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たむら もりえ

田村守衛

たむら もりえ

1871.4.7(明治4.2.18)〜 1923.6.12(大正12)

明治・大正期の陸軍軍人(中将)

埋葬場所: 1区 1種 2側 22番

 山梨県東山梨郡相興村中尾(笛吹市一宮町)出身。宮司の田村義事の子。長兄は“今信玄”の異名で呼ばれた陸軍中将の戦略家である田村怡与造、次兄は実業家の田村濤二郎で、濤二郎の四男であり甥の田村義冨は太平洋戦争でグアムで玉砕した陸軍中将、三兄の田村沖之甫も陸軍中将として活躍した。
 1894.7.27(M27)陸軍士官学校卒業(5期)。同期に金谷範三(後に大将:1-1-2-20)、吉田豊彦(後の大将:9-1-8)、木村戒自(後の中将:7-2-32)、津野一輔(中将:3-1-22-1)、村岡長太郎(7-1-1-1)らがいた。騎兵少尉に任官。 1901.11.28陸軍大学(15期)を首席で卒業。同期には士官学校同期の金谷、津野の他、岡田重久(後の中将:21-1-5-1)、和田亀治(中将:21-1-13)らがいた。  日露戦争に大本営参謀(途中、少佐から中佐に昇進)として出征し、満州軍参謀に転じた。 黒溝台会戦で、秋山好古支隊が拠点式陣地で防戦一方だった時、満州軍総参謀長の児玉源太郎(8-1-17-1)の命令で、田村がただ一騎様子を診るために向かい、秋山好古はピストルをそばに置き、ブランデーを飲みながら「見てのとおり、無事だ」と言った逸話は有名。
 '13.7.3(T2)関東都督府高級参謀、'14.1.20大佐に昇進。'17.4.5陸大幹事となり、'18.7.24少将に進級。同.8.19騎兵第1旅団長。 '21.7.20 第13代陸軍騎兵学校長、'22.2.8 第22代陸軍大学校長となるが、翌年、在職中に病没。享年52歳。没後、陸軍中将に特進。功4級。

<帝国陸軍将軍総覧>
<講談社日本人名大辞典>
<『坂の上の雲』と司馬遼太郎>


たむら もりえ

*墓石は土饅型。右に「陸軍中将 田村守衛之墓」と刻む石柱が建つ。裏側に墓誌がある。墓誌にも陸軍中将と刻む。俗名と没年月日が刻み、大正十二年六月十二日歿と刻む。多くの人名事典では没年月日を6月13日としているものを散見したが、ここは墓誌の刻みを優先する。

*田村怡与造の墓は青山霊園(1イ21-11)


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