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みずまち たけぞう

水町竹三

みずまち たけぞう

?〜 1958.1.9(昭和33)

大正・昭和期の陸軍軍人(少将)

埋葬場所: 13区 1種 6側

 佐賀県出身。1898.11.25(M31)陸軍士官学校卒業(10期)。同期に松木直亮(後に大将:10-1-4-19)、西義一(後に大将:11-1-20)、川田明治(後に中将:22-1-79)、齋藤義夫(後に中将:7-2-32)、村瀬文雄(後に中将:22-1-81)、長尾穂次(後に少将:26-1-37)、本庄庸三(後に少将:13-1-25)らがいた。 翌年、歩兵少尉に任官。1910.11.29陸軍大学校卒業(22期)。同期に杉山元(後に元帥:15-1-3-11)、西尾寿造(後に大将:16-1-8)、橋本虎之助(後に中将:13-1-7)、広瀬猛(後に中将:11-1-8-8)、長谷部照俉(後に少将:19-1-13)、長尾穂次らがいる。
 様々な要職を歴任し、'16(T5)駐米武官となる。'18.3.27歩兵第10連隊付、'19.11.30教総付(臨時軍事調査委員)、'20.2.25大佐に昇進した。 '22.1.10近衛歩兵第3連隊長、'23.3.17第12師団参謀長を経て、'24.2.4少将に累進し、歩兵第5旅団長となる。
 '26.3.2満州独立守備隊司令官に就任。在任中の'28.6.4張作霖爆殺事件が発生。このテロ事件に対して、昭和天皇は事件の真相を究明するよう伝えるが、'27陸軍は、わずかに警備上の手落ちを理由として、軍司令官以下の行政責任追及にとどめた。 処分は官報には掲載せずに陸軍内の処罰に止め、事件の真相調査の公表を避けた。白川陸相が陸軍の処分の決定を上奏し、同.6.27田中義一(6-1-16-14)首相も関東軍は爆殺には無関係、警備上の手落ちによる責任者の処分の旨を上奏、しかし、前の話と違うと昭和天皇は田中を叱責。 同.7.2田中内閣は総辞職。なお、この時の行政処分は、首謀者(戦後になり公となる)である河本大作陸軍歩兵大佐を停職、村岡長太郎(7-1-1-1)関東軍司令官を依願予備役、斉藤恒前関東軍参謀長を譴責、水町竹三も譴責とする行政処分を受けた。 水町は帰朝中そのまま同.8.1待命、同.8.31予備となった。のち'32.4.1満州国中将になっている。

<帝国陸軍将軍総覧>
<日本陸軍将官総覧など>


*墓石は和型「水町家之墓」。墓誌があり、俗名、続柄、没年月日が刻む。前妻はクカ、後妻はサナヱ。長男の水町勝城は終戦時陸軍第6航空軍作戦主任参謀の陸軍中佐で、戦後は航空自衛隊空将。勝城の妻の俊子(2006.9.13没)は陸軍中将の川岸文三郎(3-1-24)の娘。

*譴責(けんせき)=規則に反した者や信用失墜行為を行った者などに対し、始末書を書かせて提出させ、戒めること。官吏に対する一番緩い叱責であり、法令上では戒告として扱われる。


【張作霖爆殺事件】
 別名を「奉天事件」、「皇姑屯事件」、「満洲某重大事件」と言う。奉天軍閥の指導者の張作霖が暗殺された事件である。
 1928.6.4(S3)張作霖は蒋介石の北伐軍に押されて北京を去り奉天に向かう途中、瀋陽駅(奉天)に入る直前に、列車ごと吹き飛ばされて爆殺された。 日本の田中義一首相や陸軍は北伐軍のしわざと発表したが、終戦後、この陰謀は当時の関東軍参謀河本大作陸軍歩兵大佐が行ったもので、張作霖が日本依存の政策を英米依存に切り替える動きがみえたため、実行したことが明らかになった。

<日本史小辞典>


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