三重大学医学部泌尿器科教室
ドナーの生前から臓器摘出処置開始
事故死の母親を「死体」腎臓ドナーに
三重大学医学部における「死体」腎移植の第1例目は1982年11月20日、桑名市山本総合病院で脳出血で死亡した48歳女性をドナーーとして行なわれた。レシピエントとなった透析歴54ヶ月の50歳女性は、1年後の1983年11月21日に劇症肝炎で死亡した。
2例目ドナーは名古屋保健衛生大学で交通事故死した30歳女性、1983年3月23日、透析歴81ヶ月の42歳女性に移植。
3例目ドナーは米国で交通事故死した18歳男子(輸入腎)、約40時間の総阻血時間の後に1983年9月12日、透析歴55ヶ月の38歳男性に移植。移植後3ヶ月で腎機能は廃絶、レシピエントは1984年1月4日に急性心不全で死亡。
4例目ドナーは津市永井病院で交通事故死の17歳男性、1983年11月24日に透析歴66ヶ月の40歳男性に移植。
5例目ドナーは名古屋保健衛生大学で交通事故死した41歳男性、1984年3月2日に透析歴56ヶ月の34歳女性に移植。
6例目ドナーは三重郡多度町大桑病院で脳出血で死亡した51歳男性、1984年4月14日に透析歴38ヶ月の34歳女性に移植した。
このうち2例は、三重大学医学部泌尿器科教室の腎摘出班が両腎摘出を施行した。1例は心停止後に、1例はハートビーティングで処置(ダブルバルーンカテーテルの留置等)を開始した。腎移植(第一報)=三重医学28巻2号はp268に表6死体腎移植(当科の方針)として「4.死戦期管理 腎機能維持、感染予防、体温維持」、「5.死体腎摘出前処置 人工呼吸、ヘパリン静注、大腿動脈からダブルバルーンカテーテル挿入、手術場へ」、「6.摘出手術 死亡前4時間以上BP80mmHg以下は不適」などを記載している。
7例目ドナーは3.5歳男児、レシピエントは35歳男性。
8例目ドナーは事故死の母親(7例目と8例目の出典は腎移植(第二報)=三重医学29巻1号)。
出典
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山崎
義久、栃木 宏水、千種 一郎、田島 和洋、西井 正治、加藤 雅史、柳川 真、保科 彰、木下 修隆、多田 茂(三重大学医学部泌尿器科教室)、堀 夏樹(国立津病院泌尿器科)、森下 丈夫(三重県総合塩浜病院泌尿器科)、加藤 広海(中勢総合病院泌尿器科):腎移植(第一報)、三重医学、28(2)、263−270、1984
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山崎
義久、栃木 宏水、千種 一郎、田島 和洋、西井 正治、加藤 雅史、柳川 真、保科 彰、木下 修隆、多田 茂(三重大学医学部泌尿器科教室)、堀 夏樹(国立津病院泌尿器科)、小川 兵衛(山田赤十字病院泌尿器科)、有馬 公伸(桑名市民病院泌尿器科):腎移植(第二報) 死亡例の検討、三重医学、29(1)、47−56、1985