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2009年10月31日B 雨宮:なぜ死体腎移植に法律が必要か、医道に従えばいい 
桑原:症例が増えると、必ず悪いことを医師が出てくるから
神野:脳血流ゼロ証明は困難、小児脳死で困難の経験なし
日本移植学会 脳死移植実施10周年記念特別号
2009年10月31日 松戸市立病院:心停止後臓器提供、臨床的脳死は客観性・透明性劣る
東京大学・会田氏:人工呼吸中止に医師の心理的負担・嫌悪感が影響
第37回日本救急医学会学術総会・集会
2009年10月15日 刈羽郡総合病院 入院・新患患者に臓器提供意思調査
治療目的の情報収集に、縮命前提の調査・設問を混在
2009年10月 9日 新潟県臓器移植コーディネーターの秋山氏が教育講演  臓器提供を増やす本質
「家族の悲嘆軽減」「回復見込み無しを認識させる」、その後「臓器提供意思の抽出」
「臓器提供はリビングウィル、ただし家族の忖度もこれに含まれるという特殊性あり」
プロの役者に患者家族役を演じてもらい、コミュニケーションスキルをトレーニング
2009年10月 3日 藍原:フィリピンの医療従事者は臓器売買の「監視役」になれるか
習田:米国クリニカル移植コーディネーターの倫理的ジレンマ状況
山本:,突然の生体肝移植となったレシピエントの移植術後の混乱 
第5回日本移植・再生医療看護学会
   

20091031B

雨宮:なぜ死体腎移植に法律が必要か、医道に従えばいい 
桑原:症例が増えると、必ず悪いことを医師が出てくるから
神野:脳血流ゼロ証明は困難、小児脳死で困難の経験なし
日本移植学会 脳死移植実施10周年記念特別号

 日本移植学会は2009年9月、法的脳死判定・臓器摘出移植の1例目から10年を経過したことを記念して、日本移植学会雑誌「移植」44巻特別号を発行した。タイトルは「わが国における臓器移植の現況と将来展望 脳死移植実施10周年を記念して」としている。以下は、同特別号から注目される雨宮氏と神野氏の文章の主要部分(タイトルに続くS・・は掲載貢)。

 

*雨宮 浩(元・国立小児病院小児医療研究センター・名誉総長):移植と法律 私的35年の歴史、S31−S34

■先行的存在の角腎法と先史的存在の角膜法
 「角膜および腎臓の移植に関する法律 (法律第63号1979年)」(以下、角腎法)なしに「臓器の移植に関する法律(法律第104号)」(以下、臓器移植法)を語ることはできない。そしてまたこの角腎法は「角膜移植に関する法律(1958年制定)」(以下、角膜法)抜きには語れない。
 1905年にわが国最初のヒトからヒトへの移植として知られる角膜移植が行われてから、断続的に遺体からの角膜移植が続けられてはいたが、検察が死体損壊の疑いで動きはじめ、厚生省から、治療という目的のための眼球摘出であり、死体損壊にあたらないという通達が出たりしたとも聞いているが、角膜法はこのような状況のもとで死体からの眼球摘出についての要件と手続きを定めたもので、わが国の移植関連法の第1号であった。
 1980年〜1985年日本移植学会初代理事長であった慶応大学眼科学名誉教授の桑原安治先生は、角膜法制定に尽力された方であったが、死体腎移植についても、法律の制定が必要とお考えであった。(中略)そしてできたのが角腎法である。
 もっとも、当時の私は学会中枢がどのような理念のもとに活動されていたのか、まったく無頓着で、日々ドナー探しと移植症例の管理に明け暮れ、臨床医として十分満足もしていたので、なぜ死体腎移植に法律が必要なのか、理解できないでいた。ある時桑原先生と同席したとき、次のように疑問をぶつけたものである。ドナー遺族は、もちろん提供を断る人もあって、それはそれでよろしいが、少なくとも提供に同意する人は、その気持ちは純粋に人間愛あるいは人類愛と呼ぶべきものである。また提供を受けた患者は、ドナーに対する感謝の気持ちは何年たっても変わらない。それは患者家族にしても同じで、不幸にして亡くなったあと、病理解剖を断る患者家族が1人もいなかったのも事実であり、従って、この間には法律で規制しなくてはならないような案件はまったくない。それなのになぜ法律が必要なのか、と伺ったものであった。恐らく私の気持ちの底には、医療というものは法律で左右されるべきものではなく、医道、昨今でいう医の倫理こそがわれわれの従うべきものであるといった信念、それも確固たる信念があったのではないのかと回顧される。
 桑原先生の答えはきわめて簡単なもので、君たちのように真面目にやっている医者ばかりならよいが、これから症例が増え関係する医者が増えると、必ず悪いことをするものが出てくる。そしてそれが日本の死体腎移植の発展を阻害する。従って、悪いことができないキチンとしたルールを作る必要があって、その最も権威あるルールが法律である、と言われたのを記憶している。ただし悪いこととは何を指すのか、思いあたらずじまいであったが・・・・・・。
 ところで、法律は指定された行為を正当化してはくれるが、同時に多くの制約が発生するものである。しかし、この角腎法に関するかぎり、角腎法ができる前と後とで、われわれ死体賢移植の現場では何ら変わったことは起きなかったと思う。なぜ大騒ぎもなく、粛々と今までどおりに死体腎移植ができたのだろうか。それは角腎法であつかうドナーの死が三徴侯死であって、慣れ親しんだ死であったためであろうか。あるいは角腎法の規範が、従来死体腎移植の現場で自主的に守られてきた規律と変わらない、いうなれば現実にある医療を生かして法律化したからであろうか。
 角腎法の制定にあたって、死の定義を盛り込まなかったのは、脳死を予想したためと聞いたことがある。角腎法のもとで、脳死腎移植が一般化していれば、臓器移植法の内容もずいぶんと変わっていたはずと思う。

当Web注:桑原は、日本移植学会雑誌「移植」18巻5号p450〜p452掲載の「角膜及び腎臓の移植に関する法律の制定の経過について」において、千葉大学の雨宮グループによる死体損壊と無断での臓器採取、そして桑原自身も死体損壊と無断での眼球採取そして証拠隠滅目的で燃焼性義眼を開発したことを記載している(詳細は別ページ)。
 「死体」腎移植の草創期にあたる1969年1月17日開催の第1回腎移植臨床検討会で東大から「脳死」体からの腎臓摘出が発表され、1969年7月17日開催の第2回腎移植臨床検討会では弘前大から8歳児を凍死させて臓器を摘出したことを発表している。雨宮自身も、脳死判定で生前カテーテル挿入を行ない、さらに三徴候死を確認しなかったと見込まれる「死体」腎摘出例を著書で紹介した。
 1970年1月31日に開催された第3回腎移植臨床検討会において、大阪大学法医学の松倉氏は腎移植の医事法的問題を講演し、医療目的でなされているのか相手方の同意があるのか?など現代まで継続する法的問題のほかに、角膜移植法が施行されていた当時の法的問題として「当該地の保健所長の許可を得ていない手術場における臓器摘出、特別の許可なしに解剖できる資格のある法医学・病理学・解剖学の教授、助教授、監察医、伝染病死体解剖に当たる医師以外の者が保健所長の許可を得ずに解剖する場合」に死体損壊となることを指摘した(移植5巻2号p158〜p184)。

脳死臨調から臓器移植法へ
 私の身のまわりでも、昭和56(1981)年には日本心蔵移植研究会が発足し、心移植の必要性が論じられた。当然ながら脳死での臓器提供の必要性が論じられた。
 しかし脳死体からの臓器提供を必要とする移植の実施をめぐり賛否両論,盛んな議論が沸き起こった。1968年の和田心臓移植や、1984年と記憶しているが筑波大学の膵臓移植など、脳死ドナーからの移植に検察の手が加えられたことから、法律として脳死臓器提供を正当化しないかぎり、脳死臓器移植に踏み切りにくい事情があった。(中略)

腕力で押す脳死反対派
 1985年、第21回日本移植学会総会が当時国立循環器病センター病院長であった曲直部寿夫会長によって大阪商業会議場で開催された。筑波大学が脳死膵移植の発表をした学会である。いわゆる脳死反対を掲げる「患者の権利を守る会」と称するグループが主会場に乱入した。特別口演の司会者を会場人り口でスクラムを組んでブロック、学会の進行を妨げた。壇上のマイクを奪って演説を始めそうになると、対抗して会場担当がマイクの電源をきるという騒ぎになった。私の隣にいた恩師佐藤 博教授が、「何をいぅのかおもしろいからしゃべらせろ、そのほうが妨害の時間が短くなる」と言われ、それではとグループの主導者にその主張を述べることを許可し、5分間の時間を提供した。
 その時の演説の論旨は、脳死は死ではなく、回復しうる病態であるから、これを死として臓器を摘出するなど論外である、というものであった。従来の概念の死に向かってpoint of no returnを過ぎてしまった、決して回復しない病態を脳死と定義していたわれわれにとっては、植物状態と脳死の混同も甚だしい、議論の余地すらない論旨であった。(中略)
 私はこのグループの腕力に訴えるやりかたを経験したがために、いまだにこのグループの思考や行動に科学性と倫理性を見いだせないでいる。

聞かぬ耳には届かない 広報のむずかしさ
 その当時、脳死について多くの著作が刊行された。立花 隆氏のように、脳死という病態を認めながらその診断法の不備を議論し、あるいは中山みち氏のように、医療不信を前面にだして、医師の行う脳死診断は信じられないと主張するなど、さまざまな意見が刊行された。脳死臨調の最中には、例え脳死が諸外国では死であっても、日本は生であっていっこうに構わない。それは人の死は単なる生物学上の現象だけではなく、その社会文化としての結果であるから日本だけが違っていてもまったく構わないという意見も、伝聞とはいえ聞こえてきた。これにはただただ驚いたのを記憶する。死者も社会が生と認めれば生者となり、逆に生者も社会が死者とすれば死となるという論法である。まるで脳死論議を種に、死を医学的現象から外したがっているようにさえみえたものである。
 もうひとつ忘れられない議論があった。それは日本弁護士会からのものと記憶しているが、従来、死は心停止という一点で判断される。しかし脳死は何時間も時間をかけて判定するのであるから、死亡時刻がどこになるのかわからない。しかも何時から脳死になっているのかも分からない。このようでは、特に相続などを扱う民法において大混乱をひきおこす。従って、脳死を死とするのは馴染まないという意見であった。元来法律は人が作るものであるのに対し、脳死は人の作為の及ばない現象である。人にあわせて法律をつくるのが本来ではないのかと、耳を疑ったものである。(中略)
 なぜ彼らの耳に、とどかないのか。理由は3つあると思う。第一は無関心のゆえに意見が耳を素通りしてしまう。第二は反対意見を貫くために耳に蓋をしてしまう。第三はわれわれの広報活動の届かない別世界にいる。国民の多くは第一の理由によるものと思われる。国会議員の多くは第三の理由であろう。(中略)
 今回、6月18日に衆議院本会議でA案が採択されたのは、国内移植の必要性というきっかけによって、われわれの広報活動が、彼らを第三の別世界からわれわれの世界に引き寄せたのだと思う。(後略)

当Web注:無呼吸テストを2回実施した脳死判定例において、心停止まで1週間以上生存する遷延性脳死症例や1カ月以上生存する長期脳死症例、さらには自発呼吸や脳波、痛み刺激に反応する症例臓器摘出時に脳死ではないことがわかったケース臓器摘出時の麻酔管理などが知られていれば、A案の採択に至らなかったと見込まれる。これらの症例は、雨宮氏の書いた「従来の概念の死に向かってpoint of no returnを過ぎてしまった、決して回復しない病態を脳死と定義」にも反する。

 

 

*神野 哲夫(藤田保健衛生大学名誉教授、学校法人藤田学園理事):臓器移植に関する議論 一脳外科医の視点、S49−S51

 臓器移植法の改訂が世間で大きな話題の1つになっている時に本稿を記している。(中略)

“脳死判定に於て脳血流測定を必須項目として入れるべきだ”との議論に関して
 この提案を聞いてまず最初に考えたことは、この検査に要する労力、その意義などがおそらくまったく理解されていないであろうという点であった。
1、脳血流測定
脳血流測定法として現在実際臨床に応用されていることは、以下の3検査法である。
1) SPECT
 この検査は比較的正確に脳血流の状態を表すし、定量も可能である。患者に多大な苦痛を与えない。実際植物状態の患者において、最近開発された脊髄電機刺激療法などの適応の有無を判定するにあたり、重要な役割を果している。しかし問題はSPECT自体がどの施設でも設置されているわけではなく、また検査自体に約1時間を要することである。相手が脳死患者である場合、人口呼吸とバイタルサインのチェックは厳重にかつ頻回でなければならない。検査室に提供者側の医師少なくとも2名が付き添っていなければならない。当然のことながら、その患者の検査中にほかの救急患者が来れば、その対応に影響が出るのは避けられない。
2) CT-perfusion
 CTの著しい機能向上によりCTでのperfusion測定が可能であり、データは正確である。しかし通常はこの検査は4cm巾スライスであり、4cmで全脳血流をゼロと診断するのはいささか乱暴である。脳全体を検査するには3スライスは必要である。検査所要時間はこれも1時間以上かかる。
 もう1つの問題点は、頭部には周知のごとく内頸動脈と外頸動脈より血液が供給されている、脳死では内頸動脈系の血液がゼロになっていると考えられるが、外頸動脈系はゼロではない。そしてこの外頸動脈系から内頸動脈系すなわち脳内に血液が人り込む経路は本来、人間には存在する。さすれば、脳血流ゼロを証明することは極めて難しく、またゼロが証明されないとしてもそれは医学的意味を持っていない。
3) 脳血管撮影
 現在この検査法で脳血流を測定することはまずない。ただ脳内への血流の有無は判定できる。ただし量を表わす数字は出ない。しかも、外頸動脈系を通じて何やかやと脳内に血流が人り込むのを否定できない。

 以上の3検査とも、医学的に脳血流ゼロを証明する難しさと、加えてこれらの検査を行う人的、労力的な困難さはきわめて大きい。提供者側医師(脳外科医、救急医)への負担はきわめて、きわめて大きい。(中略)

2、脳代謝測定法
 周知のごとくPETによる検査が普通である。これもまた周知のことであるが本機器がきわめて高額であり、全国のすべての脳死患者への適応は不可能である。つまり実用的な話ではない。

当Web注:脳死判定例で脳血流停止や脳代謝停止の所見がありながら、脳波や自発呼吸があったケースは別ページに掲載。

小児の年齢制限撤廃に関しての議論を拝聴して
 筆者は乳幼児の脳死判定の症例数が乏しく、議論する資格がない。一方、小児例の脳死判定において通常の脳死判定法を用いた判定で困難さ、違和感を覚えた経験はない。医学的には新たな判定基準を作る必要性を小児例では認めていない。
 すなわち、乳幼児の判定法に関してはまだエビデンスの蓄積が必要であろうと考えているということである。(中略)
 年齢制限撤廃に関して医学的には上記のごとくしか思い至らないが、この問題の半分以上、あるいは大部分は非医学的な側面、すなわち両親および周辺の方々の心情的側面であろう。「子供の承諾なしにすべてを両親が決めてしまった」、このようなことが後に尾をひく。コーディネーターが苦労しておられる。この壁をどのようにして越えていくかは難しい。ただ諸外国でこの壁を乗り越えた後、多くの子供の命が救われたことも事実であり、忘れてはならない。

当Web注:神野は1988年にGeriatric Medicine26巻4号で脳死判定した4ヵ月男児が1ヵ月後に自発呼吸をしたこと、178日間生存したことを報告している。日本生命倫理学会・第22回年次大会においても神野は「私は一度も脳死からの回復は経験していない」と虚偽の発表を繰り返した。

"Chronc brain death"の論文を拝読して
 今回の脳死臓器移植議論において、初めて"Chronic brain death"と題する論文(それに関連したものを含めて)を拝読した。その第一印象は植物症の判定と同じ問題が起っているということである。定義の理解とそれに基づく判定実施法の不完全さが植物症と同様に起こっている。Chronic brain deathと診断された症例では何か1つか2つ、不完全さがある。なぜ、このようなことが起こるのであろうか。1つにはChronic bran deathと医学的診断されるか否か、患者の家族にとっては大きな問題ではないのでないか。植物症においても家族にとって医学的定義などは本来、どうでもよいことであると言った家族がおられた。故に、判定に絶対必要な検査法などが省かれている可能性がある(医師側が無理押しできない)。
 2つには医師側の勉強不足、経験不足によるものあろう。3つには大げさに取扱うマスコミの責任もろう。4つにはこのようなことを放置している各学会の責任もあろう。意識障害に関するスーパープロを集め、1つの委員会とし、その会で判定の正否を最終検証するのも一法であろう。(中略)

当Web注:「脳死判定の不完全さ」という側面では、過半の脳死判定症例は中枢神経抑制剤投与によって脳死判定の対象外=除外例とすべきケースであり、また法的脳死判定の確定前から脳蘇生に反するドナー管理が行なわれている。Chronic brain deathと診断された症例の多くは、診断後も生命維持に取り組まれた。それに対して、臓器提供における脳死判定はすべて縮命に作用した症例である。脳死判定の不完全さを検証すべきなのは、臓器提供における脳死判定だ。

日本人的宗教観 確認
移植医療の問題点は半分以上、“こころ”、そして日本人的宗教観であろう。
移植医療に関する大きな問題点がここにあることに多言を要すまい。博愛主義のキリスト教的な考えと相違は大さい。そしてこれは一朝一夕に変わるものもない。世界脳神経外科連盟の副会長として各国の外科医と年に20回を超える海外主出張を繰り返しきたが、脳死判定と臓器移植に関して議論になったとはない。彼等の間ではすでに終った話であるらしい。日本人のこのことに関する考えが,根本的に彼等と大きく異なるのを実感している。
 移植医がどんなにご苦労されても,欧米並みの移数に達するには、まだまだ時間がかかるのではないと思う。(後略)

 


20091031

松戸市立病院:心停止後臓器提供、臨床的脳死は客観性・透明性劣る
東京大学・会田氏:人工呼吸中止に医師の心理的負担・嫌悪感が影響
第37回日本救急医学会学術総会・集会

 第37回日本救急医学会学術総会・集会が、2009年10月29日から31日まで岩手市内で開催された。以下は同集会のプログラム・抄録集から注目される発表の要旨(タイトルに続くp・・・は掲載貢)。

*吉岡 伴樹(国保松戸市立病院救命救急センター):救急医療における終末期医療に必要なこと 心停止下臓器の経験から、p437

【症例】成人女性、脳出血にて救急搬送され急激な経過で深昏睡に陥った。入院翌日、主たる脳幹反射消失、ABR・脳波とも平坦を確認し臨床的脳死と判断した。ご家族より臓器提供の申し出があり、入院時より昇圧剤で血圧は維持され人工呼吸管理されていたが、申し出以後も治療はほぼ固定し経過をみた。第4病日朝から血圧は低下。その後約20時間近く低血圧・無尿状態で推移した後心停止となり、死亡確認後に腎臓提供がなされた。
【結果と考察】本例では臓器提供の意思確認後、治療をほぼ固定して経過をみた。その結果、心停止までの間に低血圧持続の時間が長く、腎障害の合併が懸念され提供断念の事態も懸念された。臨床的脳死判定後の治療選択として本学会「救急医療における終末期医療に関する提言」に沿って呼吸器を停止させれば、速やかに心停止を迎えて臓器摘出という経過も考えられた。しかし、選択の前提となる臨床的脳死判定は、法的脳死判定と異なり通常診療担当医が診断者であり検査項目の採用や事後の検証体制は施設あるいは担当医師の判断にゆだねられ客観性や透明性の点で法的脳死判定より明らかに劣る。今回の経験からは救急医療現場で脳死状態での終末期医療を担う場合、脳死判定の手順規定を単独施設ではなく学会が行なったり、手順に事後検証体制を含めるなど通常診療の水準以上に脳死判定の客観性を高め担保する工夫が重要と思われた。
【結語】脳死状態での終末期医療には、脳死判定に客観性と透明性を担保する工夫が求められる。

 

*会田 薫子(東京大学人文社会系研究科):臨床的に脳死と診断された患者における人工呼吸器中止の現状と関連要因、p436

 2008年10月〜2009年3月に、日本救急医学会会員である全国の勤務医2802名に無記名自記式質問紙調査を実施し928名から有効回答を得た(有効回収率:33.1%)。回答者は男性が92.8%、平均年齢43.0歳。
 臨床的脳死患者における人工呼吸器の中止経験を有した回答者は17.8%。患者が臓器ドナーであるか否かにかかわらず病態診断としての脳死診断を実施していると回答した医師は46.6%、そのうち3分の2は脳死診断後も人工呼吸器は中止も設定変更も行なわずそのまま継続すると回答した。
 人工呼吸器を中止しない理由(複数回答)は、「家族の心理的負担軽減」が55.2%、「医師(回答者)自身の心理的負担軽減」が63.3%。医師の心理的負担を構成する要因として、マスコミ問題(88.9%)、法的問題(83.2%)、人工呼吸の中止を自分の手で行なうことへの嫌悪感(60.1%)などがあることが示された。

 


20091015

刈羽郡総合病院 入院・新患患者に臓器提供意思調査
治療目的の情報収集に、縮命前提の調査・設問を混在

 刈羽郡総合病院(新潟県柏崎市)泌尿器科・臓器提供委員会の羽入 修吾医師は、「今日の移植」22巻5号p495〜p501に“外来新患を対象とした臓器提供の意思に関するアンケート調査”を発表した。

 同病院は、2006年6月に献腎提供の第一例を経験したことを契機に、臓器提供委員会を発足させ臓器提供円滑に行える院内体制の整備を進めている。羽入医師は“なによりも「提供者とその家族の最後の願いを無理なく叶えて差し上げる」という、いわば医療の原点の再構築を目標に整備を進めている”という。

 入院患者対象の臓器提供意思表示カード所持の聴取は、2006年12月から開始した。現場からは、患者は疾患の治療を目的に入院しており、聴取しづらいという意見があり、担当看護師に聴取は強制しなかった。2007年2月1日〜4月19日の退院患者1,485名における聴取は379名(25.2%)、そのうちカード所持者は8名(2.1%)しかいなかった。

 聴取しやすくする工夫として、薬手帳・糖尿病手帳・アレルギー手帳などと一緒ならばカードの有無も聞きやすいという意見を採用して、カードや手帳のカラー写真を載せた“カード手帳確認シート”を作成した。外来新患と新入院患者に看護師が聴取しチェックして、カルテに挟むこととした。確認シートの運用は2008年10月から開始、カードにチェックがついたものは現時点ではない。

 羽入医師は「カード所持の有無を聴取することは大切であるが、努力のわりにカード所持者が非常に少なく、なんとも張り合いがない(p496)」と、2008年2月から泌尿器科外来に限定して外来新患問診表を利用したアンケートを開始した(p497に記載のアンケート欄は以下の枠内)。
  1. アレルギーはありますか?(なし)
                       (ある・食べ物     薬          )

 当院は臓器提供協力病院ですのでお聞きします
       (もし、自分が臓器移植で救われる患者なら・・・・・)

  1. あなたは、万一、容態が急変して脳死した場合、臓器提供されますか?
       (はい・いいえ・わからない)
     
  2. 臓器提供意思表示カードをお持ちですか?
       (はい・いいえ)

 2008年2月27日〜9月2日までの泌尿器科外来新患は787名、うち脳死下多臓器提供が可能な15〜74歳は557名。15〜74歳の有効回答数は403名(回答率72.4%)、無回答154名(27.6%)だった。

 カード所持者は403名中7名(1.7%)と極めて少なく、臓器提供の意思は提供するに「はい」が16%、「いいえ」が17%、「わからない」が67%だった。

 羽入医師は「外来問診表を用いたアンケートは“臓器提供の意思”と“カード所持”の情報をカルテに残せる有用な方法である。・・・患者本人が脳死状態になったときに、献腎献眼を家族に承諾をしていただけそうかどうかの判断材料となる。回答がカルテに記録として残ることに意味があると考える」とした。 

 この論文は、新潟大学大学院総合研究科腎泌尿器病態学分野の高橋 公太教授と新潟県臓器移植推進財団の秋山 政人氏の激励とアドバイスによって執筆された。

 

当Web注

  1. カード手帳確認シートは、p496掲載の写真によると「カードや手帳には大切な情報があります。カードや手帳をお持ちの患者様は看護師にお見せください」と患者からの情報提供の重要性を強調している。お薬手帳・抗凝血薬療法手帳・薬品アレルギーカード、糖尿病健康手帳など、患者の治療目的の重要な情報の提示とともに、患者の縮命を前提とする臓器提供意思表示カードの提示を求めている。
     患者に治療目的の情報提供を督促しつつ、同時に縮命を前提とする臓器提供意思表示カード等の提示を求めるのは、姑息で非倫理的行為と思われる。
     

  2. 外来新患問診表は、(もし、自分が臓器移植で救われる患者なら・・・・・)前置きした以上は、その後の設問は「あなたは、万一、容態が急変して臓器移植を受けなければ生存できない状態になった場合、死体からの臓器提供あるいは生体からの臓器提供を受けますか?」など、臓器移植を受ける意思の有無を問う設問とすべきだが、このアンケートは臓器提供意思の有無を設問した。
     患者が混乱すると見込まれる設問を行い、その結果を援用して患者家族に臓器提供要請を行うならば、紛争は頻発するだろう。カルテに残された情報の価値は低い。
     

  3. 羽入医師は外来新患アンケートを分析した本文p498でも、「加齢とともに楽しみや希望が減り、臓器移植はしなくてもいいと思う人が増えるのか」と、臓器移植と臓器提供を混同した記述を行った。

 


20091009

新潟県臓器移植コーディネーターの秋山氏が教育講演  臓器提供を増やす本質
「家族の悲嘆軽減」「回復見込み無しを認識させる」、その後「臓器提供意思の抽出」
「臓器提供はリビングウィル、ただし家族の忖度もこれに含まれるという特殊性あり」
プロの役者に患者家族役を演じてもらい、コミュニケーションスキルをトレーニング

 第31回日本小児腎不全学会が2009年10月8、9日に新潟県・弥彦温泉の「四季の宿みのや」で開催され、新潟県臓器移植推進財団の秋山 政人氏が「いまどきの臓器提供 新潟県の現況と官民一体の活動」をテーマに教育講演した。秋山氏は、「臓器提供を増やすための本質は、『家族の悲嘆の軽減を図り患者の病状を理解させ、結果、回復の見込みがない由を認識させた後に臓器提供意思の抽出を図ることができる現状を構築することにある』とコンセプトを明確にしている」と述べ、臓器獲得目的のドナーアクションプログラム(DAP)の具体的手順を講演した。点線以下が講演の主要部分(日本小児腎不全学会雑誌30巻p9〜p16より)。

注:当Webは刊行物の要旨を掲載しますが、これは各著者の主張を支持することとは異なります。

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(4)提供施設、院内システムの構築 DAPの展開
@DAPの概要
 DAPとは、ベルギーに本拠地を持つドナーアクションファンデーションが開発した手法である。システム整備の具体的なポイントは、院内臓器提供委員会を設置することを前提に、@ドナーの情報収集(ポテンシャルドナーの把握)、Aドナーの照会(情報の伝達)、Bドナー家族のケアとコミュニケーション、Cドナー管理、D臓器摘出である。すなわち院内における包括的な総合ドネーションシステムを構築することにある。またシステムを作る上で、その医療機関の職員の意識調査HAS (Hospital Attitude Survey)を施行し、さらに死亡者力ルテを精査するための患者個票MRR (Medical Record Review)で、その病院職員の意識評価と死亡症例に対する治療はどうであったかを把握し、これをアセスメントとして、院内の臓器提供システム作成をより現実的にすることから始めた。また再評価を繰り返しその医療機関にあった最適な院内システム構築に勤めることとした。さらにこのプログラムを実践する上で高機能病院としての付加価値を見出すこともできる。
 臓器提供における組織的なシステム、特にグリーフケア(悲嘆家族のケア)の手法を取り人れることで、患者家族の精神的ケアを院内プログラムとして機能させることができる。すなわち臓器提供は誠心誠意の治療があり、患者の不可逆的状況を納得した家族の存在が必要で、その掛け橋がグリーフケアである。そもそも家族ケアは移植医療とは関係なく救急の現場に存在しなくてはならないことでもある。新潟県では2000年よりこのようなプログラムを導人し患者の臓器提供意思抽出を無理なく行える環境作りに邁進している。すでに県内で13病院が導人を図っている。

ADAP実施で見えてきたこと
 DAPは、臓器提供院内システム構築において個別の病院の問題点を抽出することで効果的なシステム構築を目指すことができる。新潟県では臓器提供を増やすための本質は、「家族の悲嘆の軽減を図り患者の病状を理解させ、結果、回復の見込みがない由を認識させた後に臓器提供意思の抽出を図ることができる現状を構築することにある」とコンセプトを明確にしている。
 システム導入時に最初に行うのが職員の意識調査(HAS; Hospital Attitude Survey)である。本県の医療機関で約800人の医師・看護師などに調査した結果、「臓器提供によって人の命が救われるか?」は約83%が「思う」と答えているのに対し「臓器提供によって家族の悲しみが癒されると思うか?」の設問に約62%が「わからない」と答えている。「思う・思わない」の賛否については個人の思いなのでわれわれが意見することではないが、大事なこととして「臓器提供は悲嘆の軽減に寄与している」という観点からの発想が大多数の医療者は考えていないことが分かった。すなわちわれわれの臓器提供システム構築のコンセプトは無残にもほとんどの医療者に発想がなかったことになる。

<スライド14> Living Will(生前の意思)

■尊厳死(延命の打ち切り)
■献体
■臓器提供   etc・・・
臓器提供はLiving Willの一つとして位置づけられる。ただし
家族の忖度もこれに含まれるという特殊性もある。

 経験的に、提供者家族の承諾理由は「社会貢献」よりむしろ「愛する家族の臓器の一部がどこかで生きていてくれる」、すなわち他人のことより、むしろ自分たちのために考えている場合が多い。
 この結果から、まずは「終末期医療としての臓器提供」、言いかえれば臓器提供はLiving Will(生前の意思)の一つとしてとらえていただくような学習会などを開催し職員の意識改革から始めることにした(スライド14)。

 

BDAPの具体的な取り組み
 目標として、院内システムの構築において、入院時に意思表示力ードの所持を確認することと、提供家族への心理的アプローチ、すなわち家族ケアを観点に整備を進めることとした。この意味は、臓器提供を前面に掲げ整備を勧めるのではなく、悲嘆に暮れる家族に対し医療者はその心のケアにあたる。この際、本人およびご家族の臓器提供意思が聞けた場合、あるいは人院時に臓器提供意思が聴取されている場合など、そのことを支援することで家族の支えになる。と言う発想をいかに理解していただくかである。すなわちグリーフケアの一環として、臓器提供を捉えられる環境づくりである。
 最初に行った活動は、職員の意識調査(HAS; Hospital Attitude Survey)によって得られた知識不足を補うための院内の学習会であった。特に法律の観点、すなわち心停止下と脳死下の臓器提供プロセスの混同回避や脳死の病態把握、さらには提供者ご家族を招いて家族からみた医療者の対応ぶりなどを学んでいただいた。

<スライド15> コミュニケーション能力不足の傾向

・家族への対応時、臨床経時的な心情に配慮が少ない
・重篤な患者を抱える家族の悲嘆度は、一般論で理解している。(先人観・自身の価値観)

etc・・・・・・

医療スタッフ  ・説明について否定的になる
         ・説明が無遠慮になる
         ・説明を避ける(簡単化する)

 次にコミュニケーションスキルのトレーニングである。医療者に移植医療の意義や必要性についてはご理解いただいても、実際の場面で選択肢の提示(オプション提示)などが実践されないという経験をした。何故だろう?その答えは医療者のコミュニケーション能力にあったのである(スライド15)。

 例えば「愛する家族が生死をさまよっている時に死後の話なんてできないよ」の解決のためである。そもそも治療段階において十分なコミュニケーションが図られていれば、少々言いづらいとされる臓器提供意思の確認も行えるように実践を重ねるためである。具体的には、コミュニケーションスキルのトレーニングとしてロールプレーを実施している。プロの役者を仕立て患者家族役を演じてもらい、予後不良の診断を告げることと、オプション提示を行う場面をシリーズで施行した。また研修を受けた医療者の意識にも少しずつ変化がうかがえるようになった(スライド16、17、18)。

<スライド16> 職員教育の実際(当Webでは省略)

<スライド17> ロールプレーの仕立て <スライド18> 疑似患者症例5
ロールプレイ…役者の選択
1、シチュエーション
・重症救急患者が予後不良の診断となり、患者家族にその診断を告げることを想定。
2、目標
・患者の予後不良状態を理解させる。
・早晩、死が迫っていることを現実認識させる。
・診断を理解したと判断した場合、臓器提供意思を確認。
(努力目標)
3、家族役
・プロの役者に依頼し家族を演じてもらう。(悲嘆家族を演じる)
・役者へは、あらかじめ成育歴、患者の受傷のとき、最近の生活(患者との関係)を作成し熟読していただき、その家族になりきっていただく。
・感情表出は、医師役や看護師役の言動により、怒り、硬直、泣くなど、現実性の高い行動をとってもらう。(役者任せ)

■医師役・・・・・・・・1名
■看護師役・・・・・・1名
■使用アイテム・・・力ルテ、レントゲン、ティシュ
■行ってもらうこと
・病状説明(予後不良の現実認識)
・臓器提供意思の抽出・・・可能であれば

 


20091003

藍原:フィリピンの医療従事者は臓器売買の「監視役」になれるか
習田:米国クリニカル移植コーディネーターの倫理的ジレンマ状況
山本:,突然の生体肝移植となったレシピエントの移植術後の混乱 
第5回日本移植・再生医療看護学会

 第5回日本移植・再生医療看護学会が2009年10月3日、慶応大学で開催された。以下は日本移植・再生医療看護学会誌5巻1号より注目される発表の要旨( 藍原論文は5巻2号より。タイトルに続くp・・・は掲載貢)。

*藍原 寛子(福島民友新聞社):イスタンブール宣言を受けて私たちが目指すもの アジアの臓器提供・移植、臓器売買の実態 フィリピンのフィールドワークから、p26
*藍原 寛子(アジア生産性機構):フィリピンの医療従事者は違法臓器売買の「監視役」になれるのか 臓器提供の現場のICの実態、日本移植・再生医療看護学会誌、5(2)、25−30、2010

  フィリピンで生体腎移植と臓器売買が拡大した理由のひとつには、マルコス政権下の汚職社会が背景にある。マルコス大統領は腎臓病を患っており、2度にわたる腎臓移植手術を受けた。その際、米国に医師を派遣して移植手術のトレーニングを積ませ、同時に巨費を投じて腎移植、心臓、肺などのナショナルセンターを建設し、フィリピン国内の腎臓移植を推進した。マルコス大統領に優遇され、移植医やナショナルセンターは、利益の上がる富裕層をターゲットに医療を提供するようになった。レシピエント側のオン・デマンドのドナー供給が求められたため、生体腎移植が進んだ一方で、公平性に富む死体からの臓器提供は進まなかった。民間のNPO,HEADによると、ナショナルセンターへの偏った財政投入が、地域医療の充実を遅らせたという。
 1992年の臓器移植法は生体臓器提供については規定がなかった。2003年、臓器売買を禁止したが、実際にはドナーとレシピエントがともに臓器売買に加担し、利益を得ている関係であるため、当事者証言が取れず、実際には取り締まりはほとんど行なわれていない。国際社会からの非難を受け、2008年、政府は外国人の患者に対する臓器移植を全面的に禁止した。しかし、その後、フィリピン国内で移植待ちのイスラエルの患者が腎臓移植を受けたことが明るみになった。外国人への移植禁止前に受け入れが決定してフィリピン国内に滞在していたことなどを理由に容認の方向で、結局移植は認められた。その後、サウジ・アラビア大使館がフィリピン政府に対して、サウジ・アラビアの移植患者も受けいるよう求める政治的な圧力が生じており、自国内で移植用臓器を賄うことを求めたイスタンブール宣言が形骸化しつつあることが浮き彫りとなった。

 フィリピンの医療従事者が、違法臓器売買を水際で発見し中止させる「監視役」となりうるのかを探る目的で、2008年11月から2009年6月にかけて、事前に金品を受け取る契約をして腎臓を提供 (臓器売り)したドナー115人にインタビュー調査を行った。
 8割の臓器売りドナーが何らかの形で医療従事者よりインフォームド・コンセントを受けていることから、医療従事者によるインフォームド・コンセントの機会が違法臓器売買のスクリーニングの役割を果たす可能性はあった。しかし、十分に理解できる内容で説明が行われていなかった。医療処置に関する資料 など、自宅で熟考できる資料を受け取ったり、ビデオ視聴など臓器提供や移植に関する学習時間があったのは9人。臓器提供同意書のコピー を受け取ったのは、たった2人、などインフォームド・コンセントの内容が不十分であることが明らかになった。
 フィリピンの移植医や看護師らが「監視役」となれるかどうかは不透明である。監視するどころか、「お墨付き」を与えたり、推進役となったケースもある。医療従事者やブローカーの案内で、レシピエントの病室を訪問したり、病院外で双方が面談して売買価格交渉をしたり、あるいは術後に双方が面会して追加の金銭提供を決めたケースもあり、売り手、買い手双方の面談が行なわれていた。アルベルト(仮名)、29歳男性はレシピエントと対面した。レシピエントは中東から来た人のようにアルベルトには見えた。

 フィリピンの腎臓移植病院(ナショナルセンター)のトップ、Dr.Enrique Onaは「海外から移植を受けたい患者さんが突然、病院の玄関に来て、『生命のごりぎりのところでフィリピンに来た。どうか助けてほしい』と求められ、そのままでは患者が亡くなることが分かっていたら、医師として(外国人への臓器移植を)断れるわけはない」と話す。途上国から見た視点で世界の臓器移植の問題点 を考えることが重要である。

 

*習田 明裕(首都大学東京):,生体肝移植における看護職の倫理的ジレンマ状況の一考察 米国のクリニカル移植コーディネーターの面接調査から、日本移植・再生医療看護学会誌 、5(1)、30、2009

 わが国のクリニカル移植コーディネーター の多くは、受益構造が全く異なるドナー・レシピエント両者を対象とすることが多く、現場において様々なジレンマを感じているとの報告がある。米国では生体間移植に関するガイドラインやプロトコールなども確立され、さらにクリニカル移植コーディネーター はドナーとレシピエントそれぞれ別立てで配置されている施設が多い。そうした生体移植の医療体制が整えられた米国において、クリニカル移植コーディネーター がジレンマを抱いたエピソードについて面接調査を行なった。

 米国にあるA大学医学部付属病院で、肝臓移植を専門とするセンターに勤務するクリニカル移植コーディネーター 3名、平均年齢は37.3歳、平均経験年数は8年間。全員が臨床においてジレンマ状況を抱えていると話し、特に記憶に残っているエピソードが18事例語られた。倫理原則(小島操子の分類)の観点から吟味した。

 「真実の原則」に抵触するジレンマの語りはなかった。「自律の原則」については、クリニカル移植コーディネーター のためドナーと関われないからこそ感じるジレンマや、意思決定に関するプロセスマップが杓子定規になっているのではないか等の語りがあった。「善行・無害の原則」については、移植医療が各種ガイドライン等外的基準で進められるため、その基準が対象者にとって本当に善行であったのか、また肝臓のバイアビリヒティが低いため、結局移植を繰り返すレシピエントの現実にジレンマを感じている語りがあった。「正義の原則」の観点では、アルコールやドラッグによる肝疾患、ノンコンプライアンスの対象者がレシピエントになることに資源の公的配分から疑義を感じる一方、そうしたことも含めて病気を持つ看護の対象として関わることの意義を語るクリニカル移植コーディネーター もいた。「忠誠の原則」ではメディカルリーズンの問題や、ドナーやレシピエントの感情に巻き込まれていく自分に対して、ジレンマを感じていると語ったクリニカル移植コーディネーター もいた。

 わが国に比し人的システムも社会制度も整っている米国に移植センターにおいてすら、クリニカル移植コーディネーター は多くのジレンマを抱えている実態が明らかにされた。様々な倫理的課題を有する生体移植の現場の中心において活動するクリニカル移植コーディネーター は、倫理的調整能力が求められ、そうした感受性を育む倫理教育や認定制度等が今後求められる。

 

*山本 昌恵(滋賀医科大学大学院):,突然の生体肝移植となったレシピエントの移植手術後の混乱、日本移植・再生医療看護学会誌、5(1)、42、2009

 生体肝移植を受けた7%は原因不明の劇症肝炎であり、術前から肝臓疾患の自覚がなく、突然に患者が意識のないまま生体肝移植 が行なわれることがある。そのような場合、移植後に様々な混乱がレシピエントに生じるのではないかと考え、生体肝移植を受けて5年以上たっている成人レシピエントに面接調査を行なった。

 50歳代女性、2000年の冬、肝臓疾患の自覚がなく、突然吐血し、意識消失となり病院搬送され、劇症肝炎と診断され移植適応となった。レシピエントは意識不明のため移植の説明を受けないまま、家族の承認で生体肝移植が行なわれた。術後3日目に医師から移植手術のことを聞かされていた。ドナー は息子であった。

 レシピエントの移植手術 に対する実感の乏しさが明らかになった。これは移植を受けたという実感と体に他者の臓器が入ったという実感の薄さからきていると考える。身体的な術後の順調な経過と、合併症の予防行動ができていることが窺えた。しかし、一方で日常生活への活気の低下がみられた。これは「移植という現実への違和感」「ドナーに対する思い」から「健康な息子の身体に傷をつけた、最低の親だ」と息子への贖罪観を語り、一方で「息子が痛い思いをしてくれた肝臓やから、元気で生きていかなければ」という様々な感情の反復が続くためと考える。そして移植手術の現実認識には時間が要することも明らかとなった。

 


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