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むらおか ちょうたろう

村岡長太郎

むらおか ちょうたろう

1871.12.12(明治4.11.1)〜 1930.8.19(昭和5)

明治・大正・昭和期の陸軍軍人(中将)、張作霖爆殺事件

埋葬場所: 7区 1種 1側 1番

 佐賀県出身。士族村岡定延の4男。1894.7.27(M27)陸軍士官学校卒業(5期)。同期に金谷範三(後に大将:1-1-2-20)、吉田豊彦(後の大将:9-1-8)、木村戒自(後の中将:7-2-32)、田村守衛(後の中将:1-1-2-22)、津野一輔(中将:3-1-22-1)らがいた。 同.9.18少尉に任官し、歩兵第13連隊附。1902.11.28陸軍大学校を優等で卒業(16期恩賜)。同期に久邇宮邦彦王や木村戒自、河西惟一(後の中将:16-1-17-55)、大竹澤治(後の少将:2-1-4-14)らがいた。歩兵第13連隊中隊長となり、'03参謀本部員出仕仰附。'04韓国派遣、第1軍参謀、参謀本部部員仰附、日露戦争では第2師団参謀として出征した。
 '07陸軍大学校教官教官、'11.3参謀本部員となり、同.12トルコへ出張。'12(T1)第1次バルカン戦争でトルコ軍に従軍した。'13.11.11歩兵第29連隊長に就任し、同.11.15大佐に昇進。 '15.2.15教育総監部第2課長、同.8.11第1課長を歴任し、'18.7.24少将に累進し、教育総監部附(臨時軍事調査委員長)、'21.1.6陸軍歩兵学校校長を経て、'23.8.6中将に進級して、第4師団長に就任した。'25.12.1正4位。
 '27.8.26(S2)関東軍司令官となり、'28.4.19北伐が再開されると、居留民保護のために第二次山東出兵を強行決定し、5.3済南事件が起こった。 村岡は国民党軍の北伐による混乱の余波を防ぐためには、奉天軍の武装解除および張作霖の下野が必要と考え、関東軍を錦州まで派遣することを軍中央部に強く要請していたが、最終的に田中義一(6-1-16-14)首相は出兵を認めないことを決定した。 そこで村岡は張作霖の暗殺を決意したとされる。関東軍参謀の河本大作大佐は、初めは村岡の発意に反対したが、後に独自全責任をもって決行したという。また、河本大作を満洲に送り込んだのは一夕会の画策であったと後に土橋勇逸(21-1-14)は証言している。
 '28.6.4張作霖爆殺事件(満州某重大事件)が実行された。このテロ事件に対して、昭和天皇は事件の真相を究明するよう伝えるが、陸軍側は、わずかに警備上の手落ちを理由として、軍司令官以下の行政責任追及にとどめた。 処分は官報には掲載せずに陸軍内の処罰に止め、事件の真相調査の公表を避けた。白川陸相が陸軍の処分の決定を上奏し、'29.6.27田中首相も関東軍は爆殺には無関係、警備上の手落ちによる責任者の処分の旨を上奏、しかし、前の話と違うと昭和天皇は田中を叱責。 同.7.2田中内閣は総辞職(天皇からの叱責で狭心症が強まり田中は同.9.28急逝。以後、昭和天皇は政府の方針に不満があっても一切口を挟まないことを決意したという)。 なお、この時の行政処分は、村岡は張作霖爆殺事件の責任を取って依願予備役編入で引退、首謀者(戦後になり公となる)である河本大作陸軍歩兵大佐を停職、斉藤恒前関東軍参謀長を譴責、満州独立守備隊司令官であった水町竹三(13-1-6)は譴責とする行政処分のみ。
 '28.8.29勲1等瑞宝章。同.12.15従3位。'29.7.1張作霖爆殺事件の責任を取り予備役編入させられ引退。同.7.24正3位。翌年、急逝。享年58歳。正3位勲1等功4級。

<帝国陸軍将軍総覧>
<日本陸軍将官総覧>
<コンサイス日本人名事典>
<講談社日本人名大辞典など>


*墓石は和型「村岡長太郎之墓」。



第457回 張作霖爆殺事件 黒幕 村岡長太郎 お墓ツアー


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