供をうけることはない、死体泥棒扱いに愕然
深尾:筑波大での腎移植第1例当時、透析も初めて、岩崎教授が強行 
   ドナー候補者家族に断られても、30分は粘り強く力を尽くして頼む
雨宮:脳死臓器提供、検証はすべて合格 事実無視の議論は進歩なし
植松:フランス 移植適応外の元大統領の甥に移植、外科新病棟建つ

 

 雨宮 浩、深尾 立、落合 武徳編集の「移植の曙 千葉大学第二外科移植班の記録」が2011年中に発行された(非売品、国立国会図書館・東京本館ほか全国16の大学医学部付属図書館に蔵書あり)。編集後記によると、千葉大学第二外科において日本初の肝臓移植を行なってから半世紀を経過し、移植班の記録を記録に留めようという目的で刊行された。以下は同書の注目部分(タイトルに続くp・・・は掲載ページ)。

 

*千葉大学第二外科 移植班系図、p4

 この系図に書かれた人名のうち、雨宮姓は雨宮 浩の1名だけ記載されている。1983年の日本移植学会雑誌「移植」 Vol.18 No.5、p450〜452に当時の日本移植学会理事長・桑原 安治氏は「私の長男が足利日赤病院の眼科の医長をしていた時に、千葉大学の雨宮氏のグループが腎臓を取りにやって来た。旅館に泊まって患者さんが死ぬのを待っていて、死亡すると、息子の話によると、禿鷹のように全部持っていってしまったということを聞いて、なかなかやっているなと感心した。移植をやる人は非常に勇気と熱情を持ってやらなければならない。非常に結構なことだと思った。腎臓は焼いてしまえば跡は残らない・・・」と、死体からの臓器・組織泥棒を扇動した。

 

*雨宮 浩(宝塚大学看護学部教授):腎移植 日本の移植の曙、p22〜p37

 (1977−78年千葉大学第二外科講師当時)現場にいた私たち仲間には症例数のためにドナー探索をするといった気持ちは全くなく、私自身についていえば死体腎移植という医学テーマの一部としてドナー探索を極く自然にしていたというのが本音である。したがって世にいわれたように「遺族を口説き落として」腎提供をうける、といった油濃さは全くなく、いまでいう遺族に対するインフォームドコンセントでの説明も、説得などは全くせず、ごくあっさりしたものであった。医師と患者遺族という立場の違いよりも、同じ日本で育ち、同じ時代を生きるもの同士としての感覚のほうが強く、腎提供を無理やり押し付けることなど論外であった。後になって脳死臓器移植法が成立したとき、移植医をドナー手続から完全に外すことになった理由が、まるで私たちの今までの行いが「死体泥棒」のようであったと言わんばかりのものであったのには、愕然としたのを思い出す。(中略)

 1997年10月16日施行の臓器移植法以後の4年間にわたって脳死ドナーゼロが続き、(中略)、その移植医の安易さ(尤も移植医世界では通用してきた)とネットワークというシステムの頑なさ(株式会社組織では当たり前かもしれない)が起こした軋轢は、移植医とネットワークという個人的な範囲をこえてしまい、その日本の臓器移植への悪影響は和田心臓移植なみのものがったと思っている。

当Web注:「ドナー候補者家族を口説き落として腎提供をうけたりしていない」との雨宮氏の説明は、同じ移植班である次の深尾氏の「断られても断られても30分は粘り強く力を尽くして頼む」とは正反対の態度で整合しない。一方、日本移植学会の桑原理事長が暴露したように、火葬予定(臓器を盗んだ証拠が自動的に隠滅される予定)の人体から無断で臓器を摘出するのならば、ごくあっさりしたとした説明であっても整合する。

 

*深尾 立:腎移植、p190〜p193

 筑波大学附属病院は1976年に開設された。千葉大学第二外科から岩崎洋治先生が教授に赴任し、岡村、深尾、尾崎君らがついて行った。
 筑波大学での腎移植第1例は死体腎移植で、病院が開設した翌年の1977年8月17日だった。腎提供施設は国立佐倉病院であった。ドナーの連絡が人ったときは、まだ筑波大学では血液透析を始めてなかった。しかし誰も見たことも聞いたこともなかった吸着型フィルターを使うポータブルの米国製透析装置があった。岩崎教授にこのよう状況で死体腎移植から第一例をやるよりは、最初から利尿が得られる生体腎移植から始めた方がよろしいのではないかと提言したところ、「そのようなことを言っていてはいつまで経っても移植はできない、なにがなんでもやって成功させるのだ」と大層叱られた。ICUの個室を移植患者用個室とし、部屋や運び込む用具の滅菌、厳重な手洗い方法を設定したり、看護師教育などと大慌ての準備であった。しかしなんといっても大変だったのは血液透析であった。
 移植を受ける患者さんが到着し、直ちに東京大学医科学研究所で透析の経験豊かな泌尿器外科鈴木正明講師が中心になって術前透析を始めた。とにかくマニュアルと首引きでやる透析なので、患者さんはこんなに下手な透析は初めて受けたとこぽしていた。しかし移植後利尿がつくまで繰り返し透析を行ううちにわれわれの技量も上がり、患者さんも信用してくれるようになった。(中略)

 移植手術の麻酔にも問題が生じた。内藤裕史麻酔科教授は札幌医大から赴任された方で、和田移植以来移植に不快感を持たれていて麻酔を拒否されてしまった。しかし同じく札幌医大から赴任した山下衛助教授が親切にも麻酔を担当してくれることになり、移植は成功した。(中略)

 筑波大学での最初の死体腎提供は1979年3月15日で、ドナーはなんと脳神経外科牧豊教授の同級生で、土浦市で外科病院を開業されていた千葉大学第二外科の大先輩の野上一先生だった。(中略)

 その後牧先生にはドネーションに絶大な協力をして頂いた。先生は心停止後のドナー候補者家族にどのようにドネーションを頼むかわれわれに教えて欲しいと言われた。私は尾崎梓君とで、心停止後30分以内に手術室に運ぶことができれば腎移植ドナーとなり得るので、断られても断られても30分は粘り強く力を尽くして頼むことと話した。「そのような努力をしていたのか」といたく感心された牧先生は、本当にご自分の患者の遺族に頼んでくださるようになったのには驚くと同時に本当に有り難く思った。(中略)

 大学病院が始まって間もない頃、つくば市内で内科開業し透析治療もされていた室生勝先生が腎提供を呼びかける筑波大学学生組織を作られ、「そらまめ会」と名付けた。この会には医学以外の学群の学生も入っていて、大学祭とか町のイベントの際にドナーカードを配ったり活発な活動していて10年以上続いたが自然消滅した。そのリーダーであった医学専門学群3回生辻村信正君と9回生の佐田紀彦君は現在厚生労働省に勤務している。

 

*雨宮 浩(宝塚大学看護学部教授):改正臓器移植法、p371〜p375

 2009年4月17日衆議院厚生労働委員会臓器の移植に関する法律の一部を改正する法律案審査小委員会(委員長三ッ林隆志議員)に依頼され出席した。(中略)

 田中参考人が脳死から生き返ったという小児症例は、いずれも完全な脳死判定をしていない症例で、雑な議論のそしりを免れない。(中略)

 光石参考人は、(中略)死後に臓器を提供する行為がドナーにとっての不利益行為以外のなにものでもないという決め付けである。そこから氏のすべての発想が生まれているとしか思えなかった。臓器移植法が出来てから12年、その間に臓器提供された人々がどのような思いで提供されたのか、全く理解されていないようで残念なことであった。
 以前は医師に対する不信感から、一般人には見えない死といわれた脳死を死として判定することに拒否反応を示す人々がいた。しかし幸いなことに、今回の小委員会では、医師に対する不信感を前面に出した議論はなかった。これは私が発言中にも述べたが、この12年間90例たらずではあるが、脳死下での臓器提供事例については、その全過程について「脳死下での臓器提供にかかわる検証会議」によって、各事例ごとの厳正な検証が行なわれ、一度も不合格となったことがない、といったわれわれ移植にかかわった者たちの限りない努力が社会に認められ、臓器提供と医師不信を直結した議論が沈静化されてきた証拠であろう。小委員会での議論のなかで、この12年間の実績は大変に重く、この事実を無視しようとする議論は、12年前の昔にタイムスリップした異次元の議論としてうけとめられかねない雰囲気さえ感じられたのであった。(中略)

 齋藤参考人は日本の宗教界を代表して発言されたが、(中略)宗教宗派によっても色々に考え方があり、すべての宗教の統一した意見として提示するのには無理があると思う。しかし氏が、脳死者が出産したとか、あるいは生還したとか、小児の脳死判定はできないのだ、といった不確実な情報しかもちあわせていないことのほうが問題に思えた。(中略)

 小委員会が終了したのち、いわゆる脳死慎重派あるいは移植消極派の方々の発言を思い返してみても、またA案に対するB、C案の内容をみても、ただ単に17年前の脳死臨調報告書の少数意見を引きずっているだけのようで、そこに発展した理論というものが見えてこなかったように思う。それに対し、臓器移植は地に足の着いた、しっかりした実績として積み上げられているのを感じた。この12年間についての慎重派の認識は、移植関連医療には進歩がなかったという、しかも12年前の自分たちの理論がまだ通用するという、誤った認識であったのではなかろうか。
 2010年7月17日、臓器移植法が改正されたが、これは当然の帰結といえる。

 

当Web注:2回の無呼吸テストも含めて脳死判定を行なった後に、脳波、痛み刺激への反応など脳死判定基準を満たさない状態となった小児例は複数報告されている。すべての脳死判定例を概観すると、心停止までの期間は歴史的に延長し続ける一方だ。脳死判定された女性の出産例脳死臓器ドナーとされた患者の社会復帰例も報告されており、雨宮氏の現状認識のほうが間違っている。
 厚労省検証会議で「一度も不合格となったことがない」としているが、実際には、臓器提供後に麻酔を投与されて臓器を摘出された現実を知って「むごいことをした、かわいそうなことをした」と嘆いている家族、さらに臓器摘出時に脳死ではないことがわかったケースもある。法的脳死判定7例目では、臓器摘出施設の所属医師である杏林大の竹内氏、島崎氏が、検証会議に所属したまま「身内の検証」を行なった。脳死判定が確定する以前=法的脳死の死亡宣告以前から、脳蘇生に反するドナー管理の開始が制度化された。脳死判定対象外の患者に対する脳死判定の強行は、大部分の脳死判定例が該当する。
 厚労省検証会議を臓器提供推進派ばかりで構成したことによって、実際には数々の問題があっても、「合格」の印象を与え続けることに現在は成功している、といえる。そのこともって雨宮氏は、「医師不信は沈静化されてきた」と宣伝しているに過ぎない。

 

*植松 武史(埼玉県厚生連久喜総合病院副院長):パリの肝移植、p150〜p156

 1989年4月から1991年4月まで臨床肝移植の勉強を目的に、フランス、パリ郊外にあるパリ南大学の関連病院のポール ブルッス病院に留学した。
 ミッテラン元大統領の甥が多発性肝転移にて肝移植をうけました。このレシピエント手術に助手として入りましたが、原発は不明で肝は著しく腫大し、両葉に径1センチほどの転移が無数に存在していました。通常であれば肝移植の適応なし、原発巣検索を十分にするべきところであった症例です。案の定早期に移植肝再発が起き亡くなったのですが、その後の剖検で精巣腫瘍の転移とわかりました。適応からしてひどくいい加減なものでしたが、それでもミッテランには感謝されたのでしょう、この手術によって数年後に肝胆道外科に新病棟が建つことになったのです。このこともだいぶ前にもジスカールデスタン元大統領の親族がポール ブルッス病院の血液内科で治療を受けた後、立派な新病棟が建ったというエピソードがあったそうです。

 


20111210

国内心臓移植患者の累計死亡5例 阪大で4例死亡、生存率急落
2010年に心停止ドナー、市立札幌10例、北大10例、藤田8例
外国人の生体間腎移植15例?生体ドナー1年で追跡不能11%
0〜9歳「心停止」ドナー1例、6割にカニュレーション、心マ25%

 2011年12月10日付で日本移植学会雑誌「移植」46巻4号が発行され、臓器別に登録報告が掲載された。

 日本心臓移植研究会は、「本邦心臓登録報告」(p537〜p541)において、110例のレシピエントのうち「死亡例は5例で、死因は多臓器不全、誤嚥性肺炎、感染症、胃癌、腎不全であった」とした。「図13 心臓移植の累積生存率」は、移植後1年前後で2名が死亡、4年超で1名死亡、11年前後で2名が死亡したこと。「12年以上の生存例は2例あり、最長例は12年5ヵ月である。移植後10年の生存率は80.0%と、2011年度国際レジストリー53.0%より良好である」としたが、図13は移植後11年で64.0%に急落したことを掲載している。
 日本移植学会の臓器移植ファクトブック2011http://www.asas.or.jp/jst/pdf/factbook/factbook2011.pdfは、p12で2011年12月31日現在の120例で、移植後12年超の生存率は65.9%と表示している。
 日本の心臓移植患者は、若い心筋症患者が多いこと、長期間の待機が可能な患者に行なわれているため、世界標準の生存率より高いことは当然視されてきた。しかし、心臓移植症例が110例を超えて、心臓移植患者の生存率は急落し、国際心肺移植学会統計に接近しはじめた。

 2011年11月25日〜27日に開催された第49回日本人工臓器学会で、大阪大学の澤 芳樹氏が「重症心不全に対する集学的治療」の特別講演を行なった。「人工臓器」41巻1号p31〜p36掲載の講演内容=http://www.jsao.org/image/custom/pdf/41_1PDF/41_31.pdfによると、p32に2010年末までの心臓移植症例数の推移グラフを示し「当大学においてはこれまで1999年の第1例目より30例の脳死心臓移植を施行した」。p33に「30例中2例を3ヵ月目と4ヵ月目に感染症で、1例目を11年目に腎不全で、1例を11年目に悪性腫瘍で失った」としている。法的脳死心臓移植患者の死亡例は、1例目は国立循環器病センターの患者だったが、それ以後はすべて大阪大学医学部付属病院の患者だったことになる。

 一方、日本臓器移植ネットワークの移植に関するデータページhttp://www.jotnw.or.jp/datafile/offer_brain.htmlは、2012年2月18日現在にいたっても、心臓移植患者の死亡は4例と受け取れる表示をしている。

 

 「わが国における臓器移植のための臓器摘出の現状と実績」(p501〜p505)は、2010年の施設別の心停止腎臓摘出回数(ドナー数)が市立札幌病院10例、北大病院10例、藤田保健衛生大病院8例、東京女子医科大病院7例、国立千葉病院5例、聖マリアンナ医大病院5例などであったことを掲載した。

 

 「腎移植臨床登録集計報告」(p506〜p523)は、2010年の移植実施報告1484例のうち1332例(未回収152例、回収率89.8%)。生体腎移植ドナー追跡調査結果も初めて行なわれたが、移植後1年の時点で早くも追跡不能(予後不明)が88例と11.5%を占めた。生体腎ドナーの社会復帰状況は、移植後1年で677例中1例は身体的不良、2例が精神的不良の報告があった。

 生体腎移植1127例のうち、14名のレシピエントが日本人以外の東洋人、1名が黒人だった。外国人間の生体腎移植とみられるが、生体ドナーの自主性、親族関係の確認方法は記載がない。

 献腎(死体腎)移植188例のうち、1例はドナーの年齢が0〜9歳、4例は10〜19歳だった。献腎レシピエントのうち1名が日本人以外の東洋人だった。心停止ドナーによる腎臓移植133例のうち、心停止前カニュレーションありは82例(61.7%)、心臓マッサージあり33例(24.8%)。温阻血時間は平均9分だった。

 


20111206

法的「脳死」臓器移植患者の死亡は累計73名
肺移植患者1名、肝臓移植患者1名が死亡

 日本臓器移植ネットワークは、12月6日に更新した移植に関するデータページhttp://www.jotnw.or.jp/datafile/offer_brain.htmlにおいて、法的 「脳死」判定手続にもとづき肺移植を受けた患者の死亡が1名、そして肝臓移植を受けた患者の死亡も1名増加 し、法的「脳死」臓器移植患者の死亡は、心臓4名、肺26名、肝臓25名、膵腎同時6名、腎臓11名、小腸1名の累計73名に達したことを表示した。

 これまでの臓器別の法的「脳死」移植レシピエントの死亡情報は、臓器移植死ページに掲載。

 


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