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みつくり よしかず

箕作祥一

みつくり よしかず

1920.1.1(大正9)〜 1968.11.8(昭和43)

昭和期の農獣医学者、男爵

埋葬場所: 14区 1種 2側 2番

 祖父は箕作麟祥(同墓)。麟祥四男の箕作俊夫(T12.1.8歿 享年33歳)・長江(S60.4.6 享年97歳)(共に同墓)の長男として生まれる。 母の長江は陸軍中将の大島健一(14-1-2-3)の長女。母の長江の兄の大島浩(14-1-2-3)は陸軍中将でA級戦犯となった人物。
 父が若くして没したため、1923.2.28(T12)に若干3歳にして家督と男爵を継いだ。戦後、華族制度廃止のため祥一の代で男爵位は終了。学者の道へ入り、日本大学農獣医学部教授となり、農獣医学者として活動。 その間、養命酒のオーナー一族である塩沢友茂の次女の千代子と結婚。1人娘の禎子をもうける。禎子は近江治彦に嫁ぐ。脳溢血のため死去。 享年48歳。家督継承者がいないため、弟の俊次が箕作家当主を継いだ。箕作俊次は大日企業社長の実業家であり、俊次の長男である有俊氏と続く。


墓所

*墓所には4基並ぶ。右から「箕作麟祥先生之墓」、「箕作省吾之墓」、「箕作家之墓」、「紫川箕作先生之墓」と並ぶ。「箕作麟祥先生之墓」の左面「従二位 男爵 箕作君墓碑銘」とあり略歴などが刻む。「箕作省吾之墓」の左面に略歴が刻む。旧名は佐々木省吾で、水澤藩士より阮甫の門人となり、阮甫の娘の婿養子となったことが刻む。「箕作家之墓」の裏面「箕作家は近江源氏佐々木氏より出。永正年間、定頼が初めて箕作を称す。五世近江国、箕作城主の箕作泰秀が大阪役に敗れ、美作に移り、ここに定住する。六世の後裔が阮甫・・・。箕作家先祖の墓は津山市浄圓寺に在り」と刻む。「紫川箕作先生之墓」は箕作阮甫の墓であり、紫川は号。墓石前面は略歴が刻む。墓所左側に墓誌が建ち、「省吾阮甫嗣子」と箕作省吾(弘化3.12.13歿・26歳)から刻みが始まる。次は阮甫(文久3.6.17歿・65歳)、とよ 阮甫妻と続く。

*箕作家の墓所は1964(S39)3月に東京小石川白山浄土寺より箕作祥一によって移葬された。

*箕作家の墓所と母方の大島家の墓所は隣同士である。

箕作家の家系図


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