茨城県那珂市額田村出身。先祖は沼田の城主でその後は酒造業を営んだとされる。父は定助。
1907.5.31(M40)陸軍士官学校卒業(19期)。同期に塚田攻(後に大将:9-1-19)、浅野嘉一(後に中将:15-1-15)、阿部規秀(後に中将:21-1-13)、香積見弼(後に中将:20-1-25-1)、田路朝一(後に中将:9-1-17-14)、森本義一(後に少将:20-1-39)、後藤和儀(後の大佐:21-1-13)らがいた。同.12.26歩兵少尉に任官し近衛歩兵第2連隊附に配属された。その際に同連隊の旗手をつとめた。旗手は同年代の一番優秀なものが務める習わしがあった。'15.12.11(T4)陸軍大学校卒業(27期)。同期に大島浩(後に中将:14-1-2-3)、草場辰巳(後に中将:5-1-23)、小泉恭次(後に中将:22-1-50)、蘆川良治(後に少将:3-1-29の2)、後藤廣三(後に少将:9-1-5)、田中毅一(後に少将:12-1-13-5)、浅野嘉一らがいた。
大学卒業後に近衛歩兵第2連隊中隊長に配属され、'17大尉となり参謀本部部員(第1部第2課演習班)、'19第1師団参謀、'23少佐に進み、歩兵第14連隊(小倉)大隊長。'25『軍隊教育新論』を著わし、戦術思想手段の訓練の指導は透徹した実践本意のもので妥協することがなかったという。'27(S2)中佐になり、陸軍工兵学校教官 兼 教育総監部第1課高級課員 兼 陸軍大学教官を歴任した。この時、陸軍軍隊教育の改革を先導し、特に戦闘綱要の改正編纂を行った。
'31.8.1大佐となり、東京帝国大学配属将校(近衛師団司令部附)に着任し軍隊教育関係の著作を発表するなど軍隊教育の発展に努めた。陸軍の関東軍が起こした柳条湖事件(満州事変)に関して東京帝国大学での講義の中で、満州の支配について日本は満州国を理想の国家に育成する責任はあるが、それ以上は望むべきでないとし、満州をソ連への防壁として育てるがそれ以上の戦線は不拡大であったと学生に話したとされる(沼田の娘婿の上田四朗による回想)。
'33.12.20千葉連隊区司令官を務めた。'36.8.1少将に昇進し、第2師団司令部附、'37.9.10歩兵第26旅団長(仙台)を任ぜられた。'39.3.9中将に累進し、第114師団長(山東省済南駐屯)に就任して支那事変に出征するも中国の戦線で病に倒れた。帰国するも、同.8.12福岡陸軍病院にて逝去。享年50歳。正4位 勲1等 功2級。
郷里では村葬として小学生も見送り、那珂市額田の引接寺に「陸軍中将沼田徳重の墓」が有志の手により建立された。なお多磨霊園が正墓である。'84 関真幸編著・出版を息子である沼田忠重によって『智将沼田徳重小伝』が発刊された。