東京出身。海軍少将・造兵総監の大館源太郎の娘として生まれる。1911(M44)新潟県の実業家の久須美秀三郎の長男の久須美東馬と、出羽庄内藩第12代藩主の酒井忠宝の娘の鉐子 夫妻の養女になる。夫妻は子宝に恵まれなかったため、美代と本間賢介の二男で実業家となる久須美康馬を養子とした。久須美家は康馬が継承。旧姓は大館、久須美。
日本女子大学附属高女卒業後、大学部の英文科に進んだが、肋膜炎(胸膜炎)を患い休学し、後に卒業。'24(T13)内村鑑三(同墓)の長男の内村祐之(同墓)と結婚。
義父の内村鑑三の著作の原版の読みにくい字などや句読点などをうち、編著し直し刊行している作品を多く残している。『内村鑑三思想選書』(全6巻・編著 1950)、『内村鑑三 非戦論』(山本泰次郎共編 1953)、『代表的日本人』(1968)。また、英文で書かれた内村鑑三の代表作『余はいかにしてキリスト信徒となりしか』(山本泰次郎共訳 1955)の訳書なども手掛けた。
「月刊ベースボールマガジン」の翻訳も手掛け、次女の桂子(新木)が下訳したものを美代が読みやすい日本語に書き改め、最後に日米野球両方に精通していた内村祐之が目を通して誤りを改めるという「内村家の翻訳工場」の形式を使用していた。代表作に『ドジャースの戦法』『タイ・カップ自伝』などがある。『ドジャースの戦法』は日本球界、特に川上哲治率いるV9に繋がる栄光の巨人軍のバイブルとなるほど功績が大きい作品である。
晩年、夫の祐之没後(1980)に、'83特別表彰にて内村祐之が野球殿堂を受けた際に代理授与。'85(S60)『晩年の父 内村鑑三』を著した。内村鑑三の人生で最も平和が訪れた時期が静子との結婚後であり、その二人の新婚生活の一断面を次のように記している。
「もの静かな古都の暖い家庭に育った身で、関東武士の血をゆたかに受けた烈しい気性の夫に仕え、夫の父母弟妹にまで仕送りをする窮乏の生活をやりくりするのは、並たいていのことではなかったにちがいない。しかし母が持ち前の忍耐強さを発揮して、それをやりとげられたので、父の身の上にもようやく春風が吹いてきたのである。それゆえ父が母を徳とされたことは非常なもので、『しづは内村の家に福を持ってきた』と、晩年に至るまで繰返 し感謝しておられた。」
<日本キリスト教歴史大事典> <晩年の父 内村鑑三など>
*墓所正面に「内村鑑三之墓」右側に「内村祐之之墓」、墓所右手側に「内村家」が建つ。墓所左手側に「内村ルツ子の碑」、その右側に墓誌が建つ。墓誌には99歳歿と刻む。
*内村美代は「内村美代子」名義で著書を出版しているが、墓誌には「内村美代」と刻むのでここでは「美代」で統一する。
【ドジャース戦法】
「ドジャース戦法」とはメジャーリーグのロサンゼルス・ドジャースが貧打のチームであっても守備を活かし守りで勝つ野球を戦術とした手法である。犠打やヒットエンドランを用いて得点を取り、バント対策やエラーに備えて外野手がカバーに入るなどチームプレーで守る当時としては画期的なスモールベースボールである。ドジャースでは新人選手の育成などバイブルとして活用され、チームワークで勝利を目指す戦術は、他球団であるニューヨーク・メッツにも導入されて、'69ミラクルメッツと呼ばれ優勝に導いている。元ドジャース選手たちが他球団の監督として指揮を執る際にも活用されている。
日本では『ドジャース戦法』を巨人軍でコーチをしていた川上哲治が強い印象を受け、'61監督就任1年目の春にドジャースのベロビーチにて合同キャンプを実現させ、戦術をチームに取り入れた。本書を教科書としてブロックサイン、ヒットエンドラン、投手の一塁ベースカバー、バント阻止のために一塁手と三塁手が本塁にダッシュするバントシフトなどの戦術を日本で初めて導入した。ドジャースの守り中心の野球をチームに取り入れつつ、一人ひとりの攻撃力と投手力の強化をミックスさせ巨人流にアレンジした結果、V9に繋がっていくことになった。
|