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みつくり りんしょう

箕作麟祥

みつくり りんしょう

1846(弘化3.7.29)〜 1897.11.29(明治30)

明治期の法律学者、翻訳家、男爵、日本近代法学の祖

埋葬場所: 14区 1種 2側 2番

 武蔵国江戸鍛冶橋(東京都中央区)出身。津山藩の屋敷で生まれる。母方祖父は津山藩の範医であり蘭学の大家 法学者の箕作阮甫(同墓)。父母は地理学者の箕作省吾、しん(共に同墓)。母の姉のせき は蘭医学者の呉黄石(21-1-25-1)に嫁いだ。その長男が日本における統計学の第一人者の呉文聡(21-1-25-1)、三男の呉秀三(5-1-1-9)はわが国現代精神病学の基礎を築いた人物。よって箕作麟祥とは従兄弟関係。呉文聡の長男が内科医学者で6度もノーベル生理学・医学賞の候補者として名前が挙がりながらも受賞とならなかった呉建(21-1-25-1)。
 最初の名前は貞太郎。後に貞一郎。明治5年に通称名などの併用禁止に伴い、麟祥とした。「麟」は燐酸(りんさん)の「燐」で「明」の意味であり「アキ」と読む。したがって「りんしよう」と読まれるが、本来は「あきよし」が正しい。
 父が早く亡くなったため、祖父の阮甫に育てられる。祖父は麟祥が成童(15歳以上)になるまで蘭学を学ぶことを禁じ、専ら漢学を学ばせた。ところがひそかに、塾生の原書を読み蘭学を独学していた。祖父が蕃書調所(東京大学の前身の開成学校の更に前身)の教授となったのを機に、そこに入り、公に蘭学を学ぶ。この時、数学を神田孝平に、英語を中浜万次郎(ジョン万次郎)に学び、とにかく秀才であった。ちなみに、神田孝平の養子となった英語学者で男爵は神田乃武(2-1-2-10)。
 文久元年、15オにして蕃書調所の英学教授の助手を命ぜられた。堀達之助が英和辞典を編集するに当り補助する。文久三年頃、外国方通弁の森山多吉郎とホイートンの「万国公法」を読み、国際法の知識を身に着ける。元治元年10月(1864)、祖父を継いで幕臣に列せられ外国奉行支配醗訳(翻訳)御用頭取を命ぜられ、福沢諭吉や福地源一郎らとともに英文翻訳に従事し、外国条約居留地規則などの外交文書の調査にあたった。慶應三年(1867)パリ万国博覧会に将軍徳川慶喜の名代で弟の徳川昭武が参列するとき、その随員に加わり渋沢栄一らと随行。
 1868(M1.2.24) 帰国すると江戸幕府から明治政府となっており、同年6月より明治新政府に招かれ開成所御用掛の命を受け、大阪や京都で一等訳官(いわゆる翻訳や外交の仕事)に任ぜられた。その後、兵庫県御用係、兵庫県令を経て、伊藤博文の計画で神戸洋学校創立に当り教授となった。東京に戻されるが、外交官を好まず、大学に入ることを望み、大学中博士に任ぜられた。1872(M4.4) 大学大博士に任ぜられたが、同.7 大学が廃止され、文部省が設置されるとともに文部大教授に就任。
 その後、司法少判事、司法検中判事兼任となった。1876(M9)司法大丞、司法大書記官、1880 元老院議官、民法編纂委員を兼ね、1882 東京学士院会員、1888 日本初の法学博士になった。
 この間、1869(M2)フランス刑法の翻訳を命ぜられ、ナポレオン法典の全訳を5年かけて完成させる。ついで 民放、商法、訴訟法、治罪法、憲法など合計40冊のすべてを箕作麟祥ひとりの手により翻訳された。その際の訳字は現在でも定訳となっているものも多くある。麟祥はこれを『仏蘭西法律書』と名付けた。これは近代法典が初めて日本人の眼に触れられることになった。翻訳されたフランスの法律は当時の司法官の唯一の手本とされ、当時の裁判が行われた。特に民事に関しては、間接に裁判例の基礎をなし、わが国の法律思想の開発に箕作麟祥の功績が認められている。
 このように欧米諸法典の翻訳編纂に当たり、その日本への移植やわが国成文法の起草に貢献。わが国における最初の「統計学」書も翻訳しており、フランス語のスタティスティック(Statistique)を「統計学」と訳すなど、多くの言葉を生み出した。一方で明六社に加わり、啓蒙活動にも力を注ぎ、翻訳活動の傍ら紹介した「リボルチーの説」「国政転変ノ論」は政府に物議をかもし、民権派を力づけた。ナポレオン法が骨を作り、ボアソナードが肉を着せ、それに日本的表現の皮を張ったのが箕作麟祥であるとも言われた。
 その他、東京学士院会員、法典調査会主査委員、行政裁判所長官、和仏法律学校(法政大学)校長、1896 貴族院資格審査員などを歴任。享年51歳。没後、1897(M30).12.1 箕作麟祥の功績により箕作家は男爵の爵位を叙爵された。箕作祥三が襲爵し、以後は箕作俊夫、箕作祥一(全員同墓)が継いだ。

<コンサイス日本人名事典>
<朝日日本歴史人物事典>
<小学館 日本大百科全書>
<平凡社百科事典>
<人事興信録など>


墓所

*墓所には4基並ぶ。右から「箕作麟祥先生之墓」、「箕作省吾之墓」、「箕作家之墓」、「紫川箕作先生之墓」と並ぶ。「箕作麟祥先生之墓」の左面「従二位 男爵 箕作君墓碑銘」とあり略歴などが刻む。「箕作省吾之墓」の左面に略歴が刻む。旧名は佐々木省吾で、水澤藩士より阮甫の門人となり、阮甫の娘の婿養子となったことが刻む。「箕作家之墓」の裏面「箕作家は近江源氏佐々木氏より出。永正年間、定頼が初めて箕作を称す。五世近江国、箕作城主の箕作泰秀が大阪役に敗れ、美作に移り、ここに定住する。六世の後裔が阮甫・・・。箕作家先祖の墓は津山市浄圓寺に在り」と刻む。「紫川箕作先生之墓」は箕作阮甫の墓であり、紫川は号。墓石前面は略歴が刻む。墓所左側に墓誌が建ち、「省吾阮甫嗣子」と箕作省吾(弘化3.12.13歿・26歳)から刻みが始まる。次は阮甫(文久3.6.17歿・65歳)、とよ 阮甫妻と続く。

家系図

家系図




箕作もと(みつくり もと)
1853.2.28(嘉永6)〜 1887.3.2(明治20)
箕作麟祥の前妻
 漢字名は茂登。信濃国の三沢精確の娘。 もとは1866(慶応2)14歳で箕作麟祥と結婚し、貞子、茂子、泰一、操子、正次郎、祥三の三男三女を生む。茂子、奉一、正次郎は夭折し、祥三が家を継ぐ。 なお、貞子は日本の進化論の先駆者で東大教授の石川千代松に、操子はボーアの原子模型に先立つ原子模型と理論を発表した東大教授の長岡半太郎に嫁いでいる。

<日本女性人名辞典>


【箕作麟祥没後の箕作家】
 箕作麟祥は前妻の「もと」との間に三男三女をもうけ、前妻没後に大前寛信の三女である「とを」(東子)を後妻として迎えた。その間に四男となる俊夫をもうけた。
 「もと」との間の長男の泰一(M6.10.1歿)と次男の正次郎(M9.10.1歿)は生後間もなく夭折していたため、麟祥没後、箕作家当主および男爵を三男の祥三(M32.10.29歿)が継ぐが、23歳の若さで他界したため、異母弟にあたる四男の俊夫が継いだ。
 箕作俊夫(T12.1.8歿)は陸軍中将の大島健一(14-1-2-3)の長女である長江(S60.4.6)と結婚し、祥一と俊次の2男をもうけるが、33歳の若さで死去。 1923.2.28(T12)に若干3歳にして箕作祥一(S43.11.8歿)が家督と男爵を継いだ。1968祥一没後、弟の俊次が家督を継ぎ、俊次の長男である有俊氏と続く。


*箕作家の墓所と大島健一が眠る大島家の墓所は隣同士である。

*箕作家墓誌には、箕作麟祥の前妻の「もと」(茂登)、後妻の「とを」(東子)の名前は漢字名が刻む。

*箕作家の墓所は1964(S39)3月に東京小石川白山浄土寺より移葬された。

箕作家の家系図



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