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みつくり げんぽ

箕作阮甫

みつくり げんぽ

1799(寛政11.9.7)〜 1863(文久3.6.17)

江戸後期の洋学者、医師

埋葬場所: 14区 1種 2側 2番(別号の紫川)

 美作国津山藩医貞固の子、母は万波清子。名は虔儒、字は庠西、別号を紫川(墓に刻む)・逢谷。1822(文政5)津山藩医。江戸に出て儒学を古賀?庵、蘭医学を宇田川榛斎に学ぶ。 39(天保10)幕府天文方に出仕し蕃書和解方。ロシア・アメリカの外交使節と応接し、56(安政3) 蕃書調所教授、62(文久2)幕臣に列せられた。西洋地歴・法律・軍事の基礎的知識をもたらした。

<コンサイス日本人名事典>


墓所

*墓所には4基並ぶ。右から「箕作麟祥先生之墓」、「箕作省吾之墓」、「箕作家之墓」、「紫川箕作先生之墓」と並ぶ。「箕作麟祥先生之墓」の左面「従二位 男爵 箕作君墓碑銘」とあり略歴などが刻む。「箕作省吾之墓」の左面に略歴が刻む。旧名は佐々木省吾で、水澤藩士より阮甫の門人となり、阮甫の娘の婿養子となったことが刻む。「箕作家之墓」の裏面「箕作家は近江源氏佐々木氏より出。永正年間、定頼が初めて箕作を称す。五世近江国、箕作城主の箕作泰秀が大阪役に敗れ、美作に移り、ここに定住する。六世の後裔が阮甫・・・。箕作家先祖の墓は津山市浄圓寺に在り」と刻む。「紫川箕作先生之墓」は箕作阮甫の墓であり、紫川は号。墓石前面は略歴が刻む。墓所左側に墓誌が建ち、「省吾阮甫嗣子」と箕作省吾(弘化3.12.13歿・26歳)から刻みが始まる。次は阮甫(文久3.6.17歿・65歳)、とよ 阮甫妻と続く。

*阮甫と登井の子は、長女せき(呉黄石の妻)、次女つね(菊池秋坪の妻)、三女しん(佐々木省吾の妻、省吾は箕作家婿養子)。 長女のせきに関しては呉黄石のページへ。三女のしんに関しては箕作省吾、麟祥のページで扱っている。
 次女のつねであるが、菊池秋坪との間に生まれた子を紹介する。
 長男の箕作奎吾は母方の性を名乗り、父の三叉学舎で教鞭をとった教育者。若くして没した。
 次男の菊池大麓は父方の性を名乗り、東大総長や文部大臣を務め男爵にもなった人物で、わが国に幾何学を導入した人物である。 なお、「大麓」と妻の「たつ」の長女である「たみ」は、美濃部達吉(25-1-24-1)の妻となった。 たみの兄弟に関しては美濃部達吉のページへ。
 三男の箕作佳吉は動物学者で東大理科大学長。
 四男の箕作元八は西洋史学者で昭和天皇に知的影響を与えた人物で有名である。 なお、菊池大麓は妻のつねが亡くなった後、箕作阮甫の三女のしん(省吾と結婚する前)を後妻に迎え、長女の一直を産む。 その一直は日本の人類学開拓者で東大教授の坪井正五郎と結婚。 その子の長男の誠太郎は理学博士で東大教授に、次男の忠二は地球物理学者になった。

*箕作家の墓所は1964(S39)3月に東京小石川白山浄土寺より箕作祥一によって移葬された。


家系図

家系図


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