[戻る] [上へ] [進む]
岩波ブックレット いのちの選択 いま考えたい脳死・臓器移植
臓器移植法を批判、今後の社会や文化や命のあり方を考察
岩波ブックレットbV82 いのちの選択 いま考えたい脳死・臓器移植(A5判・並製・72頁、定価630円)が、5月7日発行された。編者は生命倫理会議の小松 美彦、市野川 容孝、田中 智彦の各氏。岩波書店ホームページ内の紹介は、http://www.iwanami.co.jp/moreinfo/2707820/top.html
p17〜p21の「脳死になると,ほどなく心臓が止まるのか」では、長期「脳死」患者が永眠した後、霊安室に医師、看護師、保育士、非番の看護師も駆けつけて手を合わせて口々に「ありがとう」と言ったことから、執筆者は「一つの生と死を介して、死に行く者と看取る者との間に、さらには死んだ者と死なれた者との間に浮かび上がった、このような感情と共鳴関係のことを、私たちは『人間の尊厳』と呼んできたのではないでしょうか。この意味で『人間の尊厳』とは、長期であれ短期であれ、すべての脳死者と私たちとの間に、つまるところ、あらゆる私たちどうしの間に成立するもののはずです」と、人間の尊厳について簡明に表現している。
p27〜p30の「『他人の臓器を待つ』とはどういうことなのか」では、ヒポクラテスの誓い以来、連綿として守られてきた「目の前の患者と他の患者を比べてはならない」という医療倫理の大原則を、脳死・臓器移植が根底から覆したこと指摘し、「医療は、患者一人ひとりで完結する医療へと、舵を切りもどさなければならないのではないでしょうか」と問題を提起している。
p33〜p37の「虐待を受けた子どもが『脳死』とされるとき」では、米国の乳幼児ドナーは、近年は1歳未満では約4割が被虐待児、1〜5歳では3割弱が被虐待児というデータを示し、「米国では児童虐待の犠牲者が『子どもの臓器移植』を支えているという現実は、臓器売買のために子どもを殺すのと同じような『闇』が、システム化された脳死・臓器移植のプロセス自体に宿っていることを示唆しています。だとすればその『闇』は、私たちの社会の周縁にではなく、中心にこそ巣くっていることになります。そしてそのようなことが可能になるのも、改定臓器移植法があればこそだといわなければなりません」と指摘する。
p41〜p44の「脳死の保険治療打ち切りから尊厳死法へ」では、臓器移植法の附則第11条が脳死者への処置は「当分の間」、保険治療の対象としているが、臓器移植法の改定によって臓器提供意思の有無にかかわらず、「当分の間」に期限が切られた場合は、保険治療の対象外とされ死を強要されるようになること、改定臓器移植法が「尊厳死法」のひな型であることを指摘している。
p44〜p48の「科学技術と倫理の関係」では、改定臓器移植法をめぐる国会の議論、メディアの報道を「脳死・臓器移植の倫理的問題を棚上げにして、新しい法律を作ることだけに努め、可決・成立すれば一件落着とした光景を「民主主義的野蛮」と断罪する。そして、「臓器不足の解消」は科学技術に「できない」ことであり、またそもそも国民全体の生命・身体を危険にさらさずには「できない」ことであるのに、新しい法律や人々の「善意」で何とかなるとした思考の危険性を指摘し、「日本の社会はいまや『十字軍症候群』に陥っている」とし、その結果として切り捨てられようとしているのは、「実は私たち自身の『いのち』なのかもしれないのです」と指摘している。
「第2章 家族として脳死と臓器移植を経験して」は、ドナーファミリーへのインタビューで、臓器摘出前にドナーの家族に会った移植医が下を向いて、申し訳ない顔をしたこと、「自分の家族への『移植はさせない』といった移植医がいたことなどが語られている。詳細は医師・医療スタッフの脳死・移植に対する態度の
ページ内に掲載。
「3章 さまざまな声」では、14名の自然科学系、社会科学系の学者が各1ページで改定臓器移植法への批判を発表している。佐藤 憲一氏(千葉工業大学・法理論)は「改定臓器移植法は脳の名に値するか」として、改定臓器移植法を「偽法」と指摘する。最後の森岡 正博氏(大阪府立大学・生命倫理学)は「『長期脳死』をめぐる国会での暗闘」で、文末を「まさに長期脳死こそ、推進派のアキレス腱だったのである」と結んだ。
このページの上へ