山形県出身。陸士24期。1912(M45)歩兵少尉となったが、'18(T7)憲兵に転じ、'21憲兵大尉。
関東大震災直前の'23年8月麹町憲兵分隊長となり、9月に大杉栄・伊藤野枝らを憲兵隊内にて秘かに扼殺(やくさつ)。
甘粕事件。軍法会議で懲役10年の刑を受けたが、'27(S2)出獄。
フランスに渡った後、'29満州に渡り('31という説もある)、満州事変の陰謀に加わり、黒幕となる。
'32満州国建国と同時に満州国民政部警務司長に就任。'34甘粕の母志げの旧姓内藤から名付けられた「内藤機関」を開設。'37協和会中央本部総務部長。
同年、満州国建国の功により勲四等旭日章、満州国政府から勲二等景雲章が授与。'39.11.1満州映画協会理事長。'45敗戦とともに新京で自決(服毒自殺)した。
著書に「獄中に於ける予の感想」(1927)。 辞世の句は「大ばくち 身ぐるみ脱いで すってんてん」 自分の人生と満州国の運命を重ねて詠んだ歌と言われている。
<コンサイス日本人名事典> <五輪塔様より情報提供>
*墓石は洋型で「甘粕」。左側に墓誌がある。戒名は凌雲院殿孝誉純忠正彦大居士。妻はミネ(1970.5.31没)。
*作家の赤川次郎の父親である赤川孝一は甘粕正彦の側近。赤川孝一は満映で映画製作に携わり、戦後は東映幹部となった。
甘粕の自殺を看取った人物でもある。
*甘粕正彦の弟で三菱信託銀行社長を務めた甘粕二郎も同墓に埋葬されている。
*父の甘粕春吉(同墓)(1921.10.3歿)は米沢藩士で宇治山田警察署長を務めた人物。
*甘粕正彦の妻はミネ(S45.3.31歿)。長男は甘粕忠男(H29.8.2歿)。正彦没後、甘粕家の当主となったのは正彦の弟の甘粕二郎(S62.9.13歿)。二郎の妻はマス(S59.1.17歿)。長男は甘粕慎一(H16.10.18歿)。なお、正彦の子息(二男)の甘粕正(H14.1.15歿)は、父没後は二郎宅に身をおかせてもらい、東大に通った後、戦後大手電気メーカーの副社長を歴任した。また正彦の娘(二女)和子(R2.7.20歿)は二郎の養女になった。全員が同墓に眠る。
*甘粕正彦の子にによく間違えられる見田(甘粕)石介は、甘粕正彦の父の甘粕春吉の次兄の子であり、正彦とは従兄弟関係であることが正しい。
また甘粕重太郎陸軍中将は父の甘粕春吉の長兄の子である。
なお、見田(甘粕)石介はマルクス主義哲学、経済学に寄与した哲学者であり、石介の子は社会学者の見田宗介、宗介の子は漫画家の見田竜介である。
【甘粕事件】
関東大震災の直後、無政府主義者の大杉栄、その夫人の伊藤野枝、甥の少年橘宗一が、憲兵大尉甘粕正彦によって東京憲兵隊本部で殺害された事件。
当時(特に関東大震災時)は朝鮮人、社会主義者、労働運動家に対する無法・暴虐きわまりない白色テロリズムが横行した。
特に軍隊と官憲は、社会主義者や労働運動家を敵視しており、甘粕事件の他に、亀戸事件や王希天殺害事件などが起きた。
1923年9月16日無政府主義者の頭目大杉栄と妻の伊藤野枝、甥の橘宗一の3人は突如大手町の憲兵隊本部に連行され、司令部室で甘粕正彦大尉によって虐殺され、死体は同所の古井戸に埋められた。
事件は9月末に発表され、甘粕だけが10年の刑を宣告されたが、3年で放免された。
第47回 溥儀を操った満州国の黒幕 甘粕事件 甘粕正彦 お墓ツアー
|