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ふじい たけし

藤井 武

ふじい たけし

1888.1.15(明治21)〜 1930.7.14(昭和5)

明治・大正期の聖書学者、キリスト教伝道者

埋葬場所: 14区 1種 7側 43番

 石川県金沢市出身。陸軍軍人(少尉)の浅村安直・タマキの次男として生まれる。小学生では模範生として特別表彰され、中学三年生からは特待生に選ばれるなど優秀であり、父から将来を期待されていたが、父が胃潰瘍のため生命の危機に陥いっていた時に、父の友人の藤井鉄太郎が見舞いに訪れ、息子を学業に専念させるために養子を懇願され、自身の病状が重いと判断した父は申し入れを受け入れ、翌日より武は藤井家の入籍手続がとられた。しかし、父の病気が奇跡的に回復したため、実の両親は養子に出したことを悔いたという。
 中学を首席で終え、実父が東京麻布の歩兵第3連隊に転勤したため、武は郷里の第4高等学校ではなく、第1高等学校に入学。次席で一高を卒業し、1907(M40)東京帝国大学法科大学政治学科に入学した。この時期は、養父が高校一年生の時に亡くなっており、人生観が異なった義母と息苦しい家庭生活を強いられていた。家を出るために、暗い生活の中でも新風を吹き込んでくれていた西永喬子(のぶこ)と婚約。喬子の生家は金沢の郷里の養家の向かいであり、この婚約は親同士が決めたものであったが、天真爛漫な少女との婚約により武は希望に満ちたものに一変した。'08結婚(武は21歳、喬子は15歳)。
 在学中、内村鑑三(8-1-16-29)の門に入り、20名ぐらいで柏会をつくった。卒業後、内務省官吏となり京都府の官職となる。'13山形県警察部の警視となり、'14山形県理事官を務めた。'15(T4)上京し内村の助手となる決意をし官職を辞す。この際、安定した生活を捨て神に身を捧げようとすることは、自分の理想によって家族を顧みず、親を捨てるような行為に踏み出すことに躊躇があり、実父母、義母、義理の父母に宛てて三通の長い手紙を書き、キリスト教の著述伝道のために官職を辞す許しを請うている。同.12.25妻と二人の幼児を連れて山形をたち、翌日東京に着き、内村の補佐者として日曜講演を執記し、「聖書之研究」誌の編集を手伝い、毎月同誌へ寄稿を始めた。
 '16三月号に寄稿した「ロマ書研究」の第二回「単純なる福音」は贖罪論(しょくざいろん)に関する批判であった。「ロマ書」は贖罪をめぐる神学論ではなく、神の愛を告げる単純な福音であるとする聖書解釈は、内村の信仰に抵触した。寄稿を差し止められ、処女作となるはずの『新生』の出版も取り消された。収入の途を絶たれたため、中央大学の経済学講師となる。同年、取り消された処女作『新生』を独力で出版し、更に、同年末に『ルーテルの生涯および事業』の翻訳を刊行した。'17.2「聖書之研究」誌への寄稿を許される。しかし、'20内村と再びぶつかり断絶。雑誌「旧約と新約」を創刊し無教会主義の独立伝道生活に入る。孤高な預言者的態度は師の内村と並ぶものであったとされる。
 '21.1金沢の養家が所有していた宅地の一部を処分し、東京府下駒沢村に新しい家を建て、隣接して実父母も住まわせた。同.4.21突然、妻の喬子が病の床についた。病はどんどん悪化し、'22.10.1に回復せず逝去。29歳であった。同.10.3葬儀を九段坂下メソジスト教会堂で営む。『夕に我妻死ねり』には、妻を失った悲しみが切々と記されている。また亡き妻との絆をうたいあげた長詩『羔(こひつじ)の婚姻』は自身が亡くなるまで書き続けられ、後に全集におさめられた。'29『聖書より見たる日本』を刊行。他にミルトン『失楽園』の翻訳などがある。神学研究の必要を感じて教義史研究を行った。その文才と情熱が多くの人をひきつけた。
 '30.3.1(S5)実父の浅村安直が亡くなる。実父はキリスト教信仰を告白することはなかったが、「武の宗教によって葬式をしてくれ」という遺言を残しており、更に「保険金を遺贈す。」とも藤井武宛に記されていた。この遺言の日付は亡くなる二十年前であった。父の感謝に愛を受け、告別式を指揮した。贈与を好まなかったが、この頃負っていた債務をこの贈与で完全に償却することができた。すぐに新たな悲報が届いた。同.3.28恩師の内村鑑三の死去である。武自身も発病を繰り返した胃潰瘍が悪化していたが、恩師の告別式を指揮した。疲れと体調不良であったが、参列者に力強く、恩師にならって「すべて真理の敵に対しここに戦を宣言する」と雄々しく語った。その後、自身の体調は一時快方に向かったが、同年7月14日正午頃より突然気分が悪くなり、午後3時45分、天に召された。42歳。
 比類なく純真で厳格なキリスト者として、多大な影響を与えた人物であったが、没後、自宅集会と雑誌「旧約と新約」を受け継ぐ人はなく、家には一銭の蓄えもなかった。告別式で人々が捧げたお花料も雑誌の前金を払い戻す費用にあてられたため、遺児の生活費さえ残されていなかった。子どもたちの養育費を工面するために、義理の兄弟であり、信仰の兄弟であった矢内原忠雄(2-2-1-19)や友人の塚本虎二(8-1-6)たちは、急いで『藤井武全集』全10巻を刊行した。矢内原は『藤井武君の面影』(1932)も著している。
 矢内原は藤井武のことを「彼はキリスト教史上における内村先生の地位を論じて、パウロールーテル―内村となした。それは確かに卓見である。もしこれに類したる系列を彼について求むれば、エレミヤ―ヨハネ―藤井といえよう。そして彼はおそれをもって、言いがたき愛をもって、ここに告白する、彼はいイエスに似たる人格であったと。」と述べている。また、'37藤井武第七周年記念講演会で矢内原は「現代のように財力、業績、地位等をもってのみ人生を評価するとすれば、藤井武は人生の敗北者であろう。しかし、評価の視点を変えるならば、武が旧約聖書の預言者エレミアを「敗北の勝利者」と呼んだような人生を、彼自身もまた生きた。」と講演した。

<コンサイス日本人名事典>
<日本キリスト教歴史大事典>
<『思想のレクイエム』第9曲「妻の遺骨と共に―敗北の勝利者・藤井武」>


*墓石正面は「藤井武 墓 / 喬子 墓」と刻む。裏面は墓誌となっており、武、喬子、洋が刻む。


*1922.10.1(T11)伝道の良き同労者であった妻の喬子が29歳の若さで没した。遺骨は葬らず、終生書斎の机上に置いたという。生来純粋な詩人的性格をそなえていたが、妻の死を契機に永遠の実在の世界に思いを向けるようになり、神の独子と教会の聖なる結婚を主題とした長詩「羔の婚姻」の執筆を開始し〈旧約と新約〉に連載したが、その死(1930.7.14)により未完に終わった。墓石には藤井武と妻の喬子の名前が並んで正面に刻んでいる。

<キリスト教人名辞典>


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