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いいづか あさきち

飯塚朝吉

いいづか あさきち

1883.3.23(明治16)〜 1934.3.10(昭和9)

大正・昭和期の陸軍軍人(少将)

埋葬場所: 3区 1種 25側

 群馬県出身。1905.11.25(M38)陸軍士官学校卒業(18期)。同期に阿南惟幾(後に大将:13-1-25-5)、山下奉文(後に大将:16-1-8-6)、甘粕正彦(2-2-16)の兄の甘粕重太郎(中将)、井上政吉(後に中将:20-1-18-12)、大島浩(後に中将:14-1-2-3)、小泉恭次(後に中将:22-1-50)、澤田茂(後に中将:4-1-26-2)、内藤正一(後に中将:9-1-19)、石井善七(後に少将:12-1-13-13)、山中峯太郎(後に作家:14-1-8-7)らがいた。 翌年、歩兵少尉に任官。1914(T3)陸軍大学卒業(26期)。様々な軍歴を経て、'31.8.1(S6)陸軍大佐に昇進し、近衛師団司令部附となり、法政大学で学ぶ。
 '32.12.7歩兵第63連隊長となる。同年、満州国が建国され、多くの日本人が入植し、未開地移住や現地人からの強制的土地買収が行われるようになる。 これに伴い、'34関東軍は吉林省東北一帯の治安維持を目的として、現地人からの武器押収を指示。これに強く反発した現地人は、嘆願書を3度提出し回避を求めた。 この地の治安維持を任されていた63連隊隊長の飯塚も、武器回収は早すぎると具申。しかし、第10師団の加納参謀長が飯塚の言葉を無視し回収を強行した。 このため抗日気運が高まり、現地の区長であり自身も地主であった謝文東をリーダーとして同.3.4土竜山で武装蜂起し、東北民衆自衛軍と名乗り、翌日、日本の警察署を襲う。 この知らせを聞いた飯塚は部下18名を引き連れ、謝文東を説得するため黒竜江省依蘭県土龍山鎮へ急行したが、その途中で約500名の蜂起した農民の一団(東北民衆自衛軍)は包囲し、急襲して鍬や鋤で飯塚含む全員を惨殺した。享年50歳。 陸軍は戦死と公表し、没後1階級特進して少将となった。以後も農民襲撃隊により第一次、第二次開拓団にも襲撃を加える。この蜂起は日本の対満農業移民政策に深刻な打撃を与えた。これら一連の襲撃事件を「依蘭県事件」「謝文東の乱」「土竜山事件」などと呼ばれている。
 なお、その後は、この事件が単純な農民運動ではないことが、匪賊より分離帰農するもの続出した事実と農民の陳述により立証された。 4月以降、満州国でも積極的に商租の事務に協力することを発表し、特別政治工作班を組織して民心の動揺を防止、農地商租、武器領置の主旨の闡明徹底を期し、民意の聴取を行ったほか農耕地の斡旋、農耕資金貸附、罹災農民の救済を行った結果、民心も鎮静に帰し全く順調なる経過を辿っていったとされる。

<帝国陸軍将軍総覧>
<日本陸軍将官総覧>
<日本史辞典など>


墓所

*墓石は和型「陸軍少将 従四位 勲三等 功三級 飯塚朝吉 墓」と刻む。裏面に簡単な略歴が刻む。戒名は常勝院眞鑑明正義徹大居士。墓所左側に墓誌、右側に「心」と刻む白倉家の墓碑が建つ。

*飯塚朝吉の子息の飯塚正義(1923-1997.8.10 同墓)は、1942.9.5満洲国建国に尊い命を捧げた建国功労者の遺児として、ほか115名と共に東条英機首相によって官邸に招待された。 東条首相は十周年式典慶祝会総裁として、新京の式典に参加する遺児団に団旗を授与、晴れの門出を祝って、激励の言葉を贈った。 「諸君はこのたびの尊い感激により、さらにその覚悟を新たにせられ、さらにその誇りをしっかりと肝に銘じ、以てご父兄の遺志を立派に受け継がれるのみならず、さらに、頼もしき日本人となり、十分お国の役に立つ人となられんことを希望する」。 遺児たちは、翌日宮城前に整列。恭しく皇居を奉拝。松井慶祝会事務局長の発声で聖寿万歳を奉唱し結団式を終えた。


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