新生児を脳死判定 障害予測の指標? 横須賀市民病院
拡張型心筋症の男児 内科的治療で7年安定 鳥取大学
第108回日本小児科学会学術集会
第108回日本小児科学会学術集会が4月22、23、24日の3日間、東京国際フォーラムにおいて開催される。以下は日本小児科学会雑誌109巻2号より「脳死」・臓器移植関連の発表(各タイトル末尾のp・・は掲載ページ数)。
- 手塚 里奈(横須賀市立市民病院小児科)、石川 央郎(日本大学医学部付属練馬光が丘病院小児科)ほか:重篤な障害が予測される児への対応について、p128
15歳の母親が自宅分娩し、1時間以上の心肺停止状態後に蘇生した新生児。心拍は再開したが、その後も自発呼吸・自発運動を認めることはなかった。今後の治療方針を考える上で中枢神経系の障害の程度を評価する指標として脳死判定を行い脳死状態と判定したが、治療方針について明確な結論は得られず、日齢101に肺炎で死亡した。
病理解剖の同意が得られ、病態を病理学的にも評価することができた。小児科領域における脳死判定基準については議論が多いところだが、本症例を通じて脳死判定が臓器移植のためだけでなく、重症の中枢神経障害や予後不良が予測される場合の家族への病状説明において、医学的根拠に基づく指標のひとつになるのではないかと思われた。しかし、脳死判定する事は治療方針の決定に直結するものではなく、医療者側としては家族に正確な情報を提供し、患児にとっての最善について十分な話し合いを重ねることが最も大切であると考えた。
- 久野 正貴(東京女子医科大学腎臓小児科)ほか:小児腎移植における術後早期合併症に関する検討、p151
2001年1月から2004年5月までの3年4ヵ月の腎移植患児53例(平均年齢11.5歳)中27例(50.9%)に合併症が認められた。急性拒絶反応5例(9%)、再発3例(5.4%)ほか。重篤なものはなく、腎移植による小児腎不全治療は完全に定着した医療になっているものと確認された。
当Web注:抄録には移植総数と生存者数が示されていない。神戸大学医学部は移植後のQOL低下患児の存在を明らかにしているが、東京女子医大はQOLについての報告もなく「小児腎不全治療は完全に定着した医療」と称している。
- 桜井 淑男(埼玉医科大学総合医療センター小児科):小児救急医療における小児集中治療の必要性、p179
この発表は第32回日本集中治療医学会学術集会と同じ。
- 辻 靖博(鳥取大学周産期・小児医学分野):発症後7年を経過し、安定した状態を維持している拡張型心筋症の男児例、p287
特発性拡張型心筋症(以下DCM)は、現在も特効的な治療法はなく最終的には心臓移植に頼らざるを得ない進行性の予後不良の疾患である。しかし、近年βブロッカーおよびACE阻害剤の投与が、慢性心不全に対し有効であることが様々なstudyで報告されている。今回、私達は1歳児に発症し、βブロッカー+ACE阻害剤を中心とした内服薬投与により7年間の長期にわたり安定した状態を維持しているDCMの症例について、若干の考察とともに報告する。
米国 生体腎臓ドナー交換移植が51例
全米KPDプログラム開発 Segev博士ら
ジョンズホプキンズ総合移植センター(ボルティモア)のDorry L. Segev博士とマサチューセッツ工科大学(マサチューセッツ州ケンブリッジ)応用数学のSommer
E. Gentry氏らは、生体腎ドナー交換を全米規模で縁組みするシステムを開発、「生着率を向上させて、移植チャンスを6倍、患者転送を6分の1にできる」とJAMA誌(293巻15号p1883〜p1890)に発表した。英文抄録はこちらKidney
Paired Donation and Optimizing the Use of Live Donor Organs 。
生体腎の提供希望者がいる患者の3分の1近くが、組織不適合のため移植できない。こうした状況を改善するため「Kidney paired
donation (KPD):ペアによる腎交換」システムでは、生体ドナーとレシピエントをペアで登録し、他のペアとドナーを交換することで適合する腎臓を見つけ、双方のペアが同時に臓器摘出、移植を行う。しかしデータベースに基づいて腎臓の適合作業を行っている施設が少ないため、これまでにKPDで移植を受けた患者は51例にすぎない。
そこでSegev博士らは「最適化」と呼ばれる数学的手法を用いて、腎ドナー適合化システム用の新しいマッチング適合化アルゴリズムを開発した。新アルゴリスムは、移植数、適合度、5年生着率のすべてを改善。移植を7年間待っている患者では、適合する腎臓が見つかったのは現行方法の2.3%に対し新アルゴリズムでは14.1%。移植のために転送しなければならないペアの数も、現行方法の18.4%に対して2.9%に減少したという。
Segev博士らは、新アルゴリズムについて説明するhttp://www.optimizedmatch.com/を開設している。
移植学会 脳死概念を放棄か 松村氏の「与死許容の原則」を紹介
“社会存続・臓器獲得のため、社会の規律で生きていても死を与えよ”
4月10日付で発行された日本移植学会雑誌「移植」40巻2号は、p129〜p142に松村 外志張氏(まつむら としはる・株式会社ローマン工業細胞工学センター)による「臓器提供に思う−直接本人の医療に関わらない人体組織等の取り扱いルールのたたき台提案−」を掲載し
ている。
論文は「1.夢の実現は新しい問題を連れてくる」の見出しで始まり、臓器移植法が制定されたものの脳死者からの臓器移植が伸び悩んでいることから書いている。松村氏はp140以下で、未完成と断りながら4つの原則を掲げた(要約)。
@生存者意志優先の原則
死者の生前の意思表示よりも、遺族あるいは親密な関係者の意志を優先して尊重する原則である。ドナーカードでの意志表示は、遺族のおそれを削減することが第一義であり、取り扱いの決定はあくまでも遺族に委ねるとするのがここでの提案である。極端に言えば、遺族がおそれなければ、そしてそれにかけがえない必然性がある場合には、ドナーカードで拒否している死者からの移植臓器の摘出もありえるとの立場である。
A特定条件における与死許容の原則
科学的な根拠に基づき、国会の承認を経て定義された一定の判定基準を満たしている者に対して、遺族あるいは親密な関係者が死を与えることを、本人が生前に遺族に対してそのような判断を委ねている場合には、非倫理的であるとは見なさないとする提案である。この提案はまことに悲しい提案であり、また誤解を受けるかもしれないとおそれている提案でもある。ここでは脳死を死と認めるかどうかを論ずるのではない。つまりこの提案は、遺族あるいは関係者が、科学的根拠に基づいてある特定の判定、この場合は脳死判定を受けた者に対して死を与える、つまり殺意を持つことを非倫理的なこととして排除しない、ということと同義だからである。ここで「殺意」を非倫理的なこととして排除しない特定の判定基準の内容は、法律で規定されなければならないとしても、脳死と限定しているわけではない。それは時代に合わせて国民の決定に委ねられるのである。
B命のつながり重視の原則
脳死体も含めて死体から提供される移植目的の臓器提供は、移植によって生命がつながる可能性が高い場合を優先するとする原則である。歴史上、なにゆえに与死が許容されてきたのかを回顧した時、すべての場合、それが結局はその社会の存続に関わってきたのであることが察せられる。平和の続く我が国では、忘れられがちなことではあるが、我が国で社会の存続に関わるような危機はすべて回避されているかというとそうでなかろう。とどまらない出産の減少はなにを意味するのであろうか。心臓が動いている者に死を与えてまでなさねばならぬことがあるとすれば、その意味は、したがって明らかなのではないだろうか。
C訓練必須の原則
緊急の場において、悔いない判断をするためには、日常生活のなかでの訓練が必須であるとする原則である。臓器移植といった課題に対応するために、三回忌が済んでからでは間に合わない。身近にあって生きている者が死ぬということはそうしょっちゅうあるものでない。そこでなんの精神的な準備もなければ、脳死の宣告を受けた段階で確信をもって臓器移植を判断することは容易なことではないに違いない。日常的な訓練によって冷静な判断に到達する時間を短縮できることは当然予想できることである。
松村氏はp141の「まとめ」で「医療技術の進歩は、夢の実現とともに新しい課題ももたらしてきた。臓器移植は、そうでなければ限られた生命の日数を数える患者に生命の延長を許すのみでなく、社会生活への復帰などかけがえない人生の喜びを与えている。死体あるいは脳死体からの提供が望まれており、またそのための法律も公布されているが、実績としてみた時、生体臓器移植が圧倒的な増加を見せている。すなわち、移植のための臓器の多くは、そのために命を危険にさらすことも惜しまない親族から提供されているのが現実である。なかんずく、次世代を育みつつある者を容易に命の危険にさらすような環境を作ることは、先進近代国家としてあってはならない。臓器移植の世界は全く新しい世界であり、過去を振り返っても得るものはないとの考えがあるかもしれない。しかしあえて、過去の歴史と我々の生活習慣のなかから、新時代に対応できる智恵の種を探ろうとした。ここでは、個人に
降りかかってくるリスクをコミュニティーのなかで分散し、社会全体で支えてきた様々な知恵があることがうかがわれた」としている。
当Web注:
- 松村氏はp135で「日本が世界一の健康国であり、新しい試みを導入することには慎重が求められる。臓器移植は高コストであり、その推進が一般医療を圧迫する」と認識しながら、それでも臓器移植を推進する理由を示していない。
-
臓器移植を推奨する医学的根拠が少ないことから、闇雲に臓器移植を推奨する
ことこそが「社会の存続」にマイナスになる可能性もあるが、こうした現実に認識がなく臓器移植推進の前提で論を進めている。
- 臓器提供意思表示カードの所持者が脳死ではないにもかかわらず臓器摘出にむけた処置を開始され、臓器獲得目的で法的脳死以前にドナー管理を推奨する医師が多数いるため、与死の許容が現実には臓器獲得目的の
一層の殺人奨励となることに認識がない。
- 時代に合わせて国民が決める条件で与死を許容するならば、脳不全(脳死)患者だけでく、臓器不全患者(移植待機患者)も「
高額な医療費がかかる」として与死が許容されるだけでなく、脳不全患者がさらされているのと同じ生命を短縮される環境におきかねない。
p138「8.生と死の境−ヒトはいつと卜でいつとトモノなのか」の段落では、以下の記述がある。
人はいかにして生死の境を判断してきたか。この問いをもって過去の歴史をたどると、そこには様々な判断があり、それはまた我々自身がいかに柔軟な死生観を持ちうるか、また「死」と「殺」とがいかに近い関係であるかが読み取れる。
死んでしまった人が、まだ生きているがのごとく感ぜられることは誰にでもあることであろう。一方、生きていても死んだものとなんら区別なく平気で扱うこともまた、人間を対象とした場合にはともかく、動物を対象とした場合には、少なくとも私にとっては、しばしばあるのが日常である。
飛び跳ねている魚や蝦を見て「うまそう!」と口走る者がいてもあまり驚かないだろう。その時これらの生物は、脳の中では生命が無視された存在であり、なんの感情もなく殺せる「虫けらのごとき」存在ということとなる。武蔵が「小次郎破れたり!」といったかどうかは知らないが、その時小次郎は武蔵にとってすでに「虫けらのごとき」存在だったのではなかろうか。
歴史を振り返る時、生死の判断は、現代的な意味での生死の判断とは随分と異なった形でなされてきた。なかでも生きている人に対して死を与えるという形での取り扱いが、高度に制度化されたなかで行われてきた場合が少なくない。
原日本的には、イキモノとはすなわち息をしているモノであり、呼吸が止まることが死を判断する主要な基準であったと考えられる。
息が止まることを死とする以外に、他の判断もなされてきたことも忘れられない。原野を遊牧する民は、移動生活に耐えられなくなった者を原野に置き去りにするのが習慣であった。ある地域では、ある程度以上に衰弱した身体状態(いはば死に体)となった者は、まだ息があっても埋葬した。姥捨てという習慣も、伝説のことであるか実在のことであるかは不問としても、あってなんら不思議なことではなかったと考えられる。そのような習慣の背景には、息をしていても、死を与えるものとして取り扱う考え方があったものと考えられる。それでは生きながらにして遺棄されたり、あるいは埋葬される者は怨念のなかに死んでいったのであろうか。そうではなかったであろう。それはその社会の掟であり、自分もその両親をそうしたのであり、いま自分の番となって従容としてそれ受け入れたに違いない。
本人が受容していることを前提として、一定の社会的なルールのもとで生者に死の選択肢を選ばせることに対して、適当な言葉を発見できなかったので、「与死」という勝手な言葉を使うことをお許しいただきたい。与死は殺害と類似して、本人以外の者(あるいは社会)がある者に対して死を求めるものであるが、ここで殺害と異なるのは、本人がその死を受け入れていることが条件であるという点である。与死が尊厳死とは異なるのは、尊厳死は、死を選択するという本人の意志を尊重するという考え方であるに対して、与死は、社会の規律によって与えられる死を本人が受容する形でなされる。
息をしているかしていないか、心臓が鼓動しているかしていないか、あるいは脳幹が機能しなくなったかどうか、というような個別的な判断基準でなく、ある意味で、生きていても死を与え、また死んでいても(タマシイとして)生きたものとしてきたのが、我々の祖先の歴史だったのではなかろうか。
ここでは、「死」と「殺」はきわめて接近した概念であったに違いない。このような歴史の延長として現在を見る時、「殺」意を完全に非倫理的な観念として否定することはできず、限定した条件においては
、現在においても生きたその必然性があるもの(と)見るのが冷静な判断なのではなかろうか。
臓器移植ネットワークも知らない移植が2例、ヤミ脳死摘出3例
済生会福岡八幡病院でヤミ脳死腎移植 温阻血時間8.9分
外国人生体間腎移植14例、夫婦外非血縁者間8例
2003年腎移植集計
日本臨床腎移植学会・日本移植学会は「腎移植臨床登録集計報告(2004)−2 2003年実施症例の集計報告−(2)」を、「移植」40巻2号p143〜p154に掲載した。
2005年に実施された腎移植症例数は生体腎728例、献腎133例、脳死体腎5例の合計866例だった。日本臓器移植ネットワークhttp://www.jotnw.or.jp/datafile/offer01.html#15は2003年の腎臓移植を136例
、うち脳死体腎4例としており、献腎・脳死体腎にそれぞれ1例の誤差がある。
2003年に法的脳死判定にもとづき臓器摘出した腎臓移植は4例だが、腎移植臨床登録集計報告は献腎+脳死体腎の
摘出条件は脳死7例、心停止130例、記入なし1例としている。済生会福岡八幡病院で脳死体腎移植を行ったことを報告しているが、これは法的脳死下提供では知られていない。
温阻血時間(おんそけつじかん)は、3徴候死を確認後に「遺体の手術室への搬入・消毒・腎臓の摘出手術など」を行うと最低でも60分を要する、脳死摘出は0分となるが、この報告は献腎・脳死体腎で平均8.9分としている。ダブルバルンを使用した死体内灌流は123例
(89.1%)で行われていた。
献腎・脳死体腎のドナーで19歳以下は5例。生体腎移植では白人ドナー4名、白人レシピエント1名、日本人以外の東洋人ドナーとレシピエントがそれぞれ10名、夫婦以外の非血縁者間移植が8例あった。
移植回数では、献腎・脳死体腎で2回が14例、生体腎では2回44例、3回3例、4回1例。
法改訂しても小児心肺移植は6年に一度、レシピエントは130人
マスメディア対策実施中、教育が難問 近畿の移植医が座談会
4月2日、NEW OSAKA HOTEL(大阪市)において「心臓移植の課題」座談会が開催された。出席者は大阪大学からは白倉 良太氏、福嶌 教偉氏、国立循環器病センターからは越後 茂之氏、中谷 武嗣氏、兵庫医科大学からは宮本 祐治氏。以下は「今日の移植」18巻3号p325〜337より主な発言の要旨。
小児心臓移植
越後:15歳未満の小児の心臓が提供できるようになるとして、どの程度のドナーがいるかということが問題になります。最近、小児の剖検率がどんどん低下してきています。それを考えたら、どれだけそういった臓器提供があるのか、楽観的にはなれません。
白倉:腎臓はこどもでも心停止の場合に提供が可能ですが、年間2人、3人です。100〜170人のうち2人、3人ですから、3%以下ということになります。仮に法律改正案が通ったとしても、年間5例のうち3%だったら6年に一度しかないということになります。
越後:ただ、そのように法律が改正されるのは非常に大きなインパクトがあります。遺族の同意で臓器提供が可能となり、15歳未満の提供も可能となれば、学校教育のなかでの位置付けも重要になっていくわけで、私たちが置く軸足も変わってくる。法律改正は非常に大事なことです。その時期に、提供数の増加は必ずしも楽観視できないなどどいう議論と法律改正の必要性をごっちゃにして考えるべきではなく、いま学会や患者団体が繰り広げている運動の足を引っ張るような印象を与える議論は避けるべきでしょう。
白倉:1997年に臓器移植法ができた時も、「足かせをかけられた」といって当事者たちは文句をいっていたけれど、あの法律がなかったら、移植医以外の人たちが前を向いたかどうかわかりません。
越後:そういうことです。非常に大きかった。
中谷:あの法律はやはり日本では必要だったと思います。
白倉:同じことは小児にだっていえるかもしれません。
越後:そういう意味で本当に大事なことだと思うのです。けれど、楽観視はできないということも、当事者としては肝に銘じて行動しなければなりません。
(p320)
宮本:小児のレシピエントは、日本で年間およそどれぐらいと推測されていますか。
越後:50人程度です。
福嶌:18歳未満の心臓移植だけでは、50〜80人の間ぐらいだと思います。肺や心肺移植を入れて130人程度ですね。
越後:今回の調査のなかには、諸外国と違って左心低形成症候群など先天性心疾患が比較的少ないのです。ですから、実際に国内での小児の心臓移植が可能になったときに、特に先天性疾患が増えてくる可能性はあると考えられます。
マスメディア対策
福嶌:移植施設や移植学会を担当している記者が改正案に賛成でも編集長がOKと言わないとその記事が載らないので、いま高原 史郎先生と相談して、編集長クラスに対する臓器移植の勉強会を計画しています。
白倉:記事を左右に操る人はキャップクラスですから、最後の照準をそこにあわせる作戦は高く評価されます。
福嶌:この間の2月のメディアワークショップのときには、結構東京の上役の記者・編集者が出席して納得して帰ってくれたんです。もう一遍そのクラスに集まっていただこうというのが今回の計画です。
小児脳死判定
越後:一部に非常に根強い反対がありますね。例えば、虐待児の問題を出してくるのですが、それは表向きの理由であって、根本的には脳死段階での移植に反対で、非常に強い反対の気持ちを持っている人がいるのではないかと思います。
白倉:厚労省から問い合わせがありましたが、“chronic brain
death”と言ったと思いますが脳死の患者さんで何ヶ月も生きる例が数十人もリストアップされていて、若い人が多数含まれているので、それを懸念する声もあるとか。
福嶌:今回の小児科学会で、はじめてサテライトシンポジウムで移植医療を扱っていただくことになっています。その際に、「現会頭として、小児の臓器移植ができるようにしなければならないという提言をしてほしい」と、この前お会いしたとき、原田会頭にお願いしてきました。「それはなんとか考えてみましょう」とおっしゃられました。小児科学会としてはいえなくても、学術集会で会頭がこういう気持ちでシンポジウムを企画したと言っていただいたら、大変インパクトがあります。
白倉:現況としては、小児の提供は法律が変わっても非常に難しい問題があるという状況ではないか。ただ法律が変われば前向きの意見もぐっと出てくる可能性はありますので、反対意見のトーンも変わってくるのではないかと思います。
臓器移植・提供と教育
福嶌:もう何回も大阪府の教育委員会に声をかけたのですが、中高生に臓器移植について講義をさせてくれません。
中谷:当施設の看護部が、限られてはいますが小学校や中学校にいって、移植も含めたそういう命の大切さについて話をしています。その感想文などには、非常に素直に理解した気持ちがつづられています。
白倉:たとえば法律で、小学校、中学校の教科のなかに脳死の話を入れることになっても、講義する者がいない事態になると考えられるのですが・・・・・・。一つの学校でも何十回の講義になる。それを全国の学校で考えるとすごい時間数になります。
福嶌:以前、大阪府の教育委員会にお願いしたことがあるのですが、その年に教師として採用になる人の研修会で、臓器提供や臓器移植について講義をさせてほしいと。そうすれば、生徒が臓器移植について質問した時に答えられるようになるからです。
中谷:教師が“生命”“死”“ボランティア精神”“脳死”“臓器提供”などの基本骨格の部分について誤りなく説明できるように、専門家が支援する体制は必要だと思います。
宮本:教師の学習用虎の巻ビデオも用意したほうがいいかもしれません。
白倉:法律改正をお願いするからには、そういう方法論も検討しておく必要があるでしょうね。案外大変だと思いますが。
法的脳死30例目ドナーも自殺者?
頸部、両手首切創で出血性ショック
臨床雑誌の外科67巻4号(2005年4月号)はP469〜472に冨樫 順一氏(東京大学人工臓器・移植外科)による「脳死肝移植2例の経験」を掲載。2004年5月20日に日本医科大学付属第二病院で臓器摘出された法的脳死30例目「ドナーは40歳男性で、頸部、両手首切創による出血性ショックで脳死となった」としている。
臓器摘出の当日、共同通信は「警察庁が脳死判定後、検視を行ったことを明らかにしたが、脳死に至った詳しい経緯については家族の強い要望から、公表できないとした。・・・・・・移植ネットによると、男性は19日夜から1回目の脳死判定を実施され、20日未明に2回目の判定があった。けがや骨折などはなく、判定に問題はなかった」という記事を配信した。
臓器ドナーで自殺者と報道されたのは、2000年3月29日に駿河台日大病院において臓器を摘出された法的脳死第5例目の20代女性。法的脳死30例目も自殺者ならば、臓器提供者の約7%が自殺者になる。このほかにも厚労省検証会議報告書には、ドナーの経過・服薬状況から臓器提供意思の確かさが検討されたケースも報告されており、自殺臓器提供者は高率にのぼる可能性がある。
全国で2004年の1年間に自殺した人は3万227人、死因の2.9%を占める。
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