東京出身。祖父は高崎藩士・儒学者の内村宜之(同墓)。父はキリスト教の代表的指導者の内村鑑三(同墓)。鑑三の4度目の妻である静子(同墓)との長男として生まれる。姉は17歳の若さで天昇したルツ子(同墓)。
獨逸学協会学校中等部、第一高等学校を経て東京帝国大学に入る。学生時代は野球部に所属し左投手として活躍。1918(T7)学習院、早稲田、慶應義塾を破り一高は全国優勝を飾った。一高と三高の試合はマスコミに派手に取り上げられ、スター選手へと駆け上がり不世出の名投手とまで呼ばれた。'21大学3年生の時、六大学野球でも活躍している最中、久須美美代(同墓)と婚約。仲人は父の鑑三の先輩の伊藤一隆。スター選手であったためマスコミにも取り上げられた。
'23東京帝国大学卒業。精神科医を志し東大医局に入局。一か月後に精神病学者で東京府立松沢病院院長の呉秀三(5-1-1-9)に懇願し松沢病院の医員になった。プロ野球(日本野球連盟)の前身の日本職業野球連盟が発足したのは1936(S11)であるため、当時は野球選手での職業はなくアマチュア野球全盛であり卒業と同時に選手引退が通例であった。そのため医員を務めながら学生野球の指導者となる。'24東京ステーション・ホテルにて美代と挙式をあげた。
'25文部省の海外研究員としてドイツのミュンヘンに留学。カイゼル・ウィルヘルム研究所でスピルマイヤーに師事。留学中に日本では美代が長女の正子(1926)を出産した。'27(S2)帰朝。同.9北海道に渡り、'28北海道帝国大学教授に就任。同.7.13次女の桂子が生まれる。'30父の鑑三の危篤の報にて一家で上京し対応をする。'36東京帝国大学医学部教授となり、松沢病院院長も兼任する(〜'49)。この間、財団法人神経研究所を設立、晴和病院を開設した。脳の研究のため父の鑑三の解剖を許可したことから、傑出者の脳の研究や双生児の研究などに取り組み多くの業績を残した。精神医療の研究や松沢病院院長の傍ら、'39〜'43まで東京帝国大学野球部部長を務め、'43六大学野球連盟理事長に就任し、戦時下の学生野球の対応に尽力した。
太平洋戦争中は軍部の要請でソロモン群島に派遣され、戦地の精神医療体制について従事。空襲の際に松沢病院が焼失したが、一人も患者に犠牲者を出さなかった。戦後、東京裁判でA級戦犯になった大川周明の精神鑑定を行い梅毒による精神障害と診断。結果、'47.4.9大川は精神障害と診断され裁判から除外された(その後、精神鑑定で異常なしとされたが、裁判には戻されず、松沢病院で入院。東京裁判終了後に退院。東京裁判で起訴された被告人に中で裁判終了時に存命で有罪にならなかった唯一の人物となる)。その他、帝銀事件の平沢貞通や婦女連続殺人事件の小平義雄などの精神鑑定を行った。
'49法律改正により東京大学教授と松沢病院院長の兼任ができなくなったため、松沢病院を退職。'58東京大学教授を停年退官し、名誉教授。国立精神衛生研究所所長に就任。また神経研究所の創立に参画。日本学士院会員。勲一等瑞宝章。日本精神神経学会長(後に名誉会員)、医道審議会長、日本精神衛生連盟会長、日本医学会総会会頭などを歴任。ドイツ精神神経学会名誉会員。
'51〜'62戦後の日本野球連盟(プロ野球)発足当初よりコミッショナーの顧問として相談役を務め、プロ野球の制度を整えることに尽力。この間、'55.4〜'57.4「月刊ベースボールマガジン」にて『ドジャースの戦法』を連載。ロサンゼルス・ドジャースの訓練係であったアル・キャンパニスが著したものを翻訳。次女の桂子(新木)が下訳したものを妻の美代が読みやすい日本語に書き改め、最後に日米野球両方に精通していた祐之が目を通して誤りを改めた。この形式を「内村家の翻訳工場」と称された。'57連載終了後に『ドジャースの戦法』を刊行。日本球界、特に川上哲治率いるV9に繋がる栄光の巨人軍のバイブルとなる。
その他の主な著書に『精神医学者の摘想』(1950)、『精神鑑定』(1952)、『天才と狂気』(1952)、『わが歩みし精神医学の道』(1968)、共著に『傑出人脳の研究』(長与又郎・西丸四方 1939)、『精神医学最近の進歩』(島崎敏樹、笠松章 1957)。エルンスト・クレッチマーの翻訳『天才人』(1932)、『天才の心理学』(1953)などがある。野球関連本も多くあり、『世界最強チームアメリカ野球物語』(1949)、『アメリカ野球物語』(1978)。妻の美代らとの翻訳として『高校生のためのウイニングベースボール』(1961)、『大リーグのバッティングの秘訣』(1962)、『個人プレーとティーム・プレー』(1964)、『野球王タイ・カップ自伝』(1971)、『大リーグ生活66年−コニー・マック自伝』(1978)、『ヤンキースのバット・ボーイ』(1978)、『スタン・ミュージアル伝 大リーグ最高のプレーヤー』(1978)、『ボブ・フェラーのピッチング』(1981)がある。
'62.5日本野球機構第3代コミッショナーに就任。日本人初のメジャーリーガーの村上正則が南海ホークス在籍時にサンフランシスコ・ジャイアンツへ野球留学をしメジャー出場を達成した。その際の保有権の問題に対して、1965シーズン終了を以って南海に復帰させるという妥協案を提示し解決させた。'65.4任期満了間際、プロ野球選手も社会人であるという視点からその地位向上に努めるため、新人選手の研修制度を行うことをオーナー陣に提案をした。当時はまだドラフト制度がない時代でありスカウト等による札束勧誘時代であったことから、オーナー陣から激しい抵抗にあい、自らコミッショナー職を辞した。オーナーとコミッショナーが対立し辞した例は後にも先にはこの件だけである。祐之は「どんな医者でも完治の見込みがなければ患者を見放すものだよ」と自分をコミッショナーに推薦しながら提案に反対をしたオーナー陣を痛烈に批判した(結果、同年秋からドラフト会議が開かれ、新人選手研修も行われるようになる)。この件以降、没するまで球場に足を運ぶことはなく、存命中に殿堂入りを打診されるも頑なに拒否をしたという。正5位 勲4等。享年82歳。没3年後、'83特別表彰にて野球殿堂を入りをした。その功績理由は新人選手研修制度の確立も含む。