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つの かずすけ

津野一輔

つの かずすけ

1874.1.28(明治7)〜 1928.2.24(昭和3)

明治・大正期の陸軍軍人(中将)

埋葬場所: 3区 1種 22側 1番

 山口県出身。陸軍少佐の津野成章の長男として生まれる。陸軍幼年学校を経て、1894.7.27(M27)陸軍士官学校卒業(5期)。同期に金谷範三(後に大将:1-1-2-20)、吉田豊彦(後の大将:9-1-8)、木村戒自(後の中将:7-2-32)、田村守衛(後の中将:1-1-2-22)、村岡長太郎(7-1-1-1)、景山呈作(後に大佐:21-1-29)らがいた。同.9.18歩兵少尉に任官。日清戦争では近衛歩兵第2連隊付で出征、1895.8台湾で戦傷した。
 1901.11.28陸軍大学卒業(15期)。同期には士官学校同期の金谷、田村の他、岡田重久(後の中将:21-1-5-1)、和田亀治(中将:21-1-13)らがいた。歩兵第39連隊中隊長、陸軍省総務局課員、陸軍省副官兼陸相秘書官などを経て、寺内正毅陸相に仕え、'04から勃発した日露戦争では第5師団参謀として出征した。
 ドイツ駐在、陸相秘書官・陸軍省副官兼陸相秘書官となり、'09.8.1再度、寺内正毅陸相(のち朝鮮総督兼務)の秘書官として仕え、韓国併合(1910)に関与した。同.12.28軍事課員、'11.9.10歩兵第3連隊付、'13.1.15(T2)麻布連隊区司令官、'14.1.20大佐となり、同.5.11近衛歩兵第2連隊長、'16.8.18陸軍省軍務局軍事課長を務めた。'18.7.24少将に進級し、近衛歩兵第2旅団長に就任。
 1918〜22まで戦われたシベリア出兵(ロシアの社会主義革命への干渉戦争)で発生した尼港事件の救援のために、'20.5.12北部沿海州派遣隊司令官となり、東シベリアを転戦していた多門二郎(13-1-10-15)率いる多門支隊と連携した。同.7.29サガレン州派遣軍参謀長として北部樺太占領に従事し、兵士の士気を低下させないための予防策として陸軍初の軍慰安所設置を許可した。

 設置理由は下記二点である。
 1.戦争の目的がわからない戦争であったため、兵士の気持ちが荒れ、そのため、士気の低下と軍記のゆるみがめだち、民家からの家畜・薪の掠奪や強姦事件も少なくなかった。よって軍人による士気の低下を阻止、強姦事件を防止するためという理由。
 2.兵士の性病感染率が高かった。その原因のひとつは兵士などを相手をする芸妓・酌婦の性病感染率が高いことが原因だった。そのため、'20.9.1「芸妓、酌婦取締規則」をつくり、芸妓・酌婦は憲兵隊の許可制とし、憲兵隊の指定した健康診断を受けるよう義務づけた。これは憲兵隊管理の公娼制である。
 '21.6.5軍務局長。同.9.1第16師団付、'22.8.15第23代 陸軍士官学校長に就任した。'23.8.6中将に累進、同.10.10教育総監部本部長となり、'24.1.7陸軍次官に就任した。次いで、'26.7.28近衛師団長に親補され、同.9.25勲一等瑞宝章受章。長州閥において田中義一(6-1-16-14)の後継者として期待されていたが、'28.2.24(S3)近衛師団長在任中に急逝。従3位 功4級。享年54歳。津野没後の陸軍は岡山出身の宇垣一成(6-1-12-1)が自派を拡大し主導していくことになる。

<帝国陸軍将軍総覧>
<日本陸軍将官総覧>
<講談社日本人名大辞典など>


*墓石は洋型「津野家之墓」。裏面に「昭和三年二月二十四日蔓 陸軍中将 従三位 勲一等 功四級 津野一輔」と刻む。

*妻のハツ子(同墓)は長州閥・陸軍中将の岡市之助の娘。息子の津野和敬も軍人の道を歩み陸軍中尉。ハツ子の弟の岡春雄は陸軍大佐、妹のミチ子は陸軍中将の福原佳哉に嫁いだ。なお、福原佳哉も長州閥で、津野一輔とは士官学校で同期である。



第455回 日本軍 慰安所 陸軍初の軍慰安所設置を許可した人物
津野一輔 お墓ツアー


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