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うちむら かんぞう

内村鑑三

うちむら かんぞう

1861(文久1)〜 1930(昭和5)

明治・大正期のキリスト教
の代表的指導者

埋葬場所: 8区 1種 16側 29番

 新渡戸稲造(7-1-5-11)らと共に札幌農学校に学びクリスチャンとなる。米国留学後、伝道生活に入り「余は如何にして基督信徒になりし乎」などを著わす。 また足尾銅山事件で財閥を攻撃し、日露戦争には反戦論を唱えた。 特定の教派・神学を持たず、聖書のみもとづく信仰「無教会主義」を唱え、学問的聖書研究と武士道的エーストと深い人格的結合によって、強烈な福音主義的思想を形成し影響を与えた。

<コンサイス日本人名事典>


墓所

*内村鑑三と新渡戸稲造に影響を受けた多磨霊園に眠る人物&門下生

有島武郎10区1種3側10番小説家
石川三四郎25区1種85側社会運動家・無政府主義者
石河光哉6区1種15側画家
小山内薫5区1種1側37番劇作家
大賀一郎20区1種33側15番植物学者・ハス
諏訪 望14区1種4側精神科医学者
留岡幸助13区1種18側社会改良家
南原 繁3区2種11側2番政治学者・東大総長
西川光二郎18区1種19側社会主義者
藤井 武14区1種7側43番伝道者
正宗白鳥24区1種8側作家
矢内原忠雄2区2種1側19番経済学者・東大総長




内村静子 (うちむら しずこ)
1872(明治5)〜 1945.2.8(昭和20)
内村鑑三の後妻
 旧姓岡田。鑑三は農商務省時代の1884(M17)浅田タケと結婚したが約半年で離婚。 渡米して帰国後第一高等中学校などで教鞭をとり、横浜加寿子と再婚した。 しかし1891第一高等中学校在任中に不敬事件を起し退職、加寿子は貧乏と夫の看病に疲れ死没した。 その翌年、築山もとなる女性と三度目(?)の結婚をしたらしいが、これについては正確な事実は伝わっていない。 1892(M25)静子(シズ)と結婚。1894長女ルツ子(同墓)、1897長男祐之(同墓)を出産。 1912ルツ子は満17歳の若さで病死した。ルツ子の死は鑑三の思想にもかなりの影響を与えた。 この深刻な出来事は来世の確信に導き、やがて起こった第一次大戦により、1918(T7)から、 キリストの再臨を待望する再臨運動を展開のきっかけを生んだ。 鑑三の生涯で最も充実した時期を支えたのが静子である。

<女性人名事典など>


*内村鑑三の墓石には「静子とともに眠る」と刻み、墓誌にも静子と刻む。人名事典ではシズとなっていたが、静子で統一した。

*内村家の墓所には日本で最初の洋型墓石と言われる墓石が三基建つ。 右から内村家、真ん中が精神医学者・プロ野球コミッショナーなどを務めた内村祐之、左が鑑三と静子である。 墓石には「I for Japan, Japan for the World,The World for Christ, And All for Gad.」と刻む。 なお、その左隣りにはルツ子の墓誌碑と墓誌が建つ。


【内村鑑三不敬事件】
 第一高等中学校で、教育勅語の奉読式が行われたが、天皇の署名のある勅語に教員及び生徒が最敬礼をする際、 嘱託教員でキリスト教徒の内村鑑三は軽く頭を下げてすませ、「礼拝は天皇を神に祭り上げるもの」として礼拝を拒んだ。 各界から「非国民」として避難が起きた事件。


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