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視床下部機能例を脳死とする危険
<用語解説>
間脳の背側部が視床(四肢からの感覚を大脳に伝える中継基地と自律神経中枢)であり、腹側部が視床下部である。視床下部は、末梢性自律神経性機序、内分泌的活動度および水分バランス、体温、睡眠、食物摂取、第二次性徴などの多くの身体機能を亢進したり、調節したり、そして統合する中枢である。
視床下部で産生されるホルモンは、
抗利尿ホルモン(ADH:antidiuretic
hormone)
副腎皮質ホルモン放出因子(CRF:corticotropin releasing
factor)
成長ホルモン放出因子(GRF:growth hormone releasing
factor)
黄体形成ホルモン放出ホルモン(LH-RH:luteinizing
hormone releasing hormone)
抗利尿ホルモンは原則的に神経分泌(産生している神経細胞の軸索突起が脳下垂体まで伸びていて)下垂体後葉に運ばれ、大部分はそこから海綿静脈洞内に放出される。副腎皮質ホルモン放出因子、成長ホルモン放出因子、黄体形成ホルモン放出ホルモンなどは下垂体門脈によって下垂体前葉に運ばれ、下垂体前葉の標的細胞に働いて各ホルモンを分泌させる。このほかの視床下部ホルモンとして、プロラクチン抑制因子(PIF:prolactin
inhibiting
factor)、ソマトスタチン(SRIF,SS:somatostatin)などが知られている。
抗利尿ホルモン(antidiuretic
hormone:ADH)は、別名バソプレッシン、バゾプレッシン:vasopressin
ともいう。毛細血管や細動脈の筋肉組織の収縮を刺激し、血圧を上昇する作用。腸管の蠕動促進、子宮に収縮的影響、尿細管で水の再吸収を増強し、尿の濃縮と血漿の希釈を起こす。抗利尿作用のおかげで身体は、体液の浸透圧と体液量をほぼ一定に保つことができる。 |
山本 光生(広島大学医学部脳神経外科学教室):実験的脳虚血に関する生化学的研究 第一編:栓子注入法による実験的脳虚血における局所脳エネルギー代謝の変化、広島大学医学雑誌、31(2)、325−337、1983は、イヌを用いた動物実験で、脳血管閉塞部位の違いによる神経症状を報告している。
- 内頸動脈骨道部閉塞群の3頭はいずれも無症状。
- 中大脳動脈末梢閉塞群の5頭のうち3頭は無症状だったが、2頭に同名性半盲を認めた。
- 前大脳動脈閉塞群の4頭のうち3頭は無症状だったが、1頭で片麻痺と意識障害を認めた。
- 中大脳動脈本幹閉塞群の10頭では、いずれも麻酔の覚醒遅延、意識障害、片麻痺、同名性半盲などが認められた。
- 後交通動脈閉塞群3頭は、いずれも麻酔から覚醒せず、強度の意識障害を示し、1頭は閉塞後3時間で死亡した。
後交通動脈閉塞群について、山本氏は「急性脳腫脹の病態を呈した。これは後交通動脈から分枝する穿通動脈の灌流域である視床下部、視床(後部)に脳虚血が発生するため、それに起因する急性脳腫脹によって患側脳全般の代謝障害が起こったと考えられた」としている。
杉本 侃:脳死患者における循環機能の長期安定化に関する研究、外科治療、52(4)、468−469、1985は、脳死患者の視床下部の機能廃絶が脳死患者の心停止をもたらすこと、そして抗利尿ホルモン(ADH)とエピネフリン(カテコールアミンホルモン、局所血管拡張薬、epinephrine
)の併用により、心停止に至るまで平均23日間にわたり患者の循環動態を維持できたことを報告した。
杉本 侃:脳死状態における循環機能の維持に関する研究、医学のあゆみ、134(6・7)、471−472、1985もほぼ同内容の論文で、以下はこの2論文の考察部分の要約。
(医学のあゆみ)脳死状態になれば、心停止は不可避である。とくに、脳に巨大な一次性粗大病変を有し、血圧の急激な低下をともなう症例では、心停止に至る時間はきわめて速やかで48時間を超えるものは少ない。この脳死が心停止を迅速にかつ不可避的にもたらす機序は、いままでまったく不明であった。(外科治療)すみやかに心停止に至る理由の一つに、各種カテコールアミン類の作用が全く失われて行く事があげられる。(医学のあゆみ)実際に起こる現象としては、昇圧のために、輸液を行い、種々のカテコールアミンを投与しても、血圧の維持ができないことがあげられる。(医学のあゆみ)脳死直後ではなんとか維持できていても、そのうちに、必要なカテコールアミンの量がどんどん増加して行き、やがて大量のカテコールアミンにも反応せずに血圧が下降し、やがて心停止にいたる。(外科治療)それに反しバソプレッシン(抗利尿ホルモン)の(医学のあゆみ)微量持続投与を行なうと、通常量のエピネフリン投与により、循環動態がほぼ完全に安定することが判明した。バソプレッシン(抗利尿ホルモン)は脳死患者の循環動態の安定に対し、ほぼ絶対的な重要性のあることが本研究により明白になった。
バソプレッシン(抗利尿ホルモン)は、視床下部で産生され、脳下垂体において分泌されるから、脳死状態においては分泌されない。バソプレッシン(抗利尿ホルモン)の血中半減期は15分であるから、脳死状態においては、文字通り0なるものと考えられる(外科治療)ので、ADH(バソプレッシン、抗利尿ホルモン)が脳死の特異な循環動態と不可分の関係にあることが明白にできたものと考えられる。ADH・エピネフリン併用群においては、循環動態が安定しているので心・腎・肝などの機能が長期にわたり、よく保存されていた。
この研究結果には、プラス、マイナス両面で重大な意味を持っている。薬剤の投与量が少なく脳死状態を長期に維持できるので、その病態の解明が今後急速にすすむことが期待できる。臓器移植の面でも、摘出をあわてる必要が全くなくなった。その半面、「脳死状態は間もなく心停止に至るから死だ」と言うような、良い加減な論理は全く成立しなくなった。無駄な医療を半永久的に続ける可能性さえ出て来た。 脳死とは何か、根本的に考え直す必要を、この研究結果は示している。
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このように広島大学医学部の山本氏、大阪大学医学部の杉本氏らは、視床下部が生命維持に不可欠の機能を果たしていることを明らかにしました。杉本氏らは、法的脳死判定が確定する以前から、患者の救命に逆行する違法な臓器摘出目的でドナー管理する技術も開発してしまったといえます。
杉本氏は「抗利尿ホルモンの血中半減期は15分であるから、脳死状態においては、文字通り0なるものと考えられる」と仮定したのですが、その後、血中のホルモン濃度を測定する技術が医療現場にも導入されたことにより、「脳死状態においては、文字通り0」ではないことが明らかになってきました。
症例 |
血漿ADH(バゾプレッシン濃度(pg/ml) |
血清浸透圧(mOsm/l)
脳死判定時(同12時間後) |
脳死判定時 |
12時間後 |
24時間後 |
48時間後 |
1 |
7.10 |
2.15 |
0.22 |
― |
295 (325.8) |
2 |
0.91 |
0.10 |
― |
― |
282.8(328.4) |
3 |
0.70 |
0.18 |
0.10 |
― |
356.8(305.8) |
4 |
1.11 |
0.43 |
0.30 |
― |
309.2(314.4) |
5 |
2.87 |
1.58 |
0.33 |
― |
288.8(316.4) |
6 |
0.54 |
1.32 |
1.42 |
0.30 |
323.4(350.8) |
7 |
7.78 |
4.05 |
4.02 |
3.05 |
275.6(299.8) |
佐々木 真人:脳死判定時における血漿抗利尿ホルモン(バゾプレッシン)の意義、救急医学、10(2)、225−228、1986は、日本脳波・筋電図学会の判定基準に基づき脳死と判定した7例について、脳死判定時と12時間後、24時間後、48時間後の血漿ADH(バゾプレッシン)濃度そしてADHの放出をきたす血清浸透圧を報告しています(以下、要旨)。
- 脳死判定時に血漿ADH濃度は7例中5例は正常値を示し、12時間後には7例中4例、24時間後には7例中2例で正常値を示した。症例7は48時間経過後も正常域にあり、72時間後に初めて正常値以下に低下した(佐々木氏らが示す血漿ADH濃度の正常域は0.3〜4.2pg/ml)。
- ADHの放出をきたす血清浸透圧閾値は280〜265mOsm/lであり、7例はいずれも、この閾値を超えており正常な状況下ではADHを放出するのに十分だった。
- ADH濃度と血漿浸透圧の相関関係からみると、脳死判定時では7例中3例が正常範囲に、3例が下垂体機能低下領域に、1例がADH過剰状態に位置していることがわかった。
佐々木氏らの研究は、「全脳死を判定するには、視床下部の機能を判定しなければいけないのに、脳死判定基準は検査対象としていない」問題を浮かび上がらせました。他の研究者による同様の論文もあります。
有田 和徳:脳死患者における血中視床下部ホルモン濃度ならびに尿崩症の出現状態、救急医学、15、467−471、1991は、厚生省脳死研究班判定基準(1985)によって脳死と判定された患者28例を対象に視床下部不全症状の出現頻度を検討し、血中視床下部ホルモン濃度を測定。特に尿崩症を中心に検討した。その結果、
- 尿崩症は75%、中枢性過高熱46%、高ナトリウム血症68%、低ナトリウム血症12%であった(尿崩症の定義は、2時間当たり600ml以上の多尿または24時間尿の比重が1.008以下。感染症を示す所見なしに39℃以上の発熱を示したものを中枢性過高熱とし、血中Na濃度については155mEq/l以上、125mEq/l以下を異常値とした)。
- 観察した全期間を通じて尿崩症と判定されたものは、前記のとおり75%(28例中21例)だったが、約半数の症例(28例中12例)では、持続期間が48時間以内の一過性尿崩症だった。この12例中3例は脳死判定後にはじめて尿崩症の発現を認めた。脳死患者において尿崩症は必発ではなく、少なくとも脳死判定段階において36%の患者が尿崩症を呈さなかった。
- 脳死判定前にADH製剤の投与がなされている症例は省く、16例中12例で血中ADHを検出した。ADHと血漿浸透圧との関係(上記佐々木論文の要旨3と同項目)において、3例は正常範囲に存在し、1例はむしろADH過剰状態の領域に存在した。これらの事実より、脳死状態において大多数の症例ではADHは分泌不全状態にあるものの分泌停止状態ではないと結論しえる。
- その他の血中視床下部ホルモン(GRH、CRH、LH−RH)は測定10例中全例で測定可能であった。
- 以上より、脳死患者において視床下部ホルモンの分泌が持続しており、視床下部への血流が残存していると思われる。
有田氏らが報告している一過性尿崩症とみられる脳死と判定された患者が、6日目に一部の機能を回復した事例があります。木村 昭夫:脳死判定後長期心停止に陥らなかった1症例、救急医学、12(9)、S484、1988によると「54歳女性、脳内出血で発症4日目に脳死と判定された。脳死判定後、血圧は昇圧剤を用いずとも80mmHg前後を維持していたが、判定6日目に突如として血圧が急上昇し再度、脳死判定を行なった。無呼吸テスト時PCO2(肺胞内二酸化炭素分圧)が100mmHgを超えると脈血圧の上昇とともに下顎呼吸様体動が出現した。そのさいエピネフリン、ノルエピネフリンの上昇を認めたが、ABRは平坦であった。判定後27日目に視床下部ホルモンを測定したところ、CRF、TRH、LHRHのいずれも検出された」
脳死と判定された患者が昇圧剤を用いずとも、60日間心停止に陥らなかった。「(脳死60日後?)心停止1時間後の病理解剖では、脳組織は自己融解し大脳、小脳、脳幹の区別さえ不能であった。心臓、肝臓、腎臓などの臓器保存状態は良好であった」そうですから、いずれかの時点で視床下部も機能が廃絶していたでしょう。しかし、脳死判定6日目に血圧が急上昇した時点では、どうだったのか。臓器摘出が行なわれるとしたら、脳死判定確定から1〜2日目のため、その時点での状態が注目されます。
この報告は、「無呼吸テスト時PCO2(肺胞内二酸化炭素分圧)が100mmHgを超えると脈血圧の上昇とともに下顎呼吸様体動が出現した」としています。二酸化炭素は拡散性が高いため、肺胞内二酸化炭素分圧:PCO2と動脈血二酸化炭素分圧:PaCo2とほとんど同じになるそうです(人工呼吸器装着時の連続測定で肺胞内二酸化炭素分圧:PCO2の最高値は、動脈血二酸化炭素分圧:PaCo2よりも1〜5mmHg低い)。現在の脳死判定基準は、無呼吸テスト終了時の動脈血二酸化炭素分圧:PaCo2が「60以上mmHgになったら終了してよろしい」としていることに否定する症例ではないでしょうか。無呼吸テストの問題は炭酸ガス刺激だけの無呼吸テストで詳しく取上げます。
間欠的に抗利尿ホルモンを投与しないと、逆に乏尿状態になる患者
小宮山 明:脳死時に発症する尿崩症について−症例報告および抗利尿ホルモンに関する研究−、防衛衛生、36(10)、385−391。この37歳男性患者の場合は、解剖により脳の変化が著しかったことから、下垂体に貯蔵された抗利尿ホルモンの漏出によると推定しているが、個々の脳死患者において抗利尿ホルモンの必要量が変動した場合は、それぞれ原因を検討する必要がある。
抗利尿ホルモンや昇圧剤などを使わなくとも心拍動は長期間維持され身長も伸びる患者
久保山 一敏:300日以上脳死状態が持続した幼児の1例、日本救急医学会雑誌、11(7)、338−344、2000は、生後11ヶ月の男児で身長74cmだったが、第253病日には身長82pまで増加。第3病日に開始した抗利尿ホルモンの投与を第245病日に中止したが死亡は第326病日だった。経過中に脳の融解を観察している。
視床下部からはでなく他の部位からも抗利尿ホルモンが分泌される患者
青木 正之:脳死患者における異所性抗利尿ホルモン(ADH)産生への末梢白血球の関与、第13回日本脳死・脳蘇生研究会誌、22−23、2000は、脳死患者の末梢白血球においてADH遺伝子の発現していること、ADHの投与を中止しても尿崩症は再発しなかったことを報告している。
以下の2論文は、ともに視床下部の機能している「脳死」患者がいること、解剖してみると壊死した神経細胞と正常な神経細胞のあることを報告し、機能検査の結果を細胞レベルで裏付けています(機能検査の時点から、解剖時までの時間経過・壊死の進行も考慮すべき事項となる)。
石瀬 淳:脳死患者における視床下部・下垂体系ホルモン、日本脳神経外科学会51回総会抄録集1号、183、1992は厚生省脳死判定基準を満たし、その後心停止にいたった9例で、ホルモンの検査は第1回脳死判定後に行ない、剖検もしています。結果は
- ACTH(副腎皮質刺激ホルモン)・GH(成長ホルモン)は、正常または正常下限であった。
- ACTHはコルチゾールとともに2例で日内リズムが保持されていた。
- 低血糖負荷試験ではACTH2例、GH2例が反応した。
- TSH(甲状腺刺激ホルモン)、PRL(黄体刺激ホルモン)、LH(黄体形成ホルモン)、FSH(卵胞刺激ホルモン)は感度以下が2例で他は正常範囲であった。
- 下垂体刺激試験に対してはTSH1例、PRL1例、LH3例、FSH3例を除き有意の増加は認められなかった。
- 下垂体の組織学的変化では、いずれも前葉の中心部に壊死が認められ、脳死期間の長い症例では、壊死が進行している傾向が認められたが、前葉周辺部は比較的正常に保たれていた。
- 視床下部の神経細胞は、比較的正常に近い形態を保っている部分も残存していたが、大部分は融解壊死ないし凝固壊死に陥っていた。一部に血球の血管外漏出が認められた。
有田 和徳:脳死患者における視床下部下垂体系機能、日本外科系連合学会誌、19(2)、151、1994は、対象患者は厚生省脳死判定基準を完全に満足した39例です。
【結果】
- 各下垂体前葉ホルモンの濃度が測定感度以上である頻度は、TSH(甲状腺刺激ホルモン)100%、GH(成長ホルモン)97%、LH(黄体形成ホルモン)95%、FSH(卵胞刺激ホルモン)95%、ACTH(副腎皮質刺激ホルモン)84%、PRL(黄体刺激ホルモン)55%であった。特に成長ホルモンは脳死判定時に高値を示した。各前葉ホルモンの血中濃度は脳死判定後2日頃まで保たれ、その後低下傾向を示した。
- 血中コルチゾール値は相対的に保たれていたが、正常な日内変動は消失していた。
- 三者混合負荷試験(インスリン、TRH:甲状腺刺激ホルモン放出ホルモン、LH-RH:黄体形成ホルモン放出ホルモン)において、少なくとも1種の前葉ホルモンが増加反応を示したのは65%であった。平均増加率で見ると、黄体形成ホルモン、卵胞刺激ホルモン、黄体刺激ホルモンが有意の増加を示した。副腎皮質刺激ホルモンの増加反応例は無く、成長ホルモンの増加反応は2例のみに認めた。
- GRF(成長ホルモン放出因子)に対しては、5例中4例の成長ホルモンが増加反応を示した。
- アルギニン負荷試験に対しては、7例中2例のみに成長ホルモンの僅かな上昇反応が認められた。
- ADH(抗利尿ホルモン)は18例中14例で測定可能であり、脳死判定4日後でも測定可能な症例もあった。
- GRH(成長ホルモン放出ホルモン)、CRH(副腎皮質ホルモン放出ホルモン)は約4割の患者において測定不可能であった。しかし約6割の患者の成長ホルモン放出ホルモン、副腎皮質ホルモン放出ホルモンが、また大部分の患者のLH-RH(黄体形成ホルモン放出ホルモン)が測定可能であった。
- 脳血流検査では、いずれの検査法でも脳血流は認められなかった。
- 組織学的には下垂体前葉には壊死像が認められたが、中間葉近傍、下垂体被膜直下では正常構造が保たれていた。後葉組織は前葉よりも良好に保たれており、視床下部は壊死像が顕著であったが比較的よく保たれた神経細胞も混在していた。
【結論】
- 下垂体前葉:脳死判定後も、下垂体前葉ホルモンの分泌は続いている。
- 下垂体後葉:脳死判定後も、ADH(抗利尿ホルモン)の分泌は続いている。
- 視床下部 :すべての脳死患者で視床下部機能が廃絶しているとは断定できないが、
極めて強く障害されている。
- 視床下部下垂体部の血流:脳死判定後もこの部分に僅かな血流が残っていると推測される。
しかしこの血流は視床下部機能を正常に維持するには程遠いと考えられ、
この血流の存在は通常の脳血流検査では検出することができない
視床下部が低血流状態でも機能、生存する理由
有田氏らは前出の脳死患者における血中視床下部ホルモン濃度ならびに尿崩症の出現状態、救急医学、15、467−471、1991において、視床下部血流が残存する解剖学的理由として「われわれはすでに下垂体前葉負荷試験の結果から、脳死患者においても下垂体前葉血流は残存していることを報告してきたが、今回の結果から下垂体後葉、さらに視床下部に於いても血流が残存していることが明らかであると考えられる。下垂体は脳とはトルコ鞍隔膜によって境界されてはいるが、下垂体茎が貫く鞍隔膜裂孔は大部分の症例において5mm以上の直径を有しており、鞍隔膜が脳圧のバリアーとなり下垂体と視床下部との間に灌流圧の大きな差が生じているとは考えがたい。また、下垂体血流を支配している上下下垂体動脈と視床下部への穿通動脈は、ともにウィリス動脈輪から分岐しきわめて近接している。さらに下垂体門脈血管の一部は正中隆起に向かって血液が逆流する可能性もある。以上の3点を考慮すると下垂体血流が保たれている症例において視床下部血流が多少とも残存しているという事実はけっして驚くべきことではない」と説明している。
有田氏らは、「今回の検討対象にした全例が1カ月以内に心臓死を迎えており、厚生省研究班の判定基準が脳死を正確に判定しうるという事実に変わりはなく、本研究で存在が示された脳血流は正常な脳機能維持に十分な血流ではないと考えられる。しかし脳死判定段階で脳のあらゆる部分が完全なる血流途絶の状態となっているわけではなく、また脳のあらゆる部分がまったく廃絶しているわけではないというのが、今回の検討から導かれるわれわれの結論である」とした。
「厚生省脳死判定基準で脳死と判定されたら必ず心臓死に至る。救命が不可能であることを判定できる」ことに有田氏らは異論を挟まない訳ですが、では救命不可能性が判定されたら「脳死と判定されたら『人の死』であり、治療を打ち切る。臓器摘出も違法性は無いのだ」と考えても問題はないのでしょうか。そこまで短絡するのは問題があります。視床下部が機能し加えて体内臓器系との連携が途絶えない限り、意識がある可能性がある。この段階で「ご臨終です」と宣告されたら当人に聞こえる可能性があるし、臓器を摘出したら激痛、恐怖を感じる患者が含まれる可能性があるからです。
赤血球のヘモグロビンと結合している酸素は、血漿に放出された後に組織細胞に取り込まれる。血流を測定するために用いる放射性トレーサーは、その物理的化学的性質がヘモグロビンや血漿と大きく異なれば、血流を正確に測定できる訳がないことはいうまでもありません。加えて、脳血流測定では血液脳関門障害の影響を受ける放射性トレーサーもあります。
実際に、森田 浩一:脳死患者のSPECTによる診断、日本医学放射線学会雑誌、53(臨時増刊号)、S380、1993は、「脳血流停止がSPECT上で示された5例中2例に脳死臨調の診断基準では脳死とは診断されない自発呼吸が認められた」と、脳死診断とSPECT上脳血流停止との時間的ずれを報告しています。SPECTでは低血流であることはわかっても、本当の脳血流停止は証明できないという実例です
(脳血流停止所見下の脳死否定例は別ページに掲載)。
SPECT以前の脳血流測定技術においても「造影剤が血管に入っていかないnon-filling:ノンフィリング」と判定されても、造影剤の比重が重いから注入時に頭を低くすれば入ってゆく、あるいは長く観察すると入っている。あるいは他の血流測定法を使うと血流が測定される、あるいは血流停止でもホルモン分泌があり負荷試験にも反応する(上記の有田論文)など、専門家が測定限界・精度の説明を省略して「脳血流停止」を乱発していること。なかには「造影剤が入っていかない写真を示すと、患者家族への説明の手間が省ける」という患者を愚弄する医師もあり問題です。
視床下部に接する視床も、血流低下に対して耐久性のあることが島根医科大学・脳神経外科の福間 淳氏らによって報告されています。
福間 淳:短潜時SEP (SSEP)によるイヌ大脳皮質と視床の虚血耐性能の比較、BRAIN AND
NERVE(脳と神経)、42(4)、383−389、1990。福間 淳:中潜時聴覚誘発電位を指標とした大脳皮質、視床の虚血血流閾値に関する実験的研究、BRAIN AND
NERVE(脳と神経)、42(5)、p481−488。
この2論文ともに、イヌの大脳皮質脳虚血モデルと視床虚血モデルで実験し、電気生理学的機能が消失する機能的血流閾値は、大脳皮質脳虚血モデルで約18ml/100 g of
brain/min、B群の視床脳虚血モデルは約10ml/100 g of brain/minであることを示しました。BRAIN AND
NERVE42(4)p388では「視床は虚血急性期には大脳皮質に比べて、より高度の低血流状態になるまでその電気生理学的機能は失われないことを示唆した」と書いています。
聴覚誘発電位( auditory evoked potentials:AEP )は、音刺激から8ms以内の早期成分、8〜50msの中潜時成分、50〜500msの長潜時成分に分類される。早期成分は聴性脳幹誘発電位(
brain-stem auditory evoked potentials:BAEP )として脳幹機能の検査に応用されている。一方、中潜時成分(
middle latency auditory evoked potentials:MLAEP )は、上部脳幹から大脳皮質にかけて起源を有する反応だが、各成分の起源が十分明らかにされておらず、神経学的応用面で立ち遅れている。福間氏らは、今回の実験で短潜時、中潜時の聴覚誘発電位で測定した。
「脳死判定基準に脳血流停止を加えれば、脳死判定は完全にできる」と安易に提案されますが、福間氏らの研究は脳深部で高精度に血流を測定できなければ脳死判定には意味を持たず、頭皮上脳波測定と同じセレモニーとなることを示すものです。
イヌの視床が機能停止する血流量が把握できたとしても、種によって閾値が異なるためヒトの脳では違う値になる。しかも壊死しはじめる(機能的不可逆)血流量は、機能停止する血流量よりもさらに低い。つまり脳血流量を高精度に測定できたとしても、その意味することを判断できないのが現実です。
多くの報告で脳虚血閾値が16〜20ml/100g/minとされているにもかかわらず、重傷頭部外傷患者で18ml/100g/minで介助無しで食事可能、著しい高次脳機能障害を認めるものの簡単な会話の可能な患者がいます。杉本 壽:中枢神経損傷後の機能回復機構の解明、治療法の開発、平成12年度総括研究報告書(PDFファイル)、2001、手書きでは11ページ、PDFファイルのページ番号では13ページ。
理論上は脳血流が停止すれば脳死は避けられませんが、実際の脳血流測定技術は「脳血流がまったく途絶えている」のか「少しは血流が残っている」のかを区別できません。「少しはある血流が、それは脳組織100g当たり毎分何mlの流量であり、それが脳組織にとって壊死を避けられない流量なのか、それとも機能停止をもたらしているだけで可逆的なのか」はわかりません。
従って、脳血流停止を測定することにより、脳死を人の死とすること、臓器摘出(それを前提とするドナー管理)を正当化するほどには、科学的に解明されていないのが現状ではないでしょうか。
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