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あなみ これちか

阿南惟幾

あなみ これちか

1887.2.21(明治20)〜 1945.8.15(昭和20)

昭和期の陸軍軍人(大将)

埋葬場所: 13区 1種 25側 5番

 東京市牛込箪笥町出身。父は明治期の政府軍警部、書記官を務めた官吏の阿南尚(同墓)。父の転勤により東京、大分、徳島を転々とし、徳島中学2年生の時に、父親と親交があった乃木希典に剣道の腕前をほめられ、阿南の父に対しても、「よい御子息を持たれて、御満足じゃろう。 ぜひ軍人になさるがいい」と助言を受けたこともあり、阿南自身も軍人を志し、その年、陸軍幼年学校に入る。
 1900(M33)広島陸軍地方幼年学校卒業を経て、'05陸軍士官学校卒業(18期)。同期に山下奉文(後に大将:16-1-8-6)、甘粕正彦(2-2-16)の兄の甘粕重太郎(中将)、井上政吉(後に中将:20-1-18-12)、大島浩(後に中将:14-1-2-3)、小泉恭次(後に中将:22-1-50)、澤田茂(後に中将:4-1-26-2)、常岡寛治(後に中将:10-1-4)、内藤正一(後に中将:9-1-19)、飯塚朝吉(後に少将:3-1-25)、石井善七(後に少将:12-1-13-13)、後藤廣三(後に少将:9-1-5)、山中峯太郎(後に作家:14-1-8-7)らがいた。 学生時代は常に平凡で優等生ではなかったが、いつも自分が現在ある以上に、道徳的にも、知的にも、優れた人物になろうと志し、誠実と勤勉な性質と、目的に向かって全力を傾注する熱意をもって取り組んだ。 '06歩兵少尉となり、'08中尉、'10陸軍中央幼年学校生徒監となる。生徒監は普段の学科以外の生徒の日常生活の指導に当たるもので、人格的に信頼できる人物でなければならない。 生徒指導に熱心すぎたこともあり、陸軍大学に3度試験に失敗し、4度目にしてようやく合格した。陸大受験資格は中尉までで、大尉になると受けられなく、翌年大尉昇進予定であったため、最後のチャンスにて入学できたのである。 '16(T5)大尉。'18陸軍大学卒業(30期)。同期に石原完爾(中将)や古荘幹郎(20-1-18-11)の弟で優等で期待されたが歩兵大尉で没した古荘陸生らがいる。
 '19参謀本部附・部員、'22少佐、'23サガレン州派遣軍参謀、'25中佐、'26軍令部参謀、'27(S2)フランス出張、歩兵第45連隊附、'28歩併第45連隊留守隊長、'29侍従武官、'30大佐に昇進し、'33近衛歩兵第2連隊長を歴任した。 '34東京陸軍幼年学校長の際に、二・二六事件が起こり、これに関して全校生徒への訓話で「農民の救済を唱え、政治の改革を叫ばんとする者は、まず軍服を脱ぎ、しかる後に行え」と反乱部隊の不法を説き、その影響を受けることがないようにと諭し、軍人は政治にかかわるべきでないと伝えたという。 '35少将に昇進。将官になるためには、大体、陸大卒業の時の成績が基準になるが、それ以外に、普段の勤務状態、上官の評価、周囲との折れ合い、私生活の清潔か否かが運を左右する。 陸士・陸大で最優等生でなかった阿南が将官になれたことは、普段の修養と努力と向上心によって、人々の信頼をかち得る人物となったことを物語っている。
 '36陸軍省兵務局長、'37陸軍省人事局長、'38中将となり、第109師団長に補せられ、支那の山西省太原へ出征した。51歳にして軍人として初めて実戦の場に立ったのである。阿南師団は山西軍主力殲滅作戦を敢行した。 これは作戦の妙を極めたもので、約五個大隊の兵力をもって山西軍四個師団を包囲し、連続攻撃を加えて、ほとんど敵主力を殲滅するという戦果をあげた。さらに2000人の捕虜に対する処置も、極めて寛大で、むしろ友人を迎えるという風でさえあったという。 捕虜が到着した時は、食料、甘味品、タバコ、酒まで十分に贈り、戦死した部下の慰霊祭を施行するときは、敵軍戦死者の供養塔も立てることも忘れなかったという。 第109師団長在任十一ヶ月ののち、'39参謀本部附・陸軍次官に任命され、日本に帰還。'40.4.29勲一等旭日大綬章、功三級金鵄勲章を授章。 東条英機陸軍大臣とそりが合わず、'41.4.10第11軍司令官を拝命して支那へ赴いた。半年後、東条英機が内閣を組織し太平洋戦争が始まる。'42.7.1第2方面軍司令官、'43.5.1大将。'44.12.26航空総監兼軍事参議官。'45.4.7鈴木貫太郎内閣の陸軍大臣に就任した。 前陸軍大臣は杉山元(15-1-3-11)。鈴木貫太郎が侍従長時代に、阿南は同じ昭和天皇に従う侍従武官をしていた縁もあり、鈴木が阿南を大臣に抜擢したとされる。
 鈴木貫太郎内閣は太平洋戦争末期の'45.4に昭和天皇の懇願により組織された内閣であり、終戦工作を軸においていたが、阿南は梅津美治郎参謀総長とともに最後まで本土決戦を主張した。ポツダム宣言の受諾をめぐる御前会議では国体護持の立場から条件付き受諾を主張し、東郷茂徳外相らと対立。 8月14日、最後の閣議へ向かう時に阿南は「軍を失うも、国を失わず」とつぶやいたという。終戦詔書の原案の起草は迫水久常(9-1-8)内閣書記官長が作成。なお詔書の最後に鈴木内閣の岡田忠彦(15-1-1)厚生大臣、太田耕造(22-1-44-17)文部大臣などの各大臣が副署した。 最終的には昭和天皇の終戦の意志が固いことを知り同意、副署し、長かった十五年戦争に終止符を打ったのである。8月14日午後11時であった。
 8月15日午前7時15分、ポツダム宣言の最終的な受諾返電の直前に陸軍官邸において自決。享年58歳。自らを軍人への道を開いてくれた乃木大将を手本として割腹自殺した。 義弟の竹下正彦陸軍中佐と井田正孝陸軍中佐が自決に立ち会った。衛生課長の出月三郎大佐の鑑定では、「下腹部臍(へそ)下一寸の所に左から右へ引いた創があった」。 割腹から絶命までに時間がかかったのは頚動脈が切れていなかったためであった。8月15日夜、市ヶ谷台の海軍重砲西側で、阿南の遺体は茶毘に付された。
遺書と辞世の和歌が半紙に書かれていた。

遺書 『一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル 昭和二十年八月十四日夜 陸軍大臣阿南惟幾 神州不滅ヲ確信シツツ』。

辞世の句 『大君の 深き恵に 浴(あ)みし身は 言ひ遺こすへき 片言(かたこと)もなし 昭和二十年八月十四日夜 陸軍大将惟幾』

 辞世の句は'38第109師団長として支那に出征する際、昭和天皇に呼ばれ二人だけで夕食をとられたことを感激して作った和歌である。
 陸軍軍人たちは8月15日正午の昭和天皇の玉音放送のポツダム宣言受諾が伝えられ、同時に阿南の自刃を知ったのである。 全軍の信頼を集めている阿南の切腹は最も強いショックを与え、結果、徹底抗戦や戦争継続の主張はピタリとやみ、終戦の現実を受け入れる劇的な効果をあげた。 なお、8月14日深夜に始まった陸軍クーデター(宮城事件)は未遂に終わったが、戦後、主戦論を唱えていた阿南がこれの首謀者であったのではないかや、本心は終戦であったが陸軍を押さえるために表向きに戦争継続を主張していたにすぎないという諸説あり、戦争史研究の分野において意見が分かれるところである。

<コンサイス日本人名事典>
<帝国陸軍のリーダー総覧>
<日本帝国最期の日>
<「一死、大罪を謝す 陸軍大臣阿南惟幾」角田房子>


墓地 碑

*墓所内正面に三基の墓石が建ち、右から尚、惟幾、惟敬。尚は惟幾の父で、維新・明治期の内務省官吏。惟敬は惟幾の次男で防衛大学教授を務めた。 墓所入口右側に惟幾の三男で'43太平洋戦争にて戦死した惟晟(陸軍少尉)の墓。入口左側には惟幾の辞世の句碑が建つ。

*辞世の句碑の裏面には下記が刻む。「故 大将追慕の念已み難く 友人舊部下教へ子親威相集り 卿を同じくする朝倉文夫氏に嘱して 之の碑を建つ 昭和二十八年八月十四日」

*惟幾の妻は陸軍中将の竹下平作の次女の綾子。綾子は昭和20年8月14日三男の惟晟が'43.11.20中支常徳作戦で戦死したことを、戦友の訪問により知り、翌日の8月15日、夫である惟幾の自決を聞くことになった。 戦後しばらくし、綾子は出家し、長野県で戦没者の菩提を弔う余生を送った。なお、長男は早世、四男の惟正は新日本製鐵副社長、太平工業株式会社会長・社長、靖国神社氏子総代となった。 五男の惟道は野間家へ養子、第5代講談社代表取締役社長となる。六男の惟茂は外務省アジア局長・駐中国大使。義弟に(妻の姉弟)に、陸軍中将中西良介、惟幾の自決を見届けた竹下正彦陸軍中佐がいる。

*靖国神社遊就館に血染の遺書や自決時の軍服が展示されている。防衛省(東京都新宿区)に阿南惟幾荼毘の碑がある。また、広瀬神社(大分県竹田市)に陸軍大将阿南惟幾顕彰碑が建つ。



第130回 世紀の自決 阿南惟幾 お墓ツアー
一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル


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