和歌山県出身。父は三高教授などを務めた英語教師の林和太郎(1849‐1936)・千鶴(共に同墓)の11人兄弟の長男。
林家15代目当主。妹の綾子は真宗信徒・共保生命保険社長の堀貞に嫁ぐ。
1901.11.22(M34)陸軍士官学校卒業(13期)。同期に中村孝太郎(後に大将、陸相)、建川美次(後に中将:13-1-2)、広瀬猛(後に中将:11-1-8-8)、大家徳一郎(後に少将:12-1-10)、桜井忠温(後に少将:8-1-15)らがいる。'02陸軍歩兵少尉に任官され、'06陸軍大学に入学。'09卒業(21期)、優等として恩賜の軍刀を授かる。
'18(T7)陸軍大学校教官、'22陸軍歩兵大佐に進み、翌年近衛歩兵第1連隊長となる。'25杉山元(15-1-3-11)の後を継ぎ、陸軍省軍務局軍事課長に就任。
'27(S2)少将となり、歩兵第1旅団長、'28参謀本部第4部長(内国戦史課・外国戦史課の統括)、'29軍事調査委員長(新聞班・調査班を統括)、'30.8.1小磯国昭の後を受け陸軍省整備局長に就任した。
'32.4.11中将。'34.3.5教育総監部本部長、同年.4.29勲一等旭日大綬章を受章。'35.12.2第5師団長に親補される。
'37待命、同年、日中戦争勃発を前に予備役となった。その後は、機械化国防協会中央本部理事を務めた。なお協会長は吉田豊彦(9-1-8)。
'40財団法人皇武会の初代副会長(会長は竹下勇海軍大将)。
これは合気道の皇武館が厚生省の認可をとり法人化したものであり、これにより陸軍大学や憲兵学校で憲兵体術として合気道が正課採用され、加えて、海軍兵・機関学校、民間工業倶楽部などで指導にあたった。
戦後は公職追放され、'52解除後、ディーゼル自動車工業(いすゞ自動車)社長、自動車統制会長などをつとめた。享年80歳。
妻の喜美との間に生まれた長男の林實(同墓)は、軍人を経て官僚となり、未来学者、教育者となった人物。