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みつくり りんしょう

箕作麟祥

みつくり りんしょう

1846(弘化3)〜 1897(明治30)

明治時代の啓蒙的官僚学者、男爵

埋葬場所: 14区 1種 2側 2番

 箕作阮甫の孫。箕作省吾の子。初名真一郎。阮甫について洋学を学び、1861(文久1)蕃書調所に出仕、63祖父を継いで幕臣に列せられ外国奉公翻訳方につとめ、67(慶応3)パリ万国博覧会派遣使節徳川昭武一行に従ってフランスに留学。 68(M1)帰国、新政府に招かれ翻訳官・調査官として活躍。欧米諸法典の翻訳編纂に当たり、その日本への移植やわが国成文法の起草に貢献。 明六社員として啓蒙活動にも力を注ぎ、翻訳活動の傍ら紹介した「リボルチーの説」「国政転変ノ論」は政府に物議をかもし、民権派を力づけた。東京学士院会員・元老院議官・法典調査会主査委員・貴院議員。 行政裁判所長官などを歴任し、また和仏法律学校(法政)校長。88法博。死に際して男爵を与えられた。

<コンサイス日本人名事典>


*司法次官・行政裁判所長官などの功により、1897(M30).12.1男爵の爵位を授爵した。麟祥以降の継承者は、箕作祥三→俊夫→祥一→俊次

家系図

家系図




箕作もと(みつくり もと)
1853.2.28(嘉永6)〜 1887.3.2(明治20)
箕作麟祥の前妻
 漢字名は茂登。信濃国の三沢精確の娘。 もとは1866(慶応2)14歳で箕作麟祥と結婚し、貞子、茂子、泰一、操子、正次郎、祥三の三男三女を生む。茂子、奉一、正次郎は夭折し、祥三が家を継ぐ。 なお、貞子は日本の進化論の先駆者で東大教授の石川千代松に、操子はボーアの原子模型に先立つ原子模型と理論を発表した東大教授の長岡半太郎に嫁いでいる。

<日本女性人名辞典>


【箕作麟祥没後の箕作家】
 箕作麟祥は前妻の「もと」との間に三男三女をもうけ、前妻没後に大前寛信の三女である「とを」(東子)を後妻として迎えた。その間に四男となる俊夫をもうけた。
 「もと」との間の長男の泰一(M6.10.1歿)と次男の正次郎(M9.10.1歿)は生後間もなく夭折していたため、麟祥没後、箕作家当主および男爵を三男の祥三(M32.10.29歿)が継ぐが、23歳の若さで他界したため、異母弟にあたる四男の俊夫が継いだ。
 箕作俊夫(T12.1.8歿)は陸軍中将の大島健一(14-1-2-3)の長女である長江(S60.4.6)と結婚し、祥一と俊次の2男をもうけるが、33歳の若さで死去。 1923.2.28(T12)に若干3歳にして箕作祥一(S43.11.8歿)が家督と男爵を継いだ。1968祥一没後、弟の俊次が家督を継ぎ、俊次の長男である有俊氏と続く。


*箕作家の墓所と大島健一が眠る大島家の墓所は隣同士である。

*箕作家墓誌には、箕作麟祥の前妻の「もと」(茂登)、後妻の「とを」(東子)の名前は漢字名が刻む。

*箕作家の墓所は1964(S39)3月に東京小石川白山浄土寺より移葬された。

箕作家の家系図


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