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おおしま ひろし

大島 浩

おおしま ひろし

1886.4.19(明治19)〜 1975.6.6(昭和50)

明治・大正・昭和期の陸軍軍人(中将)、ドイツ大使、
日独伊三国同盟の黒幕

埋葬場所: 14区 1種 2側 3番

 岐阜県恵那郡岩村町(恵那市)出身。陸軍中将の大島健一(同墓)の長男。妹の長江は、わが国の法律思想の開発に尽力した箕作麟祥の四男の箕作俊夫に嫁ぎました。箕作麟祥の墓所は左隣り(14-1-2-2)。
 小学生からは東京に移り育ち、後に財界人として活躍する石坂泰三(13-1-1-9)は同級生。また幼少期から在日ドイツ人の家庭に預けられていたこともあり、ドイツ語を身に着ける。東京陸軍地方幼年学校、陸軍中央幼年学校、1905.11.25(M38)陸軍士官学校を首席で卒業(18期)。同期に阿南惟幾(後に大将:13-1-25-5)、山下奉文(後に大将:16-1-8-6)、甘粕正彦(2-2-16)の兄の甘粕重太郎(中将)、井上政吉(後に中将:20-1-18-12)、小泉恭次(後に中将:22-1-50)、佐竹保治郎(後に中将:22-1-66)、澤田茂(後に中将:4-1-26-2)、常岡寛治(後に中将:10-1-4)、内藤正一(後に中将:9-1-19)、飯塚朝吉(後に少将:3-1-25)、石井善七(後に少将:12-1-13-13)、後藤廣三(後に少将:9-1-5)、山中峯太郎(後に作家:14-1-8-7)らがいた。 '06.6.26騎兵少尉に任官。
 '15.12.11(T4)陸軍大学校卒業(27期)。同期に浅野嘉一(後に中将:15-1-15)、草場辰巳(後に中将:5-1-23)、小泉恭次、沼田徳重(後に中将:20-1-29)、蘆川良治(後に少将:3-1-29の2)、後藤廣三、田中毅一(後に少将:12-1-13-5)らがいた。翌年に大尉となり、重砲第2連隊中隊長。
 '17.2 参謀本部に配属され、'18.8 シベリア出張。'21.5 駐ドイツ大使館付武官補佐官に就任。'22.1 少佐に昇進し、'23.2 駐オーストリア公使館 兼 ハンガリー公使館武官に就任。'26.8 中佐、'30.8.1 大佐に進む。'34.3.5(S9) 駐ドイツ大使館付武官となり、この頃より、国民社会主義ドイツ労働者党(ナチス党)上層部と接触を深める。
 '35.3.15 少将に進級。同.10 ナチス党外交部リッベントロップと初会談をするなど、ナチスとの関係を深め、ナチス党と距離を置く方針であった外務省とは別に独自で軍部外交を進める(二元外交)。日本と米英との関係が悪化する中、大島は新独派が多い陸軍中央と提携、'36 日独防共協定の推進者となり、同.11.25 日独防共協定調印を実現。ドイツと同じファシズムであるイタリアとも友好関係強化を推進し、'37.11 イタリアも加えた日独伊防共協定になった。
 '38 中将に昇進。同,8 ヒトラーユーゲント来日に関わる。同.10.8 予備役となり、駐ドイツ大使に任ぜられる。ドイツ側のリッベントロップ外相と接近し、日独防共協定を日独伊三国同盟へ格上げすることに奔走し、枢軸外交を強めるためを画策。しかし、'39.8.23 ドイツは独ソ不可侵条約を締結。これは日独防共協定違反として、日独同盟交渉中断を閣議決定、平沼騏一郎(10-1-1-15)内閣は政治責任を取り総辞職した。日本の政界も揺るがす大混乱の責任を取り、同.10.7 帰朝を命ぜられ、同.12.27 ドイツ大使を辞任した。翌年、大島の後任は来栖三郎が任命された。帰国した大島は日独伊三国同盟をバックアップする形で講演活動を全国で行った。
 '39.9 第二次世界大戦が起こり、米英と緊張状態であった日本は、'40.9.27 日独伊三国同盟に調印する。これにより、同.12.20 再び駐ドイツ大使に再任命され赴任。'41.2.17 ベルリンに着任し、三国軍事同盟を実現するために努力。一貫して親独政策を主張。ドイツのメディア露出率も高く、ナチスの政策に心酔していた大島は「姿勢から立ち振る舞いに至るまでドイツ人以上にドイツ人的」との評価を受け、ドイツ人に最も知られた外交官となる。アメリカのジャーナリストのシャイラーは「ナチス以上の国家社会主義者」と評した。同.3.27 松岡洋右外務大臣がベルリンに訪問した際には、松岡・ヒトラー会談に同席。同.6.22 ドイツ軍がソ連に侵攻し独ソ戦が始まる。
 大戦中は当初はドイツ有利の戦況であったが、アメリカが参戦した頃より劣勢となる。しかし、大島はドイツを一方的に信じ続け、ドイツ有利の誤った戦況を日本に報告し続けた。また大島が日本に送った暗号電報は、全て連合国側に解読されており、英米の作戦遂行に有利に活用された。
 '45.4.13 ソ連軍がベルリンに迫ると、ドイツ政府からの要請を受け、ドイツ南部(オーストリアの温泉地)バート・ガスタインに避難。翌月、ドイツが敗戦。大島は連合国により身柄を拘束され、アメリカ軍に抑留。その後、アメリカに送られ日本の終戦も迎えた。帰国前にA級戦犯指定を知ったため、文書や日記をニューヨークのホテルの水洗便所に流したという。同.11 シアトルから他の外交官らと日本に送還。同.12.6 日本に到着とともに、GHQに戦犯として逮捕され、巣鴨拘置所に勾留、A級戦犯として起訴された。
 極東国際軍事裁判(東京裁判)では、日独伊三国同盟を推進したことが戦犯だと争われたが、法廷で大島は「ヒトラーやリッベントロップとは、ほとんど会わなかった」と証言するなど、一貫して三国同盟を自ら主張したとは言わず、自身に不利になることには一切言及しなかった。'48.11.12 極東国際軍事裁判の結果は、1票差で絞首刑を免れ、終身刑となる。'55.11 減刑となり出獄した。その後は、神奈川県茅ヶ崎市に隠遁。
 自民党から度々国政選挙への出馬要請があったが、「自分は国家をミスリードした。その人間が再び公職に就くのは許されない」として断り続け、公的な場所に現れることも一切せず、著作や講演依頼も頑なに応えなかった。歴史学者の高橋正衛に「私が語り、書いて、大島個人の主観で歴史家を誤らせるという、三国同盟に次いでまた国民に罪を犯したくない」と語っていたという。
 大島は日独伊三国同盟締結を推し進めたことに対して、当時はそれを最善と信じて行動していたが、結果的にその見通しの誤りが敗戦という結果を招き、その意味で自らに日本国に対しての重大な責任があることを認めていた。また、政治家であった広田弘毅が死刑になったことに対しても、自分のほうが戦争への責任が重いにもかかわらず、こうして生きているのが、いつも申し訳ない気がしていると述べていた。正4位 従3位 勲1等。享年89歳。没後、晩年に三宅正樹らが録音したインタビューテープが夫人の了承を得て発表された(上記の逸話などはこれによるものがほとんどである)。

<コンサイス日本人名事典>
<帝国陸軍将軍総覧>
<東京裁判の100人>
<『いわゆるA級戦犯』小林よしのり>
<人事興信録>


墓地

*墓石が三基並ぶ。真ん中に「大島家墓」、右面「昭和三十一年三月二十四日 健一 嗣子 浩 建之」、裏面は大島家の歴史が刻む。左に「大島健一墓」、裏面「昭和二十二年三月二十四日屍」。右に「大島浩墓」、裏面「明治三十九年陸軍砲兵少尉に任官。昭和十三年中将に累進す。同年駐独特命全権大使に任ぜられし為、予備役仰付けらる。勲功により従三位勲一等旭日大綬章を賜はる 昭和五十一年六月六日 妻 豊子 建之」と刻む。

*墓所左側に健一の娘の大島静子が両親のことを詠んだ句詩碑が建つ。なお父の健一も軍人とは別に大島蘇谷という雅号で漢詩人として活躍した。碑の裏面に「昭和三十一年三月 長女 箕作長江 二女 佐々木貞子 三女 大島静子 四女 槙適子」と刻む。墓所右側に墓誌が建つ。墓誌は健一の母の嘉儀から刻みが始まる。早死した健一の四男の昭、三男の彊、次に、健一、健一の妻の磯陽(S22.3.24歿・81歳)と続く。次に健一の次男の大島僴(S47.7.22歿・84歳)、健一の長男の大島浩、健一の三女の静(H4.2.3歿・90歳)、浩の妻の豊(H8.1.9歿・96歳)が刻む。また墓誌の裏に「大島家累代の墓は岐阜県恵那郡岩村天保山に在り」と刻む。

*健一の長女の長江は、わが国の法律思想の開発に尽力した箕作麟祥の四男の箕作俊夫に嫁いだ。妹の子で甥に農獣医学者の箕作祥一がいる。箕作家の墓所は左隣りである(14-1-2-2)。健一の二女の貞子は東邦レーヨン社長の佐々木義彦に嫁ぐ。健一の四女の適子は登山家の槙有恒(13-1-6)に嫁いだ。なお、浩の妻の豊(豊子)は子爵の田尻稲次郎の五女。



第460回 日独伊三国同盟の黒幕 ヒトラーに傾倒した男
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