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くれ しゅうぞう

呉 秀三

くれ しゅうぞう

1865.4.14(元治2.2.17)〜 1932.3.26(昭和7)

明治・大正・昭和期の精神病学者、日本精神医学の先駆者

埋葬場所: 5区 1種 1側 9番

 江戸青山(東京港区)出身。号は芳渓。母方祖父は津山藩の範医であり蘭学の大家 法学者の箕作阮甫、伯父に地理学者の箕作省吾、法律学者の箕作麟祥(箕作家:14-1-2-2)は従兄弟にあたる。父は蘭医学者の呉黄石、母せき の三男として生まれる。兄の呉文聡は統計学の第一人者。甥に内科医学者で6度もノーベル生理学・医学賞の候補者として名前が挙がりながらも受賞とならなかった呉建(呉家:21-1-25-1)がいる。秀三は分家。
 1890(M23)東京大学医科大学卒業。大学院に進むも翌年退学し助手になると同時に巣鴨病院の医員となる。この時期、日本初の本格的精神医学教科書『精神医学集要』を執筆した。また精神病院の重要性と病院設備の開設を主張した。1896 助教授となり、巣鴨病院医長も務め、オーストリアに留学。当時、早発性痴呆・躁鬱病体系を構築していたクレペリンに学ぶ。ニスルには神経細胞の新しい染色法を学んだ。また多くの精神病院を見学した。
 1901 帰国後、東京帝国大学医科大学教授に進み、精神医学講座を担当すると同時に東京巣鴨病院の医長を兼任し、病院改革に乗り出した。無拘禁制を推進し、手革足革・女性患者の蒲団巻き、看護人による患者への暴行懲戒処分を禁じました。病監収容を制限して患者の室内運動を自由にし、付き添い人つきの構外運動や仮出院を始めたり、治療の一環として遊戯室を設けたりした。病院を増改築し、クレペリン体系を導入して患者の分類を整理し直し、患者の食事を院内自炊とした。看護教育改革にも取り組み、実質の伴った看護人採用・女性部屋への女性看護長の任用、看護人の徹底教育を図った。看護人の待遇に関しては、東京府に上申するも改善が進まなかったことが悔やまれた。他にも精神衛生運動を行い院内の消毒を徹底して消化器系伝染病をなくし、食事や衣類も改善した。明治期に日本精神医学の先駆者として自身が見る病院改革を行っただけでなく、それを広く普及させるために、1902 日本精神学会を発足。同年、精神病患者とその家族の経済的支援および社会復帰への協力を目的とした精神病者慈善救治会を発足。
 '14(T3)精神科外来診療所を開設し、二年後には病室もつくった。'17 病院を松沢村、現在の世田谷区上北沢に移転し、名前も松沢病院とした。開放病棟が実現し、作業治療が行われるようになった。'24 臨時救護所を建て、回復期および軽症の患者を収容できるようにした。
 精神病学者としてサルバルサンを初期麻痺性痴呆患者に試用したり、「教育病理学」に小児精神医学研究を著したり、自らの鑑定例を『精神病鑑定例』にまとめた。また精神病患者には罪への責任を軽くするという司法精神医学上での貢献にも尽力した。
 呉秀三の「精神病ノ名義ニ就キテ」の論文により、日本における精神病学は確立し、精神疾患の病名が今と同様になり、「知恵が足りない。おろか」という意味の「痴」の字や、「くるう」の「狂」の字は用いられなくなる。
 '25(T14)職を辞し、晩年は著述・翻訳に専念。『日本医学史』『東洋史』を著わし、『シーボルト伝』に力を注いだ。享年66歳。
 「わが国十何万の精神病者は、実にこの病を受けたるの不幸の外に、この国に生まれたるの不幸を重ぬるものというべし」。この言葉が記された『精神病者私宅監置ノ実況及ビ其統計的観察』刊行100周年記念として、2018(H30)人間の尊厳を問いかける呉秀三のドキュメンタリー映画「夜明け前〜呉秀三と無名の精神障害者の100年」が、今井友樹監督の制作で公開された。

<コンサイス日本人名事典>
<講談社日本人名大辞典>
<世界人名辞典>
<人事興信録など>


墓誌

*墓石は和型「呉家累代墓」、裏面「昭和六年十月 呉秀三 建之」。左側に「芳渓呉秀三先生」というタイトルの墓誌碑が建つ。それには「我が国精神病学・医史学の建立者呉秀三先生ここに眠る。 元治二年二月一七日生 昭和七年三月二六日歿(1865‐1932)。伝記も著作も、世上の褒眼も結局に於て父の恃むところではなかった。 瘋癩者に封する心遺ひと、先哲の徳を恢めることこそ、その業であり志であったと推すべきものがある。(呉茂一)呉秀三先生歿後五〇年記念会」と刻む。 裏面は墓誌になっており、前妻のみな、秀三、茂一らの俗名と没年月日が刻む。

*芳渓呉秀三先生の墓誌碑の裏面が墓誌となっている。前妻の呉みな(M45.7.3没・行年38)から刻みが始まる。次に秀三、正子、トミヨ、茂一の順で刻む。

*前妻の"みな”は三浦千春の娘。"みな”との間に1男4女をもうけた。長男は古典文学研究者の呉茂一(同墓)。長女の"たま”と四女の"芳江”は"みな"の実家である三浦家の養女となった。 次女の"かつ”は東北大教授の木村男也に嫁ぎ、三女の"いくよ”は齋藤助蕘に嫁いだ。"みな”は1910.7.5に38歳の若さで没す。 没後に濱田藩士の本多小紋太の長男の本多富次郎の娘の"とく”と再婚。"とく”は初婚。章二をもうけた。

*後妻の"とく”(1954.2.27歿 行年83歳)の生家墓所は呉秀三の墓所の左隣りにある。元来は本多家であったであろうが、洋型墓石「呉家」とあり、裏面に「昭和五十一年四月三十日本多家より呉家に継承」と刻む。 墓誌には「舊濱田藩士本多分家光敦代々之墓」と刻み、小紋太、富次郎らの俗名、没年月日が刻む。"とく”は呉秀三没後に本多家に戻り継承をしたのか、こちらの墓石に「本多とく」の名前で刻む。 秀三ととくの子である呉章二もこちらの墓誌に刻む。呉章二(1991.7.31歿 行年76歳)は日本大学に勤務した。

生家墓所

*呉秀三の後妻の名前は系譜など多くの書物に「みつ」と書かれているが、どちらの墓誌にも「みつ」という名が刻まれておらず、生没年月日などから推察するに「とく」ではなかろうかと思い、ここでは後妻の名前を「とく」として紹介しています。事実をご存知の方はご一報ください。

家系図
家系図



第401回 日本精神医学の先駆者 夜明け前 呉秀三 お墓ツアー


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