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こいずみ きょうじ

小泉恭次

こいずみ きょうじ

1876.2.2(明治19)〜 1946.12.10(昭和21)

明治・大正・昭和期の陸軍軍人(中将)

埋葬場所: 22区 1種 50側

 山形県米沢出身。1905(M38)陸軍士官学校卒業(18期)。 同期に阿南惟幾(後に大将:13-1-25-5)、山下奉文(後に大将:16-1-8-6)、甘粕正彦(2-2-16)の兄の甘粕重太郎(中将)、井上政吉(後に中将:20-1-18-12)、大島浩(後に中将:14-1-2-3)、佐竹保治郎(後に中将:22-1-66)、澤田茂(後に中将:4-1-26-2)、常岡寛治(後に中将:10-1-4)、内藤正一(後に中将:9-1-19)、飯塚朝吉(後に少将:3-1-25)、石井善七(後に少将:12-1-13-13)、後藤廣三(後に少将:9-1-5)、山中峯太郎(後に作家:14-1-8-7)らがいた。
 陸軍歩兵少尉に任官し、歩兵第27聯隊付。'15.12.11(T4)陸軍大学校卒業(27期)。同期に浅野嘉一(後に中将:15-1-15)、大島浩、草場辰巳(後に中将:5-1-23)、沼田徳重(後に中将:20-1-29)、蘆川良治(後に少将:3-1-29の2)、田中毅一(後に少将:12-1-13-5)らがいた。翌年、大尉として歩兵第27聯隊中隊長となった。'18陸軍士官学校教官、'21参謀本部付、'22少佐となり、東京外国語学校に入学し、翌年卒業。この間、歩兵第1聯隊付。
 '23歩兵第29聯隊大隊長、'26歩兵第32聯隊付、'27(S2)天津駐屯歩兵隊長、'28東京警備司令部参謀を経て、'30.8.1陸軍歩兵大佐となり、名古屋聯隊区司令官となった。 '32歩兵第16聯隊長、'33近衛歩兵第1聯隊長、'35.3.15仙台陸軍教導学校長を歴任して、同年.8.1少将となる。 '36.3.23歩兵第1旅団長、'37.8.2第14師団司令部付、'38.7.15中将となり、鎮海湾要塞司令官。'39.3.9待命、3.20予備。'40.4.29旭日重光章受章。
 太平洋戦争悪化のため、'45.5.5臨時召集され、東部軍管区兵務部長を任ぜられる。 同年.8.25終戦直後に第142師団長として復員業務にあたり、翌年'46.12.10業務完了後、「これで心残りなく死ぬることができる」と、自宅にて割腹自決した。享年70歳。没後、'67.10靖国神社に合祀された。

<帝国陸軍将軍総覧>
<日本陸軍将官総覧など>


陸軍中将 正四位 勲一等 小泉恭次之碑

*墓石は正面「小泉家之墓」。左側に「陸軍中将 正四位 勲一等 小泉恭次之碑」が建つ。右側に墓誌がある。戒名は譲徳院殿謙譽恭順大居士。妻はヱい(栄子)。墓石は小泉恭次が昭和十七年七月十三日に建之。 「小泉恭次之碑」の書は辱友 山脇正隆。裏面には「勲一等旭日大綬章叙勲を記念し、亡き父の勲功と遺徳を偲んで之を建てる。昭和四十八年九月二十六日 小泉津二」と刻む。

*戦後、1967.10靖国神社に合祀され、'73.9.26戦没者殊勲として勲一等旭日大綬章が贈られた。

*小泉浩男(2009.1.12歿 同墓)は恭次の長男。1942.12.17(S17)陸軍士官学校卒業(56期)。翌年、陸軍少尉。外地にて終戦を迎えた。戦後は実業界へ。 小泉津二は恭次の次男。陸軍予科士官学校修業するも終戦。小泉義明(1942.4.5歿 同墓)は恭次の三男。東京の空襲にて戦死。


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