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さたけ やすじろう

佐竹保治郎

さたけ やすじろう

1883.5.25(明治16)〜 1955.1.20(昭和30)

明治・大正・昭和期の陸軍軍人(中将)

埋葬場所: 22区 1種 66側

 東京出身。1905.11.25(M38)陸軍士官学校卒業(18期)。同期に阿南惟幾(後に大将:13-1-25-5)、山下奉文(後に大将:16-1-8-6)、甘粕正彦(2-2-16)の兄の甘粕重太郎(中将)、井上政吉(後に中将:20-1-18-12)、大島浩(後に中将:14-1-2-3)、小泉恭次(後に中将:22-1-50)、澤田茂(後に中将:4-1-26-2)、常岡寛治(後に中将:10-1-4)、内藤正一(後に中将:9-1-19)、飯塚朝吉(後に少将:3-1-25)、石井善七(後に少将:12-1-13-13)、後藤廣三(後に少将:9-1-5)、山中峯太郎(後に作家:14-1-8-7)らがいた。 工兵少尉に任官後、東京帝国大学建築学科卒業。その後、様々な要職を歴任。
 1930.8.1(S5) 陸軍工兵大佐に昇進し、工兵第7大隊長に着任した。'32.6.27 陸地測量部三角科長に就任。'33.8.1 陸軍築城部員を経て、'35.3.15 少将に進級し、澎湖島要塞司令官に補された。
 '36.3.7 陸軍築城本部長を務めた後、'38.3.1 中将に累進。'39.3.9 待命、同.3.22 予備役となった。同年、著書『防空建築と土木の参考』を刊行。
 太平洋戦争末期、絶対国防圏の要石とされたサイパン陥落後、台湾方面の戦力増強のため、'44.9.22 第10方面軍が新編され、連合国軍の台湾上陸に備え台北に在った。'45.2.1 第10方面軍司令官は、台湾軍司令官と台湾軍管区司令官を兼任した。連合軍の台湾上陸に備え、同.3.1 召集され、軍職に復帰。第10方面軍司令部附に着任した。しかし、連合軍は台湾上陸は無く、交戦することなしに終戦となった。'47.11.28 公職追放仮指定を受けた。享年71歳。

<帝国陸軍将軍総覧>
<日本陸海軍総合事典>


墓所 佐竹保治郎之碑

*墓石は洋型「佐竹家之墓」、裏面「昭和三十年四月吉日 佐竹ふみ 建之」の刻みと墓誌となっており、佐竹保治郎の刻みから始まっている。墓所内左側にも墓誌が建ち、佐竹保治郎から刻みが始まる。享年72歳(数え)と刻む。前妻は将(S10.11.7没・40歳)、後妻は ふみ(S57.10.3没・90歳)。同墓には、長男の正保(S45.1.26没・54歳)、長女の治子(T13.9.24没・6歳)、三男の治夫(S26.11.1・21歳)、三女の和子(S63.12.28没・60歳)が眠る。

*墓所右側に「元陸軍中将 佐竹保治郎之碑」が建つ。


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