静岡県富士市出身。医師の多門信夫の二男として生まれる。陸軍大将の松川敏胤は義兄にあたる。
陸軍幼年学校を経て、1899.11.21(M32)陸軍士官学校卒業(11期)。同期に寺内寿一(元帥)、高橋真八(中将:22-1-39)、馬渕直逸(中将:3-1-3-10)、蘆川良治(少将:3-1-29の2)、梅澤力助(少将:23-1-1)、小野茂幸(少将:25-2-14)、西郷豊彦(少将:14-1-9)、長谷川国太郎(少将:13-1-7)、松田清彦(少将:20-1-7)、西郷従徳(大佐・侯爵:10-1-1-1)らがいた。1900.6 歩兵少尉に任官し歩兵第4連隊附となる。
仙台陸軍地方幼年学校生徒監などを経て、日露戦争には陸軍歩兵第2師団第4連隊小隊長として出征。歩兵第4連隊副官、歩兵第3旅団副官を歴任した。日論戦争では鴨緑江の会戦、摩天嶺の戦闘、様子嶺の戦闘、沙河会戦、黒溝台の会戦、奉天会戦などを戦い凱旋帰国。この時の詳細な戦闘経過とともに、第一線小隊長としての心境を切々と綴った「戦記中の白眉の書」といわれた名著『多門二郎 日露戦争日記』がある。
'09.12.3陸軍大学校卒業(21期)。同期に西義一(後の大将:11-1-20)、古荘幹郎(後の大将:20-1-18-11)、建川美次(後の中将:13-1-2)、林桂(後の中将:7-1-1)、岡千賀松(後の少将:23-1-2)らがいた。
陸士教官、第6師団参謀、歩兵第63連隊附大隊長、'13.8.22(T2)陸大教官を経て、欧州出張。次いで、'20.2.21歩兵第27連隊附、同.2.25大佐に昇格し、同.7.30サガレン州(サハリン州)派遣軍参謀となる。この間、シベリア出兵をし、尼港(ニコラエフスク)派遣隊長・多門支隊長として東シベリアに転戦、救援に向かった。
'21.6.3歩兵第2連隊長、'22.8.15第4師団参謀長を経て、'24.2.4(T13)少将に進級し、歩兵第6旅団長に着任した。同.12.15陸大附、'25.5.1参謀本部第4部長、'27.7.26(S2)陸大幹事を歴任し、'29.8.1中将に累進。荒木貞夫(8-1-17)の跡を継いで、第29代 陸軍大学校校長に就任した。
'30.12.22仙台の第2師団長に親捕せられ、'31.4.7満州に派遣され駐屯、その時に満州事変が勃発した。その際には関東軍主力部隊長としてチチハルや錦州攻略などたちまち南満州鉄道沿線を鎮圧し、吉林に前進、吉林軍主力の武装を解除するなど東奔西走、優勢な敵を撃破し、満州の主要地を占領して戦勝の基を築いた。'31.12.30帰還。
'32.1.7満州事変の活躍で、仙台市民から熱狂的な歓迎を受け、市内の大通りのひとつ「南町通り」は仙台市会の承認を得て「多門通り」と改名された('32〜'45:戦後は進駐軍がメイプルストリートと称したが市民は用いず、後に南町通りに戻す)。翌日、師団凱旋を仙台市民らに迎えられた。東北帝国大学の歴史学者の喜田貞吉は個人の名を冠にすることに反対し、多門の自宅に談じ込み、話を聞いた多門も同意したが、仙台市民の熱烈な歓迎もあり仙台市会の決定が覆ることはなかった。
智勇兼備、戦略家で実戦に強い将軍であり、陸軍大学校の教官、幹事、校長として参謀将校の育成にあたる。また『日露戦争日記』の他にも多くの戦術、戦史書を著述した。主な著書は『戦術実施』『弾雨を潜りて』『軍及師團ノ戰場統帥』『北清事変史要 全』『余ガ參加シタル日露戰役』『征露の凱歌』など多数ある。'33.8.1侍命、同.8.30予備役に編入された。同年仙台市教育会より『多門将軍』が刊行された。翌年逝去。正4位 従3位 勲1等 功2級。享年55歳。