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よしだ とよひこ

吉田豊彦

よしだ とよひこ

1873.11.1(明治6)〜 1951.1.10(昭和26)

明治・大正期の陸軍軍人(大将)

埋葬場所: 9区 1種 8側

 鹿児島県出身。薩摩藩士の吉田信之助の長男。第三高等学校(京都大学)に入学するが中退し、1891(M24)士官候補生となり、1894.7.27(M27)陸軍士官学校卒業(5期)。同期に金谷範三(後に大将:1-1-2-20)、木村戒自(後の中将:7-2-32)、田村守衛(後の中将:1-1-2-22)、津野一輔(中将:3-1-22-1)、村岡長太郎(7-1-1-1)、景山呈作(後に大佐:21-1-29)らがいた。同年、陸軍砲兵少尉となり要塞砲兵第1連隊付。日清戦争時は要塞砲兵部隊に転勤し出征せず。陸軍砲兵工学校、要塞砲兵射撃学校を卒業した。
 1899〜1902(M32〜35)ドイツに駐在して軍事研究に従い、帰国後、要塞砲兵射撃学校教官となる。日露戦争には攻城砲兵司令部員、独立重砲兵旅団司令部員として、第三軍の旅順要塞攻撃に従軍した。帰還後は、砲兵少佐に進級し陸軍省副官兼陸軍大臣秘書官に任命された。'07アメリカ差遣、帰国後は陸軍重砲兵射撃学校教導大隊長に就任する。'09中佐の時に、陸軍省軍務局課員となり、'11イギリスに出張。帰国後、陸軍省兵器局課員兼軍務局課員を命ぜられた。'15(T4)大佐となり、兵器局銃砲課長、'18兵器局工政課長、'19重砲射撃学校長に就き、少将。'21兵器局長、'24中将となり、造兵廠長官を歴任。'28.3.8(S3)鈴木孝雄中将の後を受けて陸軍技術本部長に就任した。'30.3.7陸軍大将に進み、同年.4.22勲一等瑞宝章受章。翌年侍命となり、予備役編入となった。軍人としては専ら兵器行政を担当し、技術出身の行政的力量を発揮した偉才と称えられた。
 軍を退いてからは、'34日本製鉄取締役となり、同年勲一等旭日大綬章を受章。その後、満州電業社長や機械化国防協会長を務めた。功四級。享年77歳。次男の吉田又彦は陸士38期で陸軍大佐。

<コンサイス日本人名事典>
<帝国陸軍のリーダー総覧>
<日本陸軍将官総覧>


*墓石は和型「吉田家之墓」、裏面「昭和十三年七月十日 吉田豊彦 建之」。左側に墓誌がある。江戸時代から代々の刻み(最初は寶永元年歿者から)が戒名と歿年月日のみが刻む。俗名や行年が刻まれていない。吉田豊彦は墓誌下段右から二番目に刻み、戒名は清光院殿慣譽至誠豊彦居士。左隣に妻の きん(S44.3.26)で戒名は清操院殿温譽欣室浄戒大姉。きんは陸軍主計少将甲斐敬直の養子。なお、薩摩藩士・大坂蔵屋敷詰吉の豊彦の父の吉田信之助(T1.11.30歿)は墓誌上段一番左に刻み、戒名は至光院達譽信圓居士。


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