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こだま げんたろう

児玉源太郎

こだま げんたろう

1852.4.14(嘉永5.2.25)〜 1906.7.23(明治39)

明治時代の陸軍軍人(大将)、政治家、伯爵

埋葬場所: 8区 1種 17側 1番

 周防国都濃郡徳山村(山口県周南市)出身。徳山藩士の児玉半九郎忠碩の長男。1858.10.19(安政3)5歳の時に父の半九郎が幽閉され悶死したため、浅見次郎彦が児玉家の嗣子となる。 3年後に姉の久子が次郎彦と結婚。1864.8.12(元治1)次郎彦が斬殺され、児玉家断絶。1865.7.13(慶応1)児玉家再興を許され、中小姓となる。元服して、源太郎忠精。同年10月に馬廻役となる。
 藩の献功隊士として戊辰戦争に参加。1866.6安芸口の戦いに従軍。1868.9.22(M1)献功隊半隊司令として、秋田方面に向け出陣。同年.11.8青森に滞陣。 1869.4.15函館戦争に従軍、5.2旧幕府軍の夜襲を退ける。8.1フランス式歩兵学修業を命じられ、京都の河東操練所に入所。11.5大阪兵学寮に入る。1870.2.7山口藩兵の乱を鎮圧するため帰国。 6.2兵学寮を卒業、大隊六等下士官。12.3権曹長。1874.2陸軍大尉として佐賀の乱に従軍し負傷。8.28熊本鎮台参謀、10.17岩永マツと結婚、二日後に歩兵少佐に昇進した。 1876.10.24神風連の乱で活躍。1877.2.13熊本城に籠城し薩軍を迎撃、10.6西南戦争終結、熊本に凱旋。翌年、佐賀の乱の功により叙勲、近衛局出仕を命ぜられる。
 1879.7.5近衛局参謀に補される。1880.4.30歩兵中佐となり、東京鎮台歩兵第二連隊長に任ぜられ、佐賀に移る。翌年、陸軍歩兵大佐。 1885.5.26参謀本部管東局長、7月に参謀本部第一局長。1886.3.19臨時陸軍制度審査委員、この年は、臨時衛生事務改正委員、砲兵隊編制審査委員、士官下士官進級下調査委員、軍用電信材料改良委員を務め、陸軍大学校幹事を兼務して、メッケルに学んだ。 1887.6.3(M20)陸軍部参謀長、10.24兼務して陸軍大学校校長となり、ドイツの軍制・戦術の移入紹介につとめた。翌年は陸軍将校生徒試験委員長も兼務した。
 1889.8.24陸軍少将となる。この頃、高利貸のトラブルに巻き込まれる。1891.10.25欧州へ調査出張し、メッケルと再開。1892.8.18帰国し、8.23陸軍次官兼軍務局長。 1893.4.2陸軍省法官部長、出師準備品目数量取調委員長。1894日清戦争開戦前に宇品に通じる鉄道の完成に尽力。戦争時は陸軍省所管事務政府委員、1895大本営陸軍参謀。 下関条約締結後の日本軍引き上げに対して検疫の必要性を唱え、臨時陸軍検疫部長を兼務して、後藤新平を登用、検疫事業に尽力した。 同年.8 日清戦争での功により功3級金鵄勲章、華族に列せられ男爵の爵位を授爵。1896被服装具陣具及携帯糧食改良審査委員長、10.14陸軍中将、臨時政務調査委員長。1897.10清国の威海衛に派遣される。
 1898.1.4(M31)名古屋の第三師団長に補された後、2.26第4代 台湾総督府に任ぜられる。 「私の任務は台湾を治むるにあって、征討するに非ず」という信念を持ち、土匪が横行し悪疫が蔓延する難治の地を、安定した暮らしをもたらすべく民政に注力して、民政局長に後藤新平を起用、台湾経営に尽力。 現地の人々にもその思いが浸透し台湾は劇的な変化を遂げた。1899勲1等瑞宝章。1900孫文支援のため厦門派兵を計画するが中止。12.23第4次伊藤内閣で陸軍大臣を兼務。 1902.2.27旭日大綬章。3.27願い出て桂内閣の陸軍大臣兼務を解かれる。1903郷里の徳山に児玉文庫を設立。同年、欧州・南アフリカ、米国に出張。7.17桂内閣で内務大臣と文部大臣を兼務。1903.9.22文部大臣を免ぜられる。
 10.1日本とロシアが緊張関係であった折、ロシアとの戦いの戦略を練っていた参謀本部次長であった田村怡与造が急逝。 日本の二倍の海軍力を持ち、十五倍の陸軍力を持つロシアに勝つための作戦を立案でき、かつ重責に耐えうる人物として、児玉が注目される。 当時の児玉は内相、台湾総督を兼務する副首相の立場であったが、あえて火中の栗を拾う覚悟で降格人事を自ら課し、10.12参謀本部次長の重責を引き受けた。これに伴い内務大臣を免ぜられる。 以降、日露開戦に備え、渋沢栄一、山本権兵衛の協力を取り付ける。11.21青木宣純大佐に対露後方かく乱を依頼、12.10河野広中と協力し議会解散を図る。 1904日露戦争勃発に際し、2.11大本営参謀次長兼站総監。6.6陸軍大将に任ぜられる。6.20満州軍総参謀長兼台湾総督。7.6東京から満州に向かう。7.15大山巌らとともに大連に入る。 8.25遼陽会戦の指揮を執り、9.4勝利。9.15旅順に向かい、二百三高地攻略に尽力。10.10沙河会戦の指揮を執る。11.29再び旅順に向かう。 12.10旅順艦隊壊滅を見届け、旅順を発つ(翌1.1日本軍は旅順攻略)。1905.3.1奉天会戦の指揮を執り、3.10勝利。3.28講和工作のため、帰京。5.11満州総兵站監を兼務。5.20奉天に戻る。 5.27日本海海戦で日本軍が勝利し、6.12日露講和交渉が開始される。7.31児玉の発案により、樺太占領。9.5ポーツマス講和条約が締結。12.7東京に凱旋。12.20参謀本部次長事務取扱。なお、日露戦争の戦功により子爵。
 1906満州経営推進委員会委員長。4.11台湾総督を免ぜられ、参謀総長を任ぜられる。5.22満州問題に関し伊藤博文と激論。7.14南満州鉄道株式会社設立委員長。 7.22後藤新平と会談をした翌日に、脳溢血で自宅にて逝去。享年55歳。功績により功1級金鵄勲章、桐花大綬章を賜わり、正2位に敍せられた。没五日後に激しい雨の中で葬儀が営まわれた。 最初、青山墓地に葬られたが、後に多磨霊園に改葬。なお、'07(M40)源太郎の功および長男の忠雄の功で伯爵を授けられた。

<コンサイス日本人名事典>
<歴史と旅 帝国陸軍のリーダー総覧>
<歴史街道2011.3 児玉源太郎など>


【徹底検疫】
 1895年(M28)、日清戦争終結とほぼ同時に、凱旋将兵二十三万人の検疫を行った。実は戦死者の九割は伝染病によるもので、将兵を消毒せずにそのまま帰国させるわけにはいかなかったのだ。 児玉源太郎は検疫部長を務め、医務責任者に後藤新平を抜擢した。ドイツ皇帝ヴィルヘルム二世は「日本は軍隊も強いが文明にも強い」と言わしめることになる前代未聞の大事業に挑んだ。
 日清戦争中の児玉は陸軍次官、軍務局長を兼ねていた。後藤は中央衛生会委員であった。日清戦争の日本軍勝利の展望が高まり、将兵の帰国が話題になるに伴って、広島の大本営では深刻な問題が浮上した。 凱旋兵士の体を汚染しているはずのコレラ、痘瘡(とうそう)、腸チフス、赤痢などの伝染病のばい菌である。戦場の劣悪な環境は伝染病を蔓延させる。 凱旋兵士がそのまま戻ってくれば、一般国民に伝染して底知れぬ災害をもたらす恐れがあった。将兵を乗せた軍艦や輸送船が接岸する前に検疫と治療、消毒の強力な水際作戦を展開しなければならない。 陸軍軍医総監で野戦衛生長官の石黒忠眞が検疫施設の必要性を説き、広島の大本営に臨時陸軍検疫部が設置され、児玉が検疫部長を兼務することとなった。 石黒の推薦で後藤を紹介され、児玉も後藤を気に入ったが後藤が承諾しなかった。文官の身分のまま検疫部の事務官長となっても、部下の軍人は抵抗し反発することが予想できたからであった。 児玉は躊躇する後藤に、既成の官制に人間を合わせるのではなく、人間に合わせて新しい官制を作ることを提案し、後藤も承諾。3月14日「臨時陸軍検疫部官制」を設立し、児玉が部長、後藤は事務官長となって臨時陸軍検疫部が発足した。
 広島沖の似島(にのしま)、下関に近い彦島、大阪郊外の桜島の三か所に検疫所を建てる計画で、7月1日から検疫業務を行うと規定した。 ところが、下関講和会議が殊のほか早く終わる見通しとなり、それに伴い凱旋期日も早まったことで、一か月繰り上げて検疫開始を6月1日にせよと指示が出た。 敷地を整地して建物を建てるのと、建物で使う蒸気消毒ボイラーの製作が同時に行われ、後藤も職工も不眠不休の突貫工事を強いられた。五月初めに、後藤は似島と桜島の検疫開始は6月1日、彦島は6月5日と発表。
 検疫部を官制としても後藤に対する軍人たちの嫌がらせはやまなかった。官制により表向きに妨害できないため、嫌がらせはかえって執拗となった。 後藤批判に対して児玉は後藤に従う指示をだし、叱咤し沈黙させるも、児玉よりも軍人序列が高い将軍が凱旋した際に検疫に応じない不安があった。そこで児玉は名案を考えた。 5月20日、凱旋第一陣として小松宮彰仁親王を乗せた船が下関に入港した。児玉は真っ先に乗船し、親王に拝謁を求めた。「殿下に病菌が付着しておる恐れがあります。 そのままのお体で主上に戦勝の報告をなさるのは畏れ多いと存じます。私どもは将兵の検疫と消毒をしておりますが、殿下はいかがなされますでしょうか」。親王はすぐに承知し検疫を受けた。これが上級軍人に伝わり、否応なく検疫を受ける結果となった。
 6月1日、予定通りに似島で検疫が開始されたが、装置に故障が生じたため作業に取り掛かれなくなる。輸送船がどんどん到着するが、将兵は上陸できず。 将兵の不満と焦燥に児玉、後藤批判の声が重なって今にも爆発しそうになったが、「事を急いで失敗するのは最悪である、施設の完成を優先すべし」と児玉は後藤を激励。二週間遅れで検疫開始。ほぼ二か月で大検疫作業が終了した。船686艘、人員23万2千346人の消毒、物件90万個の世界初の大検疫であった。

<歴史街道2011.3 児玉源太郎 著:高野澄>


【台湾の近代化】
 1898(M31)、児玉源太郎は第4代台湾総督に就任。徹底検疫でタッグを組んだ後藤新平を再び右腕とした。「私の任務は台湾を治むるにあって、征討するに非ず」と台湾の近代化に取り組んだ。 まず、上下水道と病院を設置して衛生面を改善、斡旋道路・鉄道・港湾など交通網を整備、さらに製糖業、林業など基幹産業の復興に努めた。 そこに欧米的な搾取の思想はなく、近代化によって日本、そしてアジア全体の力を高めようとしたのである。児玉の姿勢は現地の人々からも支持され、台湾は奇跡的な発展を遂げる。

◆衛生面:台北に台湾総督府学校を創設して医師の育成に励むとともに、主要都市に総督府病院を設置。医療水準向上と疫病防止策があいまって、平均寿命は著しく伸張した。台北では水源地が築かれ、上下水道が整備される。

◆交通面:台湾の北端・基隆と南端を結ぶ台湾縦貫鉄道を敷設。台北では三線道路が整備されるなど、道路整備も進展した。

◆農業面:製糖業が基幹産業に位置づけられ、各地に製糖工場が建設される。また農業復興のため、嘉南大しん開発(灌漑施設)の計画を立て、後に一大農業地帯となる。基隆港、高雄港を構港して貿易振興も図った。

◆治安面:土匪の首領に自分の考えを切々と説き恭順させた。帰順した土匪には道路工事の仕事を与えるなどして治安向上を図った。また折を見ては諸方を巡回し、各地の有力者や古老と積極的に交流。児玉の真意が伝わり協力的に。

◆制度面:保甲制度(台湾独自の近隣を助け合う隣保制度)を継承。住民の自治制度、戸籍の整備、住民出入りのチェック、公衆衛生への責任、道路交通の安全に役立つ。

◆財政面:当初、台湾経営は年間700万円近くの財政赤字を出し、日本の国庫から補填されていた。しかし、交通整備・産業振興によって台湾の独自収入が激増し、児玉が退任する前年の1905(M38)には、実質的な黒字化となって、財政面での独立を果たした。

 台湾の発展は「宥和」と「信頼」の上に作り上げられていった。児玉は、軍隊が前面に出た統治ではなく、地元の人々との宥和を強調した。 1899「饗老典」(きょうろうてん)を催し、80歳以上の老人を介添え人とともに招いて、昼食を取りながら芝居や音楽を楽しみ、記念品を贈る敬老会を実施。 1900には「揚文会」を開催し、全島の秀才や有識者を招待した。こうした人心の機微を重んじた児玉の、極め細かい宥和への努力によって、台湾の人々は少しずつ心を開き信頼を深めていった。

<歴史街道2011.3 児玉源太郎 著:江宮隆之>


【日露戦争 児玉プロデューサー】
 あのナポレオンでも勝てなかったロシアは無敵だった。そのロシアと戦うにあたり、世界の誰もが日本が勝てるとは思っていなかった。否、ドイツ兵学の権威のメッケルは「児玉ある限り、日本は敗れない」という言葉を残している。
 児玉源太郎は日露開戦直前まで、陸軍大臣・内務大臣・文部大臣を随時兼任し台湾総督も兼務していた。この頃、日本とロシアの関係が悪化しており緊迫していた。 一戦避け難し空気の中で、参謀本部次長の田村怡与造中将が急死し、参謀本部の大黒柱を失った。1903(M36)突然の急死とロシアとの一戦を目の前に、政府と首脳部は頭を抱えたが、児玉は自ら降格人事を行って第1次桂内閣の内相を辞任し陸軍参謀部次長に就任した。 「俺しかやれるものがいない」と、あえて火中の栗を拾ったのであった。あえて児玉が大臣の地位を投げ打ってこのポストを選んだのかには、「自分だけ」という自負心だけでなく、もうひとつ重大なことがあった。 大戦争をチームワークをもって機能的に推進するには、日本の政界と国軍内部のアイデンティティがなければならないからだ。 当時の明治権力の主流である薩摩VS長州、陸軍VS海軍の間に亀裂が生じないこと、さらには、国軍内部では中央VS現地の関係を正常化すること、こうしたコーディネーター(調整役)の存在が不可欠であった。これを果たせるのは児玉しかいなかった。
 当時の参謀総長は大山巌元帥で陸軍最長老の一人であり薩摩出身。国軍創設者である元老の山県有朋元帥は長州出身。 参謀次長の田村が急死し後任人事が大山・山県両巨頭が対立して揉めたのは、薩長のセクショナリズムのあらわれである。 児玉自身は正確には徳山藩士であるが長州閥の一員で山県系ではあるが、陸軍の巨頭の大山にも信任されていた。児玉が降格して次長になり、大山は大いに感服したという。児玉が次長になったことで薩長間の調整がされた。
 次に政界首脳のコンセンサスである。山県、伊藤博文、桂首相ら長州閥の大幹部は、開戦ぎりぎりまで慎重論・非戦論に傾いていた。大山でさえも決断できなかった。 一方、国民の世論は、ロシアの横車に憤激し、開戦論がみなぎり、参謀たちも「戦争必至」とみて、首脳たちの不決断を突きあげていた。 児玉はこうした国内全般のコーディネーターともなり、着々と首脳部を根回ししていった。児玉は寺内正毅陸軍大臣とともに、主戦論の立場をとり、桂首相に戦争準備に着手することを決断させたのである。 これが、暮れの12月下旬であったとされるので、翌年2月8日から開戦する日露戦争まで一か月前であった。
 1904.2.8-1905.9.5日露戦争。児玉はこの戦争のプロデューサー兼シナリオライターであり、間もなく、満州軍総参謀長となることによって、自ら演出し、時には自らも演技するにいたるのである。 児玉は「自分のやることの半分は、陸海軍間を円滑にすることだ」と、海軍大臣の山本権兵衛、連合艦隊司令長官の東郷平八郎、いずれも薩摩人たちとも、旅順港攻めなどで、陸海軍の連携プレーに全力を傾注した。 また、中央指導部と現地軍とのコミュニケーションをうまくもっていくことにも徹底し、コーディネーターに徹した。児玉は「南山の戦い」「旅順要塞攻撃」「奉天大会戦」と活躍。詳細は割愛するが、ひとつだけ特筆する。 児玉は中央・現地間の協調に意を用いてきたが、旅順要塞攻撃の際、ついにいたたまれず、第三軍の乃木稀典大将をバックアップし、戦術面まで自らが介入し作戦指導をするにいたった。 陸軍にしてみれば旅順を占領する必要は必ずしもなかった。しかし、海軍は迫りつつあるバルチック艦隊の到来を前に、旅順艦隊の息の根を止めたかった。 児玉は要請が制海権の確保という至上命令であることを知っていたからだ。結果、児玉の作戦は成功し、乃木は「無能」という批判を浴びることにつながった。 逆に言うと、児玉はコーディネーターに徹してはいたが、いたずらにことを丸くおさめるのではなく、ことを成就させる方向で調整につとめた。
 児玉の戦争プロデューサーとしての最後の仕上げは「戦争の早期終結」である。これがいかに困難であることかは、後の日中事変や太平洋戦争で明白である。 問題は戦闘に勝つことだけにあるのではなく、戦争目標の最終段階を設定することである。児玉は奉天大会戦で勝利をおさめると、ひそかに帰国。 桂首相・寺内陸相、山県、伊藤などの政界の巨頭に働きかけた。「陸軍の軍事力に限界がみえた。いち早く、外交手段で終結するように」と。

<歴史と旅 日本陸海軍のリーダー総覧 「児玉源太郎」佐々克明>


【児玉の死】
 児玉が死去した時、当時の新聞「万朝報」は児玉を悼んでこう書いた。 「吾人は深く彼の死を哀惜す・・・彼の明敏(めいびん=才智が優れていること)聡慧(そうけい=さとく賢いこと)はほとんど倫を絶す(同等の相手がいない)。わが陸軍の三傑中彼は川上、桂両氏に比して稍(やや)後輩なるも、その聡明、敢為(やりとおすこと)は遥かに両氏に優(す)ぐ。」
 東京朝日新聞の追悼記では日露戦争直前の自らの降格人事に触れた記事を載せた。 「・・・疑いもなくこの人は佐名の功臣(天子の創業を扶けた功臣)の一人なり。再昨年(明治三十六年)の秋、参謀次長の田村中将薨去の後、この人が内務大臣より一転下し、フロックコートを脱いで再び軍服をつけ、急に参謀本部に入れる時は、わが国民百人中九九人までは皆露国との戦争の到底避くべからざることを内々に覚悟しおりたる際なりしが、相語って曰く、よくも就きたり、又よくも就かしめたりと。蓋しこの人の果決、精毅が国民の信頼を得ありしによる・・・」
 晩年、児玉は南満州鉄道は生命線だと説き、新天地に描いた構想を考えた。後事は南満州鉄道株式会社初代社長に就任した盟友の後藤新平に託される。 「満州では一に鉄道経営、二に炭鉱開発、三に移民、四に牧畜諸農工業の施設の建設、将来は満州からシベリア鉄道に連結、欧州とアジアを結ぶ大公道を築く」という構想に児玉は全面的に賛成。 ロシアを含む東アジア諸国が、協調して満州経済圏を発展させる。壮大な初期の構想は児玉没後大きく変わっていった。もし児玉が10年長生きしていたら、その後の歴史が変わったとされる。

<歴史と旅 帝国陸軍のリーダー総覧など>


【児玉神社】(藤沢市江の島1-4-3)
 児玉は毎週日曜日に鎌倉の別荘で静養をとっていたが、面会希望者が鎌倉に押しかけてくるため、面会者から逃れるために、新しい静養の地としていたのが神奈川県藤沢市にある「江の島」であった。 ところが、いつしか退避先の「江の島」にまで人が押し寄せるようになり、江ノ島町内でも知れるところとなった。だが、町民はこの地に来る児玉を徳とした。
 児玉没後、町民たちの希望もあり、1918(T7)児玉源太郎を祭った「児玉神社」(兒玉神社)が鎮座された。 境内には後藤新平の詩碑や、山県有朋歌碑、乃木稀典漢詩の爾霊山高地の石塊・棗萩松碑、台湾有志寄贈の狛犬、台湾婦人会寄贈の一の鳥居、李登輝元台湾総統の揮毫の神楽殿正面扁額がある。なお、1922(T11)出生地の縁により、徳を偲ぶ地元有志の発起で、山口県周南市にも児玉神社が建てられた。


墓所

*旧字は兒玉源太。

*墓所は正面に巨大な和型墓石が二基建つ。左側が「陸軍大将子爵兒玉源太卿之墓」、右側が「陸軍大将兒玉源太室松子墓」。児玉源太郎の戒名は大観院藤円玄機居士。墓所左側に「児玉秀雄墓」、右側に「児玉家之墓」、そのやや左後ろに墓誌があり、墓誌には、健(1925-1945)、實(1928-1948)、博(1938-1957)、進、忠康、貞子の名が刻む。


【児玉家】
 児玉源太郎と松子との間には7男4女(1養女)を儲ける。
 長男は大蔵官僚で国務大臣などを歴任してきた児玉秀雄(同墓)、秀雄の婿養子の児玉忠康(同墓)は日本郵船社長を務めた実業家、忠康の子で曾孫の4男とも同墓に眠り、進は映画監督で活躍した。
 二男の貞雄(22-1-27)は三井物産重役、日本真珠株式会社社長を務めた。 三男の友雄は陸軍中将、四男の常雄は陸軍大佐、五男の国雄は大同セメント社長、養女(山口宗太郎の次女)のヌイは山口十八の妻、長女はヨシは立花俊吉の妻、次女はナカは最高裁判所判事の穂積重遠の妻、六男は八郎、七男の九一は内務官僚、県知事、厚生次官、中国地方総監を務めた。 三女のモトは上智大学教授の藤田嗣雄(法制史学者:19-1-13)の妻、四女のツルは木戸幸一(18-1-3)の妻。


児玉松子 こだま まつこ
1856.4.18(安政3)〜 1936.11.3(昭和11)
8区 1種 17側 1番
児玉源太郎の妻
 大坂出身。旧姓は岩永。名はまつ、まつ子ともいう。岩永秀松の7女。1874.10(M7)児玉源太郎と結婚した。 その時期の源太郎は7月に佐賀の乱に従軍し、8月熊本鎮台準参謀となり、結婚二日後に陸軍少佐に進級した時期である。よって、熊本鎮台付となった夫に従い熊本に赴く。 西南戦争では熊本城に籠城した夫と別れ、二歳の幼児を抱いて柳川から大阪に難を避けた。
 松子はよく家を整え、後顧の憂を除き、七男四女と一養女を養い、賢母といわれた。1904(M37)源太郎と死別。児玉家は長男の秀雄が継いだ。享年80歳。 源太郎没後は青山墓地に葬ったが、松子没をきっかけに、秀雄が多磨霊園に改葬。源太郎の墓石と同じ背丈形のまつ子の墓石を並べて建てた。

<日本女性人名辞典など>



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