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すぎやま はじめ

杉山 元

すぎやま はじめ

1880.1.1(明治13)〜 1945.9.12(昭和20)

大正・昭和期の陸軍軍人(元帥)

埋葬場所: 15区 1種 3側 11番

 福岡県小倉市(北九州市)出身。教育者の杉山貞(ただす)の子として生まれる。
 1900.11.21(M33)陸軍士官学校卒業(12期)。同期に杉山元(後に元帥:15-1-3-11)、畑俊六(後に元帥)、小磯国昭(後に大将・首相)、岩越恒一(後に中将:13-1-26)、毛内靖胤(後に中将:9-2-2-5)、柳川平助(後に中将:15-1-9)、岩田恒房(後に少将:12-1-13)、岡 千賀松(後に少将:23-1-2)、作田徳次(後に少将:7-2-32-2)らがいた。'01.6.25歩兵少尉に任官。日露戦争に中尉で出征。'04.10.8 沙河会戦の一部として行われた本渓湖付近の戦闘でロシア軍の銃弾が杉山の額に命中する。驚くべきことに小豆大の傷をつけただけの軽傷ですむ。敵との距離が2,3千メートルの距離からの流れ弾であったため即死や失明を免れた。しかし、傷痕は後まで残り、さらに右目が大きく開かなくなるという後遺症をもたらし、杉山の風貌に特徴を与えることとなった。負傷後も戦場に留まり続け、大尉・中隊長に昇進して凱旋。
 陸軍大学に入り、'10.11.29 陸軍大学校卒業(22期)。同期に西尾寿造(後に大将:16-1-8)、橋本虎之助(後に中将:13-1-7)、広瀬猛(後に中将:11-1-8-8)、三毛一夫(中将:4-1-35)、水町竹三(後に少将:13-1-6)、長谷部照(少将:19-1-13)らがいた。
 日露戦争での勇ましい青年将校時代とは対照的に、杉山につけられたあだ名は「グズ元」。これは太平肥満な容貌とスローモーな感じからきたあだ名のようである。他にも「便所のドア」というあだ名もあり、これはどちらにも開く八方美人という意味。戦後に参謀総長がグズでは勝てなかったのも仕方がないと酷評がなされたこともあり、昭和天皇の評価も低かったようだ。部下の言いなりにロボットと散々な言われようであるが、参謀総長・陸軍大臣・教育総監の陸軍三長官を務めたのは、日露戦争で活躍した上原勇作と杉山だけである。とにかく無能と評されがちな杉山の実像は、巧緻な世渡り上手でもある。几帳面で万事に抜かりのない性格と評されている。
 陸軍大学卒業後、情報将校になる。いわゆるスパイ。'12 海軍軍令部員と共に、商社マンに扮してフィリピン・マニラに潜入して諜報活動を行う。日本海軍の練習艦隊がマニラを訪れた際には、海軍少尉になりすましてアメリカ海軍の軍港を視察している。
 '15(T4)インド駐在武官となり、この時の縁で、インド独立運動家のラス・ビハリ・ボース(1-1-6-12)、スバス・チャンドラ・ボースの日本招致や太平洋戦争中の対印工作に関与した。当時のインドはイギリスの植民地であったため、イギリス陸軍を研究。'18 帰国直後に中東戦線も視察。杉山は陸軍きってのイギリス陸軍通であった。
 一方、杉山は航空の先駆者という顔もある。国際連盟空軍代表随員として出席。参謀本部員として空中偵察技術を習得。'18 陸軍飛行第2大隊長となり、'22 初代陸軍省軍務局航空課長、翌年には軍事課長として陸軍航空の育成を行政面から支援。これらから陸軍航空隊育ての親と称されている。
 '24 陸軍大臣をつとめた宇垣一成(6-1-12-2)に重用され、'28(S3)陸軍省軍務局長に就任。宇垣軍縮の失敗やクーデター未遂事件「三月事件」にも関与するも、八方美人的な特性から華麗に切り抜け、満州事変勃発時には陸軍次官として「正当防衛」声明を発表した。
 '32 久留米第12師団長に親補され、陸軍航空本部長を経て、'34 参謀次長 兼 陸軍大学校校長に就任。'36 二・二六事件では青年将校らの要求を拒否し、反乱鎮圧を指揮した。事件後には教育総監、同年に陸軍大将となり、梅津美治郎、東條英機ら統制派中枢に担がれる形で陸軍の重鎮への道を歩む。'37 林銑十郎(16-1-3-5)内閣の陸軍大臣になり、第一次近衛内閣でも陸軍大臣を留任。盧溝橋事件では強硬論を主張し、日中戦争では短期終結の見通しを立て、拡大論を唱え全面戦争化を推し進めた。'38 北支那方面軍司令官・軍事参議官。'40.10-'44.2 参謀総長を務め、太平洋戦争の開始と遂行にあたった。この参謀総長時代の記録は「杉山メモ」として残されている。
 ちなみに日米開戦前、昭和天皇に戦争の見込みを尋ねられた際に、楽観的な予想で答え、逆に日中戦争の楽観的な予想が外れたことを突っ込まれ、思わず「支那は広い」と答えたところ、昭和天皇から「太平洋はもっと広いぞ」とやりかえされて返答に困ったというエピソードがある。そんな昭和天皇でさえ恐れない都合のよい参謀総長は、'43 元帥に昇進。太平洋戦争では東條失脚に伴い小磯内閣で陸軍大臣に再度就任し、終戦時は第一相軍司令官として表向き本土決戦準備を行いつつ終戦を迎えた。
 終戦後もすぐに自決せず、終戦直後に療養先から自宅に戻ってきた妻の啓子に「自決すべき」と迫られたとされる。終戦の日に遺書を書き上げ自決の覚悟もしていたようであるが、これを妻に明かしたのは23日になってからであった。終戦処理を終えた 9月12日朝、部下から拳銃を受け取った後、司令官室に入った杉山は、暫くして突然ドアを開き緊張してドアの外で待っていた第53軍高級参謀・田中忠勝大佐に「おい、弾が出ないよ」ととぼけて言った。田中大佐が安全装置を外してやるとそのまま部屋に再び入り、胸を4発拳銃で撃ち抜き自決した。享年65歳。この自決の報を自宅で聞いた夫人は「息を引き取ったのは間違いありませんか?」と確認した後、正装に着替え仏前で青酸カリを飲み、短刀で胸を突き刺し自決して夫の後を追った。
 杉山の副官だった小林四男治中佐と、参謀だった田中忠勝大佐の戦後の回想によれば、杉山は敗戦直後に自決を決意し、御詫言上書という遺書も用意していたが、終戦の混乱処理と第1総軍復員処理のため、延び延びとなっていた。杉山夫人は自らも国防婦人会の役員であったことから自決を決意し、疎開先から東京に戻ってきていた。12日の朝、田中参謀は杉山に呼び出され、「自分は本日自決するが、家内も同時に家で自決することになっている。しかし、若い娘(杉山夫妻には子供は無かったが養女がいた)のために家内には生き残ってもらいたいので、小林副官とも相談してなんとか家内の自決を思いとどまらせてほしい。自分はその翻意を聞いてから自決する」と言われ、田中参謀は小林副官と相談の上、杉山夫妻と家族ぐるみの親交があった小林副官が車を飛ばして杉山邸に駆けつけ、杉山夫人の翻意を促したが、夫人の意思は固く、小林副官は杉山に翻意させることが失敗したこと、しかし軽挙はしないと思う旨の報告せざるを得なかった。その後杉山は自決したが、結局夫人も後を追うことになった。

<コンサイス日本人名事典>
<帝国陸軍将軍総覧>
<日本陸軍将官総覧>
<太平洋戦争秘録 日本陸軍指揮官列伝>


すぎやま はじめ 墓誌

*墓所正面に五輪塔が二基並ぶ。右の五輪塔が杉山元、左の五輪塔が妻の杉山啓子。台座にそれぞれの名前が刻む。真ん中に杉山元の略歴等が刻む墓誌碑が建つ。裏面「昭和三十二年九月十二日」とあるため、二人の13回忌に建てたことがわかる。建設者として遺子 杉山裕子、裕子の夫の小林篤、遺友 立花良介、久世の名が刻む。杉山元と啓子には子どもが恵まれなかったため、裕子を養女として迎えていた。なお墓所右側に「杉山家先祖代々之墓」、裏面「昭和五十年五月建之」。


杉山啓子(すぎやま けいこ)
生年不詳〜 1945.9.12(昭和20)
陸軍元帥杉山元の妻
 杉山元は1945(S20)8月15日御詑言上書を認めると、9月12日第一総軍司令官室において自決した。 言上書の内容は数百万の将兵の生命と巨億の国費を費やし、さらに家屋、家財を失い、宸襟を悩まし、その罪は万死するも及ばないというものだった。啓子は元の自決を確かめると自宅に帰り、あとを追って自刃した。乃木希典夫妻の自刃に比すべきものといわれている。
 付け加えだが、杉山元は自殺を図った拳銃の引き金がひけないと聞きに行き、安全装置をはずしてもらいやっと事を遂げたのに対し、妻の啓子は短刀一突きで事を遂げたという逸話が残る。

<日本女性人名辞典など>



第434回 杉山メモ と 元帥の自決 グズ元は世渡り上手 杉山元 お墓ツアー


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