症例数
(通し番号として)
施設名
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出典および概要
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383-385 兵庫県立姫路循環器病センター
脳神経外科 |
高アンモニア血症治療で13例中3例が回復、3ヶ月、9ヶ月、1年後に
*川口 哲郎:術後遷延性意識障害例における高アンモニア血症の関与について、日本脳神経外科学会48回総会抄録集、374、1989
脳神経術後患者40例、うち遷延性意識障害例21例中13例に高アンモニア血症が認められた。植物状態患者のうち3例は、高アンモニア血症の治療後それぞれ3ヶ月、9ヶ月、1年間続いた植物状態から脱却した。 術後遷延性意識障害例の中には高アンモニア血症によるものも含まれている可能性があり、肝機能障害の有無にかかわらず血中アンモニア濃度は必ず測定すべきである。さらに従来からバルプロ酸が高アンモニア血症と深い関連性があるといわれているが、他にアミノ酸製剤の関与の可能性も考えられた。
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386-387 恵み野病院
脳神経外科
恵庭市
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*貝島 光信:塩酸Trihexyphenidylが有効であった外傷後遷延性意識障害の2例、脳神経外科、17(5)、467−471、1989
*貝島 光信:抗パーキンソン病剤が有効であった外傷後無動性無言状態の2例、臨床神経学、28(11)、1320、1988
- 雪道で転倒した71歳男性は外傷後の正常圧水頭症との判断のもとにV-P
shunt
が行われたが、症状の改善は認められず、受傷5ヵ月目に当科に転院した。初診時、無表情、無言状態、自発運動は極めて乏しくカタトニー、意志の発現なく尿便失禁状態。栄養は経管栄養。抗コリン剤、塩酸Trihexyphenidyl(THP)の投与数日で自発運動が増加し行動が早くなった。発声も認められ、経口的に食事が可能となった。気に入らないと家族を殴るようになった。1ヵ月目には杖歩行可能となり、2ヵ月目には失禁消失し、独歩退院した。
- 車にはねられた46歳男性は、び慢性脳損状態。保存的治療により無動性無言状態。受傷4ヶ月目よりTHPの投与を開始したところ、数日後に表情が出現し、四肢の運動も活発となり、1週間目に「おはよう」と口を動かした。THP投与後4ヵ月を経た現在、ベッド上臥床状態で、日常生活に全面介助を要するが、経口的に食事を全量摂取し、家族を識別し、笑顔を作り、興味あるものを追視する。
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388-390 国保水原郷病院
脳神経外科 |
*今野 公和:意識障害患者に対する電気覚醒器の応用(第1報)遷延性昏睡患者にたいして、脳波と筋電図、17(2)、191−192、1989
3ヵ月以上植物状態として固定した遷延性昏睡患者10名に、電気覚醒器21回施行し、有効3名、無効7名であった。
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391新潟市民病院
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*渡辺 葉子:閉じ込め症候群患者のコミュニケーションの援助 文字板、人形などを利用して、看護技術、36(3)、330−334、1990
脳幹梗塞の55歳男性は1988年2月9日入院。
5月31日、担当の看護師が受け持った時は、眼は垂直運動とわずかな水平運動と瞬き
、頸は前屈とわずかな左右への回旋、右手は手関節の掌屈と肘関節30度の屈曲、感情の表出は、うなり声をあげ、頸を左右に回旋し泣く、以上の4つが可能であり、喜びや怒りは表現することはなかった。
5月31日〜6月上旬 瞬き1回で「はい」、2回で「いいえ」の意思表示を、約10日間で正しく返答し、正しく読み取ることができるようになった。
6月上旬〜7月下旬 看護師が「年齢は?」というと、人形を5回握って少し休み、再び5回握って音を出すことによって55歳であることを正確に伝えた。好きな「吉永小百合」の話をすると、人形を上下に動かし、何度も鳴らして喜びを充分に表している様子がうかがわれた。逆に怒った時は妻や看護師に人形を投げぶつけたりするようになった。文字板、51音表も利用できるようになったが、上体を挙上すると血圧の下降が現れ、右上肢の疲れも軽減できない。
7月下旬〜9月上旬 血圧測定後、ベッド挙上40度から始め、約1ヵ月で85度まで挙上しても血圧の下降はなく文字板の練習ができるようになった。ベッドで挙上して文字板を示すと、目線が看護師と同じ高さになり、文字板と表情を照らし合わせながら行え、以前よりも早く患者の訴えが理解できるようになった。しかし、部屋に誰もいないと、うなり声をあげて泣いていることが何度もあった。妻や看護師が傍らにいないと訴えを知らせることができないでいた。
〜9月8日 ナースコールを第1指で押すことはできたが、力が弱く鳴らすまではできなかった。2週間後、まだナースコールを押せるはずのないのにナースコールがあった。文字板を示すと腰痛を訴えていることがわかった。どうやってナースコールのボタンを押したのかわからなかったが、尋ねるとボタンを下向きにして握り、必死にボタンをベッドに押し付けて鳴らしているところを見せてくれた。
意識清明でありながら、他人に自分の意思を表現できなかった患者に、「閉じ込め症候群」でありながら豊かな表現力を身につけることができた。このことは、患者の残存機能が十分に把握されていたことと、患者の訴えたいという要求があったことによるものと考える。さらに夫に熱心に練習を勧める妻の努力も忘れてはならない。 常に患者は訴えたいことを全身で表現している。私たちは、それを見失わないように観察し積極的に受け入れ、見落してはならないという姿勢が重要である。
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392榊原温泉病院
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3ヵ月で食事動作は1/3自立摂取できるまでに到達、タバコを吸う動作はスムーズ
*中村 幸子:交通外傷による遷延性意識障害患者の看護 意識障害改善への外的刺激を試みた1例、看護実践の科学、13(11)、89−95、1988
1986年5月、事故による頭部外傷、開頭脳内異物除去ほか、内外減圧術、7月22日気管カニューレ抜去、経口摂取可能となる。10月27日リハビリテーション目的で当院入院となった49歳男性。入院時は無表情で自発開眼あるものの、無言語状態で四肢の運動は不随意運動だけであった。 刺激を与えることにより意識レベルの向上をめざし、日常生活動作(ADL)の拡大に努めた結果、3ヵ月後には、
- 起居移動動作は、ベッドサイドにて5分間自立坐位可能になった。
- 排泄動作は、時間を決めて排便を促すと、怒責を加えたりする表情あり。排泄の合図を出すまでには至らなかった。
- 更衣動作は、指示すればある程度行える。
- 整容動作は、髭剃り器をもち、あご髭を剃る。剃り跡を手で触り剃り加減を確かめる動作あり。鼻水が出ると不快感あり、ティッシュにで自ら鼻水をふき取る。
- 日常言語行動反応は、他人の「おはよう」にうなずく、じゃんけんポイのテンポに合わせてグーのみだせる。
- 食事動作は1/3自立摂取できるまでに到達した。刺激物を摂取すると「からい」と涙を出して訴える。介助者をにらみつけるが、再摂取を拒否するまでには至らず。
などの改善がみられた。
会社仲間の面会時、喫煙をすすめたところ、タバコを口にくわえ2回鼻から煙を出した。その動作過程は第三者からみれば、ぎこちなさを感じさせないものだった。
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393-394 埼玉医科大学総合医療センター
脳神経外科 |
*松居 徹:遷延性昏睡患者に対する電気的脊髄刺激の効果、日本脳神経外科学会47回総会抄録集、496、1988
- 32歳男性は交通事故後、昏睡状態で3ヵ月経過したため電気的脊髄刺激を開始、刺激2週間で脳血流の著明な改善、脳波の正常像とともに反応が良くなり3−4週後に発語を認め意思の疎通が可能となった。四肢の
spasticity の改善も認められた。
- 6歳男児は受傷4ヵ月後に電気的脊髄刺激を開始。経過中、脳波、脳幹誘発電位の改善を認め、5ヵ月にて意思疎通はもとより介助歩行可能となった。
当サイト注:この論文は、他の6例には電気的脊髄刺激は無効だったが諸検査で改善傾向を示すもののあることを報告している。
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395柏葉脳神経外科病院
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*川口 進:植物状態脱却例、日本脳神経外科学会47回総会抄録集、527、1988
15歳女性は1983年11月自転車に乗り車にはねられた。毎日、四肢マッサージ、徒手矯正を行ったが刺激に全く反応
はみられず1年後も同様な状態。1年半を過ぎても臨床症状はかわらず、85年7月より刺激で泣顔となり呼名に応ずるようになり、87年11月介助で自立、構音障害あるも日常会話可能、88年4
月短いところは痙性兼失行歩行ながら自力歩行可能、眼位異常、眼球運動障害、構音障害あるも院内ではADLどうにか自立するまで改善した。 この予後良好を示唆する指標としてはCT、聴性脳幹反応、脳波、いずれの所見も異常性が少ないこと、年齢が若いことが考えられた。 当サイト注:この論文は、他の6例には電気的脊髄刺激は無効だったが諸検査で改善傾向を示すもののあることを報告している。
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396静岡県立総合病院
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100日間以上、植物状態だったが、神経学的欠損なく独歩退院、元職に復帰
*水谷 彰仁:頭部外傷後の遷延性意識障害から社会復帰した1例 頻回手術、心停止を含む126日間のICU管理、ICUとCCU、11(12)、1147−1153、1987
交通事故による頭部外傷の26歳男性。第45病日、頭蓋形成術の全身麻酔導入時に心室細動。手術は第56病日に改めて施行したが、急性硬膜外血腫を生じてさらに血腫除去術を行った。第58病日から第165病日までの100日間以上、意識レベルU−2の植物状態であったが、第170病日頃には意識レベル0となり、機能訓練を行い、第306病日には神経学的に欠損なく独歩退院し、翌月からは元職に復帰した。
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397大阪警察病院
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入院後10週目に、口の動きで“オイシイ”と答えた
*辻村 琴恵:遷延性意識障害患者の看護 意識レベル向上をめざして、日本看護学会18回集録成人看護(福井)、34−36、1987
視床出血の50歳女性、1986年4月発症、6月再出血し意識不明になる。9月、当院転院。転院時の状態は、開眼しているが、眼球運動はほとんどなく、瞳孔やや散大傾向あり対光反射なし、呼名や痛覚刺激に対して反応はなく、体動なし。 入院約3週目より、神経内科医と相談し統一した刺激を毎日与えることとし、開始した2〜3週目頃から追視の際に眼をキョロキョロするという変化が現れた。 約7週目〜約9週目、嗅覚テストで「嫌な顔をして下さい」と言うと、そのとおりするようになった。この頃、時々、首を動かすような動作や握手をするような動作がみられるようになった。 約5週目〜14週目、積極的に体動を促し、座位の保持ができるようになってから車イスに乗せてみた。開始後3週目には1時間以上でも可能となり、このような環境刺激を与えた結果、時々、笑顔をみせるようになり、開閉眼、開口など促したとおり反応するようになった。また、軽い握手や首を動かす動作もよくみられるようになった。 入院後10週目、嚥下障害がみられないため、シチューを与えてみたところ、上手に口に含み嚥下した。3口摂取し、おいしいかと聞くと、口の動きで“オイシイ”と答えたので、側にいた家族は泣き出してしまった。
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398 日本医科大学附属病院
脳神経外科 |
*佐々木 光由:傍locked-in syndromeを呈した1例、日本医科大学雑誌、54(6)、766、1987
50歳男性、1979年10月脳梗塞にて左片麻痺となったが、2ヶ月間リハビリをし回復していた。 1984年8月18日、気絶しCTにて橋出血を指摘されlocked-in
syndromeを呈した。入院1ヵ月後より意識清明だが四肢麻痺あり、1985年4月頃より右片麻痺回復し、同時に右半身の異常発作出現。1986年10月頃より多少の発語がみられるようになった。
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399富山市立富山市民病院
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*浜岸 敏子:交通外傷による遷延性意識障害患者への積極的看護 無言にして通じる「生への意欲」に応える、ナースステーション、17(2)、152−155、1987
*浜岸 敏子:交通外傷による遷延性意識障害患者の看護、日本看護学会17回集録成人看護(宮崎)、11−13、1986
1月3日、交通事故による脳幹挫傷、開放性頭蓋骨骨折、外傷性脳内血腫、右肘関節開放性脱臼骨折、左第2中手骨脱臼骨折の19歳男性は、医師から「植物状態である」と医療の限界を告げられた。開眼はしているが、視線の動きはなく、表情の変化は見られなかった。 7月、発症から半年たったある日のこと、病室を訪ねると目をキョロキョロさせている。「まさか」と思ったが、「目を閉じてごらん」と声をかけると、反応して閉眼した。このことをきっかけに、あきらめかけていた家族も、一所懸命話しかけた。私たちは家族の献身的な姿に心を動かされた。そして、より効果的な刺激を与えれば、多少でも意識の回復が図れるのではないか、との考えに基づき、家族とともにいろいろな働きかけを開始した(当サイト注:この時点まで、看護は積極的ではなかったことになる)。 8月、本人が聞いていたミュージックテープの音が流れ出した瞬間、目をキョロキョロさせ、音のするほうへ顔を向けたり目を大きく見開いたりした。テンポの速い曲を聞かせると反応がよく、首を動かし表情にも変化がみられた。毎日の話しかけを続けた結果、首を縦に振ってうなずいたり、横に振って「嫌だ」「違う」の意思表示をするようになった。母親と父親の区別もつくようになった。 12月、車椅子での散歩を開始、 翌年1月、昼開眼し、夜閉眼している時間が多くなり生活にリズムが出てきた。 本ケースを通して学びえたのは、このように多くの問題をかかえ、医師から「意識の回復は望めないであろう」と宣告された患者であっても、決してあきらめず、わずかな身振り、表情をとらえ、試行錯誤をくり返しながらはたらきかけを行うことによって希望を育てていけるということである。
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400 神戸大学
精神神経科 |
*中井 久夫:意識障害患者に対するサルベージ作業、精神科治療学、1(1)、153−157、1986
この作業の対象は、内科、脳外科、整形外科などが放棄あるいは対症療法に留めて、いたずらに時間の推移を待っているような患者である。家族、医療者と面談し、関係を作り、このケースに即しての大きなリスク因子を聴取する。
瞳孔反射がない場合、患者と家族に瞳孔への刺激について話しかけた後に、光の焦点がシャープで軽量な懐中電灯を使用して10分間、瞳孔反射が出るまで、約0.5秒照射して2〜5秒休むことをくり返す。10分反応がなければ50分休み、再び10分くり返す。最初の動向反射は、施行者が「あれっ、錯覚かな」という形で来る。瞳孔反射の不応期は長いが、次第に短縮する。患者の手を握りながら、まばたき応答を休み休みでよいから、しつこめに患者に語りかける。最初の「まばたき応答」は不確かである。1回だったりするので偶然ではないかと思う。意外に多くの意識障害患者が、一時的に「封じ込め症候群」の時期を通過する。あまり調子に乗って患者を疲労させないこと。
意識回復作業の最初から、患者の耳元での語りかけ作業を、患者のもっとも親しみをもっていた人にお願いする。この囁きを意識が回復するまで続ける。連呼でもよい。
最初から、足の裏をくすぐる。第一法、麻痺側の足底をくすぐる。最初の反応は非麻痺側の脚に現れ、おおむね屈曲する。最初は錯覚かと思われる微かな屈曲であるが、やがてはっきりする。ある時期がたつと麻痺側の脚が屈曲する。第二法、非麻痺側の足底をくすぐる。
意識回復後の痙攣、消化器潰瘍、感染症の対策をしておく。
私が治療を求められた、自殺目的の都市ガス吸入例、手術中、心停止後植物症はいずれも1ヵ月後、クモ膜下出血による手術後後遺症は8ヵ月後であって、いずれも徐々に効果を示した。瞳孔が縮小している例では、まず成功のほうに掛けて断然行なうべきである。瞳孔散大例では、散大した瞳孔が縮小するまで、いのちあるかぎりやろうという気構えがあってよい場合が少なくなかろう。
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401香川労災病院
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高圧酸素療法の適応症例を検討
*河内 正光:[中枢神経疾患に対する高圧酸素療法]
遷延性意識障害患者に対する高圧酸素療法、日本高気圧環境医学会雑誌、20(4)、215−221、1985
工事中、鉄パイプにより頭を打撲した45歳男性、硬膜外血腫除去術をうけた。受傷2ヵ月目よりGCS6と固定。
受傷8ヵ月目より高圧酸素療法(OHP療法)を行い、3日目頃より開閉眼、開口命令に従い、左握手がわずかに認められた。5回終了時には自分の意志を開閉眼で行い、うなずきもみられた。15回終了時には経口摂取可能となり“アー”“ウン”“ハイ”などの発語が可能となった。この頃より喜怒哀楽の表情も豊かになり、GCSは12点となったが、OHP療法20回以後、意識レベルの改善は認められなかった。 OHP療法に反応する患者は、GCSが6点以上で、刺激に対する開眼、四肢運動があり、かつ追視機能が残存し、CT上の所見としては大脳皮質、白質の低吸収域は限局しており、脳幹部の低吸収域は認められない症例であった。
当サイト注:この論文は、上記のほかに受傷より3ヵ月、6ヵ月、7ヶ月の患者に対しても高圧酸素療法が有効だったことを報告しているが、意識状態の固定期間が不明のため掲載を見送った。
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402伊豆逓信病院
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*小野順一:塩酸アマンタジンとリハビリテーション治療が著効を呈した無動性無言の1例、逓信医学、37(9)、498、1985
56歳男性はクモ膜下出血と脳室内出血をきたし前交通動脈瘤と診断。無動性無言状態が持続し、時々痙攣発作があった。 発症後1年2ヵ月で当院へ入院。リハビリテーション治療を行い指示により多少の運動反応が出現するようになった。発症後2年を経た時点で塩酸アマンタジン100mgの使用を開始したところ、リハビリテーション治療に対する反応が著明によくなり、無言は不変であったが、無動状態は著明に改善された。
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403 国立循環器病センター研究所
脳神経外科 |
Bromocriptine投与により、6ヵ月間の無動・無言から回復
*吉沢 卓:脳神経外科領域における遷延性意識障害に対するBromocriptineの効果、診療と新薬、21(2)、305−315、1984
小脳橋角部腫瘍再発の44歳女性は、再手術後、偶発的に硬膜下血腫をきたし、以後、開眼あるのみ、他にまったく反応を示さなかった。意識精神状態は無動無言。症状固定期間は6ヵ月。 Bromocriptineを投与後、口の開閉、手の握離、開閉眼の指示に応じ、うめき声を出し、アイウエオの発声訓練にも応じた。母親の声にはことに敏感に反応を示し、「帰るよ」といわれると涙を流して泣くようになっていた。 嘔吐が1日3回みられたことにより中止したところ、1週間後には投与前の状態に帰して、以後寝たきりである。
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404東京都立養育院病院
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*内藤 寛:数ヵ月間続いたakinetic mutismより完全回復した両側視床梗塞の1例、臨床神経学、26(8)、817−820、1986
58歳男性、糖尿病と高血圧の既往症あり、全身の強直性痙攣にて1983年6月11日発症、6月17日より尿失禁と歩行時の下肢のふるえが出現し、この日以来、一言も発しない。 7月8日、開眼し覚醒した顔つきではあるが除皮質肢位をとったまま無言無動状態で、指示に対して全く反応がなかった。 7月15日より、CTにて両側視床中央部より内側部に淡い低吸収域が出現してきた。 7月末より、指示に従って目の動きが出現するようになる。 9月より徐々に自発語、自発運動が出現し、周囲への関心も出てきた。 10月より杖歩行の訓練が開始され、11月には尿、便失禁が改善消失してADLもほぼ自立。発語、表情とも次第に豊かとなり、rigidity(硬直)と感情失禁をわずかに残すも、1984年1月独歩で退院となった。
本症例がakinetic mutism(AM)に陥りながらも完全回復した機序であるが、CT上その病巣が両側視床中央部に位置しており、内側核群を直撃していないことがあげられる。そのため発症直後には浮腫等により内側核群にも影響が及び、機能障害を生じてAMを呈したものの、正中中心核、背内側核は温存されていたために、最終的にはAMから回復しえたものと推定された。 患者がAMより完全回復した時点で、AMであった期間の記憶や認識について質問したところ、発症後のある期間の記憶はまったく失われていたが、途中から感覚がはっきりしてきて周囲の状況も理解できたが、自分の意思を言語や手足の動きによって表出できなかったと述べた。 つまり、この患者ではAMから回復する過程で、Locked-in症候群のdeefferent
stateに似た状態があったものと推定され、AMとLocked-in症候群という2つの相異なる病態の間に、一定の共通部分が存在する可能性を示唆しているように思われる。
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405国立療養所明星病院
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*加藤 靖雄:“Locked-in”状態に至った脳血管障害患者のリハビリテーションについて その一考察、医療、37(増刊1)、84、1983
57歳男性は脳底静脈血栓を1982年6月発症。昏睡、四肢麻痺。1週間後より反応を認めるが、右側方注視と他の運動系脳神経の完全麻痺を認めた。 当院に転院した4ヵ月目よりリハビリテーションを実施、まもなく眼球運動は全く正常となり、顔面神経も中等度麻痺まで改善、発声も可能となり、嚥下障害も顕著な改善を認め、四肢の筋トーヌスは若干の痙性を認めるようになった。約6ヵ月間に構音も母音・唇音については聞き取れるまで改善した。肺活量は不十分ながら500cc以上。 脳血管障害のうち、予後の極めて悪い“Locked-in”状態は救命にのみ主眼がおかれ、リハビリテーションも遅れがちとなる。しかし、本例のように重篤な合併症をみることなく良好な経過をたどる例が存在することから、我々は“Locked-in”状態における早期のリハビリテーションの重要性を指摘したい。同時に予後因子の1つに、呼吸筋の筋力維持が示唆された。
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406-415新潟大学脳研究所 ほか計10施設共同研究
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視床下部ホルモン投与により、17中10例が改善
*土田 正:合成TRH酒石酸塩製剤(ヒルトニン(R))の遷延性意識障害に対する効果 筋肉内注射による成績、新薬と臨床、31(10)、1687−1694、1982
頭部外傷およびクモ膜下出血にともなう意識障害の持続期間が3ヵ月〜370日の患者17例に合成TRH酒石酸塩製剤を投与したところ、3例が著明改善、2例が改善、5例が軽度改善し、7例は不変であった。
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416滋賀医科大学
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*太田 茂(小児科学教室):8カ月にわたる遷延性植物状態から脱却した男児例 L-DOPAおよびホパンテン酸カルシウムの投与について、小児科臨床、35(7)、1535−1539、1982
8歳1カ月男児は1979年10月31日、小型ダンプカーに跳ねられ頭部および全身を打撲、意識不明で救急病院に搬送。神経学的所見から硬膜下出血の存在が疑われていたが、全身状態は極めて不良、脳幹部損傷も推定されたため脳外科的処置は施行されず、対症療法で経過観察された。その後、昏睡状態ではあったが、呼吸・循環状態が安定したため1979年11月20日他院へ転医。約1ヵ月間、同病院に入院していたが意識状態の改善がみられないのみならず、数回の全身性強直性間代性痙攣もみられたため脳神経外科専門病院へ転医。同病院において同年12月9日(受傷後40日目)に施行された頭部CT-scanでは右前頭蓋窩を中心として硬膜下血腫が存在し、軽度の脳室拡大がみられた。同病院で意識状態の改善のためL-DOPA
400mg、ホパンテン酸力ルシウム3.0g、ATP60mg および痙攣に対してPHT150mg, methylphenobarbital
300mg、塩酸ピリチオキシン600mgの投与が開始された。これらの薬剤投与開始後、徐々に強い痒痛刺激などに対して若干の体動をもって反応するようになってきた。しかし、外界とのコミュニケーション、意志の発動あるいは感情の表出はみられず、屎尿失禁は持続し完全臥床のままの状態。
1980年6月頃には、呼吸器感染から呼吸障害が出現し気管切開、受傷直後と同じくレスピレーターが使用された。経過中、数回の心停止にみまわれたが、いずれも蘇生に成功した。数週間でこの状態も改善し、受傷より約8力月を経過した1980年7月頃より徐々に追視をするようになってきた。同年8月頃より介助すれば坐位可能、同年9月頃から「アイウエオ」がいえるようになった。同年10月頃より、以前小学校で習った唱歌が数節唱えるようになったが、まだ質問に適切な答えをすることはできなかった。ADLの改善および後遺症としてみられた両側性尖足を改善するため1981年11月滋賀県立小児整形外科センターへ紹介入院した。
当センター入院後の経過:Vojta法等による坐位→這い→立位→歩行と段階をおった運動機能回復のためのリハビリテーションを開始。意識レベルの上昇をはかるため言語訓練を行うとともに、中枢神経系の賦括をはかる目的で、L-DOPA、ホパンテン酸力ルシウムの投与を継続した。この結果、1981年12月には糞尿失禁が完全に消失し、1981年2月には床上の坐位が独カで可能となった。同年3月には不安定ながら独力でつかまり立ち及び短時間の一人立ちが可能となるまでに改善した。しかし、右アキレス腱の可動性のみはリハビリテーションによっても改善せず歩行が困難であるため,同年4月右アキレス腱延長術を施行。その後、立位の姿勢も安定し、同年5月には短距離の歩行が可能となった。1981年7月の時点では3語文も可能で、自らすすんで話をするようになった。また、一般食を独力で摂取し、100m以上の独歩も可能となるまでに改善した。当センター入院中に行った頭部CT-scanでは硬膜下血腫はすでに消失し、脳萎縮所見が存在するのみに改善していた。
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