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いのうえ まさきち

井上政吉

いのうえ まさきち

1886.1.18(明治19)〜 1975.4.7(昭和50)

明治・大正・昭和期の陸軍軍人(中将)

埋葬場所: 20区 1種 18側 12番

 京都府竹野郡島津村字島溝川(京丹後市網野町)出身。本家は200年続く酒造業。
 東京陸軍地方幼年学校、陸軍中央幼年学校を経て、1905.11.25(M38)陸軍士官学校卒業(18期)。同期に阿南惟幾(後に大将:13-1-25-5)、山下奉文(後に大将:16-1-8-6)、甘粕正彦(2-2-16)の兄の甘粕重太郎(中将)、大島浩(後に中将:14-1-2-3)、小泉恭次(後に中将:22-1-50)、澤田茂(後に中将:4-1-26-2)、常岡寛治(後に中将:10-1-4)、内藤正一(後に中将:9-1-19)、飯塚朝吉(後に少将:3-1-25)、石井善七(後に少将:12-1-13-13)、山中峯太郎(後に作家:14-1-8-7)らがいた。 '06.6.26大津市の陸軍歩兵第9連隊第1中隊に歩兵少尉として任官し、同連隊第27代騎手少尉となる。'08中尉になる。
 '13.12.26(T2)千葉県の陸軍歩兵学校に教導大隊附として赴任。'16.5.2大津市の陸軍歩兵第9連隊に歩兵大尉・第8中隊長、'18.10.25仙台陸軍幼年学校生徒監に着任。 '23.8.6少佐に進級し、仙台陸軍幼年学校生徒監主事となる。'24.3.15京都市伏見区の歩兵第38連隊に赴任、翌年.5.1奈良市に異動した第38連隊の大隊長に着任。 '27.3.1(S2)歩兵第9連隊に赴任、京都府師範学校に配属されて教練指導。翌年中佐となる。'30三重県の歩兵第33連隊(留守隊長)を務めた。
 '33.8.1(S8)歩兵大佐に昇進し、津連隊区司令官に就任した。'35.3.15名古屋市の歩兵第6連隊長に移り、'36.3.23近衛歩兵第3連隊長となった。 日中戦争が勃発し、'37.3.1第5師団司令部付となり、旧広島陸軍幼年学校にて仙台陸軍幼年学校の開校準備にあたる。同.4.1仙台陸軍幼年学校長に就任。同.8.2少将に進級した。
 '38.12.2歩兵第36旅団長となり、'39.2.13日中戦争に応召。南昌作戦に参加、以降、同.9.28まで武寧、漢口、大連を転戦。同.10.2中将に昇進し、関東軍附となり満州に移った。 同.11.6ノモンハン事件後の小松原道太郎中将の後任として、第23師団長に親補され師団の再建に尽力した。'41.3.1参謀本部付となり、同.3.20帰朝。同.4.28待命、同.4.30予備役となる。同.7.19満蒙開拓青少年義勇軍の初代訓練本部長。
 '45.4.15太平洋戦争末期に召集され、最後の陸軍戸山学校長を務め、同.8.12津連隊区・津地区司令官となり津市に赴くも、同.8.15終戦を迎えた。正3位 勲4等 功3級金鵄勲章 。老衰にて逝去。享年89歳。

<帝国陸軍将軍総覧>
<日本陸軍将官総覧>
<「井上立士 年譜・書誌稿」 外村彰>


墓所 墓碑 寝石

*墓所正面に「井上家之墓」。裏面は「昭和十七年五月 井上政吉 建之」と刻む。墓石右側に井上政吉の墓碑が建つ。正面は「修練院殿武徳一貫大居士 / 修徳院殿政室智音禅定尼」、左面に井上政吉と妻(室)初音の俗名と没年月日が刻み、井上政吉は「台二十三師団長 陸軍中将 正四位 勲二等 功三級」と刻む。墓石左側に井上立士の墓碑が建つ。正面は「立正院禅岳彗定居士」、裏面に「立士」とあり没年月日と行年が刻む。その左手前に「陸軍大尉井上正三之碑」と正面に刻む墓碑が建つ。裏面は「昭和十六年五月二十九日 戦闘機空中訓練中 満州国牡丹江省 被河鎮附近に於て殉職す。行年二十四歳」と刻む。その左手前に墓誌があり、井上正士(政吉の次男で陸軍少佐、朝日生命)、悦子夫妻のみ刻む。墓所右側に仙幼会有志建之の「山紫に水清き」と刻む寝石がある。仙幼会は仙台陸軍幼年学校の卒業生の集いの会のこと。政吉は仙台陸軍幼年学校生徒監主事を務めた経歴がある。

*妻は初音。長男の井上立士(同墓)は『青年芸術派』で活躍した小説家。次男は正士(陸軍少佐で終戦を迎え、戦後は朝日生命に勤める)。三男の正三は'41満州で演習中、搭乗機「隼」が軽爆と衝突し殉職(大尉に昇進)、享年22歳。


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