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とうごう へいはちろう

東郷平八郎

とうごう へいはちろう

1848.1.27(弘化4.12.22)〜 1934.5.30(昭和9)

明治・大正期の海軍軍人(元帥)、侯爵

埋葬場所: 7区 特種 1側 1番

 薩摩国鹿児島城下加治屋町(鹿児島県鹿児島市加治屋町)出身。薩摩藩士の東郷実友(さねとも)・益子の4男として生まれる。幼名は仲五郎。14歳の時に元服して平八郎と称し、名は実良と名乗る。
 薩摩藩士として薩英戦争に従軍。この時は16歳であり、イギリス艦隊のアームストロング砲の威力に目を見張り、戦渦に驚き「海から来る敵は、海で防がねばならぬ」と決意し、イギリス海軍で学ぶことを熱望した。その後の戊辰戦争に海軍として従軍したが、春日丸に乗り込み新潟、函館まで転戦し、阿波沖海戦や函館戦争、宮古湾海戦で戦う。しかし当時の軍艦は風浪に弱く座礁しやすかったため、造船技術の向上に意識が向いたという。
 1870.12.11(M3)新政府の龍驤見習士官となり、翌.3.12 イギリスに官費留学。王立海軍兵学校への留学を希望したが、24歳と年齢を取り過ぎていたことと、当時のイギリスの海兵が後進国の日本の入学生を認めなかったため許されず、ケンブリッジのピーターハウスという最も古いカレッジの教会付牧師宅にホームステイをした。牧師に数学を学び、猛烈に勉強した結果、失明の危機に見舞われるほど目を酷使し、心配した牧師がロンドンの名眼科医に連れていき回復した。この時、目を悪くしていたら軍人ではなく造船技師になっていたかもしれない。
 目が良くなり、1872 ウースター商船学校(テムズ航海訓練学校)に入り、高等数学、天文、気象、測量、国際法などを学び、各国の歴史や地理書を読んだ。1875.2 イギリス軍艦ハンプシャー乗組となる。また、1876 日本がイギリスに発注した軍艦扶桑の建造監視に当たる。軍艦が出来上がっていく過程を身をもって知ることができた。後に艦長として抜群の操艦ができたのは、この時の経験から基礎知識が正確で綿密であったからである。なお、英国の地で西郷隆盛が西南戦争で自害したことを知り、もし自分が日本に残っていたら西郷さんの下に馳せ参じていただろうと回想している。
 1878.5.23 帰国。同.7.3 海軍中尉となり、同.8.16 扶桑乗組を経て、同.12.27 大尉に昇進した。1879.9.5 比叡乗組、同.12.27 少佐に進級。1880.1.5 迅鯨副長、1881.12.27 天城副長、1883.3.12 第二丁卯艦長、1884.5.15 天城艦長を歴任。1885.6.20 中佐になり、同.6.22 主船局出仕、同.7.7 大和造船監督官、1886.5.10 大和艦長、同.7.10 大佐に昇格、同.11.22
 横須賀鎮守府兵器部長 兼 浅間艦長に就任した。1886.9-1887.1、1887.7-1888.3 気管支カタルを患う。療養生活中は無理をせずに、多くの本を読んだという。1889.7.1 比叡艦長、同.7.2 浅間艦長、1890.5.13 呉鎮守府参謀長、1891.12.14 浪速艦長を務める。1893(M26)2月から5月、11月から翌年4月、ハワイ革命に伴う邦人保護のため、ハワイへ回航している。
 1894.4.23 呉鎮守府海兵団長となり、同.6.8 再び浪速艦長に着任し、日清戦争に従軍。開戦初頭の豊島沖で清兵を満載したイギリス商会所有の高陞(こうしょう)号を撃沈した。この処置は賛否あったが、国際法規にかなった処置として、イギリスの国際法学者が認めて以来、東郷の沈着冷静な判断が逆に世界的に評価された。威海衛の攻略でも奮戦。
 1895.2.16 少将に進み、常備艦隊司令官に補された。この時には第一遊撃隊司令官として活動。同.11.16 海軍将官会議議員を務め、同時に海軍技術会議議長を兼務。
 1896.3.23 海軍大学校長に就任。校長という立場であるにも関わらず、生徒と一緒にクラウゼヴィッツの「戦争論」を勉強し、「指揮官の精神力の発動を要求するのは、敵ではなく、味方の損害と士気阻喪(そそう)である」と学ぶ。これは苦難に耐え乗り切る戦略家、リーダーとしての東郷の真骨頂となる。再び、同.11.5 海軍将官会議議員を務め、また再び、1898.2.1 海軍大学校長に就任。同. 5.14 中将に累進。
 1899.1.19 佐世保鎮守府司令長官に就き、1900.5.20 常備艦隊司令長官を経て、1901.10.1 舞鶴鎮守府司令長官を歴任。この時期、ウラジオストックと向かい合う舞鶴で、ひそかにロシアとの戦略を考え続けていたという。'03.10.19 再び常備艦隊司令長官を務めた。
 1903.12.28(M36)56歳の時に日露戦争に際して連合艦隊が編成され、第一艦隊司令長官に就任し、連合艦隊司令長官も兼務した。'04.2.6 佐世保を出港、同.2.9 開戦からロシア旅順艦隊との戦闘や、三回にわたる旅順閉塞作戦、ウラジオストック艦隊の追尾・撃滅による日本海の制海権確保など、前線での戦闘を現場で指揮した。'04.6.6 大将に進む。'05.5.27 東航するバルチック艦隊との艦隊決戦となった日本海海戦に勝利(詳細は下記)。同.12.20 日露戦争終結に伴い連合艦隊は解散され、東郷も司令長官を退くこととなった。解散に対しての東郷の訓示は「百発百中の一砲能く百発一中の敵砲百門に対抗しうる」「古人曰く勝って兜の緒を締めよ」といった言葉が用いられ、その後の海軍のありかたに大きな影響を与えた。
 日露戦争の勝利により日本の国際的地位を「五大国」の一員とするまでに引き上げに貢献したひとりである。そして世界的な名提督として「アドミラル・トーゴー」(Admiral Togo 、東郷提督)「東洋のネルソン」と世界的に英雄として称えられた。国内においても生きている軍神と崇められた。
 1905.12.20 連合艦隊司令長官を退いた後は軍令部長、海軍将官会議議員を任ぜられる。'06.12.30 大勲位、功一級。'07.9.21 伯爵の爵位を授爵。'09.12.1 軍事参議官を務める。'11.4 イギリス国王戴冠式のため、イギリスへ出張。'13.4.21(T2)元帥に列せられる。'14.4.1 東宮御学問所総裁となる。
 '21.3.1 辞職し第一線から退いたが、海軍の重鎮として大きな影響力を保つ。軍縮時代に入り、東郷自身は軍縮制限に反対だったが、軍縮を拒絶する意思は無かったとみられる。東郷は軍縮が避けられない場合、制限外の軍備の増強や、訓練の強化などで対比する意思を示した。しかし、軍縮に反対する言動が軍縮反対派に大きく取り上げられ、結果的に軍縮に否定的な存在として、ワシントン会議やロンドン会議、その後の統帥権干犯問題などに大きな影響を与える結果となった。
 '26.11.11 大勲位頚飾。'34.5.29(S9)亡くなる前日に侯爵に陞爵。従一位。享年88歳。'34,6,5 国葬が執り行われた(詳細は下記)。


【肉じゃがを考案?】
 1901(M34)舞鶴鎮守府の初代長官に着任した東郷平八郎が、イギリスに留学していた際に食べたビーフシチューの味を忘れることができず、艦上食として作るように部下に命じた。しかし、当時はビーフシチューの材料である赤ワイン、デミグラスソース、バターなどの入手が困難であり、その代用として醤油と砂糖を使用。出てきたのが「肉じゃが」だった。というのが定説だが諸説もあり実際のところはわからない。
 海軍史研究家の有馬桓次郎は著書『海軍さんの料理帖』で下記のように考察している。明治初期には既に日本にシチューは入ってきており、1889(M22)日本海軍が制定した「五等厨夫教育規則」にはシチューの作り方が記載されていた。また赤ワインベースのシチューは当時の欧州でも一般的ではなく近年になってからなど、材料がないから代わりに醤油と砂糖で味付けをして「肉じゃが」が誕生したという発祥説はおおむね誤り。なお、東郷平八郎の発言説、舞鶴が発祥地説、呉との発祥地論争など、全ては1980年代のテレビの企画番組や町おこしに伝説を利用したもので、史実も起源もわかっていないとのこと。


【日本海海戦】
 バルチック艦隊がどう攻めてくるのか意見が割れた。小笠原諸島を攻め、戦機を伺って津軽海峡を通りウラジオストックに向かうのではないかという意見も出た。連合艦隊は対馬・朝鮮海峡で待つだろうからその裏をかく戦略に出ると想定した発言であった。作戦に対して相談や議論を重ねた結果、東郷は相手がイギリスかドイツであれば考え方は変わるだろうが、ロシア人は朴訥(ぼくとつ)で男児気がある。今までの経験からもロシア海軍軍人は実に勇敢で、とくに将官は皇帝の命令に忠実に従う長所を持つ。よって、ロシアはウラジオストックまでの最短距離である仏領インドシナから東シナ海をたどり、対馬・朝鮮海峡を通ると予想した。
 またバルチック艦隊のスワロフ、アリヨールなど戦艦は、いずれも一万三五一六トンの新鋭艦で、その砲力は日本の主力艦より優れている。ロシア軍が朴訥で勇気があるからには決戦を避けては通らない。私が敵側将軍であればそうすると主張した。万が一のためにバルチック艦隊が津軽海峡を通る場合に備え、秋山真之参謀が考案した浮遊機雷を敷設した。ただ、東郷の敵の進路を読み取る戦略が見事に的中することになる。
 バルチック艦隊を朝鮮南岸の鎮海湾で待ち伏せすることを決心してすぐ、二月下旬には現地視察をし、訓練を開始した。当時の軍艦は大小の砲を問わず独立しており、射手、旋回手の技量がモノをいう「独立うち方」だった。東郷はどの艦の着弾距離はどのくらいかを計算し、水雷夜襲技術も研究しつくした。自然現象との絡みでどう応用問題が展開するかまで計算した。訓練や研究は三か月も続いた。実は日本海海戦は東郷の科学的戦略に基づく訓練による勝利であった。
 1905.5.27(M38)午後1時15分、連合艦隊司令長官の東郷はロシアのバルチック艦隊が三列縦隊になって進んでくるのを確認した。旗艦三笠のマストを上高く、「皇国の興廃この一戦に在り、各員一層奮励努力せよ」とのZ旗がひるがえった。
 ロシアはウラジオストックで艦隊を整備し直して、対馬、朝鮮両海峡に出没し、満州の戦線にいる日本陸軍の補給を絶つ作戦であった。シベリア鉄道によりロシア陸軍は続々と増強されつつあり、補給を絶たれて苦戦する日本陸軍を押し戻し叩き潰そうとしていた。すなわちウラジオストックに速力を誇る何隻かの主力艦が逃げ込めばロシアの戦略勝ちとなる。東郷はそのロシアの戦略をひっくり返すためには、主力艦の一隻たりとも断じてウラジオストックに逃げ込ませてはならなかった。
 一般論の砲撃戦は両艦隊がすれ違い、すぐに反転して砲撃する。併航戦を繰り返すのが常識であったが、そのまま反転せずに逃げられウラジオストックに向かわれてしまう危険があった。そこで、捨て身ともいえる「T字形敵前大回頭」の戦略で挑むことにした。バルチック艦隊の敵前八千メートルで一大回頭をして、六千四百メートルまで肉迫してやっと猛砲撃に移る戦法は、艦の着弾距離を科学的に研究した数字をそのまま忠実に実行しようとした。
 この作戦は午後2時5分、三笠の取舵一杯(左へ曲る)で開始された。敵艦の距離八千メートル。転回点に入った三笠は静止したように見え、敵艦隊の餌食になりかけた。一発も放たぬうちに三笠の周辺には三百発も降ってきた。しかし焦らずに堪え、六千四百メートル接近したところで、「打方(うちかた)始め!」の声とともに、三笠からの砲撃が開始された。だが、15分間のうちに三笠は、その日に受けた三七の命中弾の大半をあび、死傷者は九十余人に達した。最上艦橋の東郷のすぐそばにも敵弾が落ちた。しかし、ひるまずに戦い続けたことには、海軍技術監の下瀬雅允が開発した下瀬火薬の炸裂の凄まじさを知っていたからである。
 死闘の末、敵艦隊は戦列を乱しはじめ、戦艦スワロフ、オスラビアは火と煙に包まれる。そして、砲撃開始三十分後、日本艦隊の圧勝が確定した。夜に入る前に残存敵艦隊と砲戦し、夜は駆逐艦隊による水雷攻撃で敵艦隊にトドメを刺した。翌日、ネボガトフ提督の率いるニコライ1世、アリヨールら五隻が日本の戦隊二十数隻に包囲されて、降伏した。日本海海戦の戦果は、世界海戦史上にもその比をみないパーフェクトな勝利となった。
 バルチック艦隊は戦艦八隻、巡洋艦十隻、海防艦三隻、駆逐艦九隻、特務艦六隻、病院船二隻の三十八隻だった。そのうち、戦艦六隻、巡洋艦五隻、海防艦一隻、駆逐艦四隻、特務艦三隻は撃沈。戦艦二隻、海防艦二隻、駆逐艦一隻、病院船二隻は捕獲。脱走中に喪失した巡洋艦一隻、駆逐艦一隻を加えると、なんと二十八隻もの主力艦が潰滅した。脱走した二隻もウラジオストックに行くのを諦め南方に逃走、マニラ湾などで武装を解除された。非軍艦アルマーズと大損傷をうけた駆逐艦の二隻だけがウラジオストクにたどり着いたのみであった。
 ロジェストウェンスキー司令長官以下将兵6168人が捕虜となった。ロシア側の戦死者は4524人。一方、日本側の戦死者は116人、負傷者は570余人。喪失したのは水雷艇をわずか三隻と信じられないほどの少なかった。


【東郷イズムを継承したのは敵国のニミッツだった】
 日本海海戦後、連合艦隊の凱旋園遊会に出席したアメリカ人にチャスター・W・ニミッツがいた。ニミッツはこの時、少尉候補生であった。東郷と固い握手をして十分間ほど話した。'34(S9)東郷の国葬にもニミッツは参列し、東郷の戦略家としての綿密な頭脳力と忍耐力を学び、継承された。そして、東郷の鎮海湾待ち伏せ戦略を太平洋戦争でそのまま応用することになる。
 太平洋戦争で一気に形成が逆転することになるミッドウェー海戦。日本側を指揮したのは東郷の隣のお墓で眠る山本五十六。アメリカ空母群を誘い出して叩き潰すと同時にミッドウェー島を攻略する作戦であった。しかし、暗号解読に成功していたアメリカ率いるニミッツ提督は、日本を待ち伏せして一気に叩く作戦をとり、結果ニミッツ側の戦略の圧勝となった。これで日本側は空母四隻、航空機三百機を失う悲運に見舞われた。
 ニミッツの三度目の来日はマッカーサーとともに日本の降伏調印式に出席した時であった。この時、ニミッツは敗戦後の三笠の荒廃を嘆き、その保存気を遣う一方で、戦災で焼けた後の再建される東郷神社にも、自筆『太平洋開戦史』の日本版印税を寄附している。尊敬する東郷平八郎を永遠に讃えてほしいという願いであった。


【国葬と多磨霊園】
 1934.5.30(S9)東郷平八郎は満86歳で逝去。同.6.5 国葬が執り行われた。
 東郷の死去は世界各国でも報じられ、イギリスでは「東洋のネルソン提督が亡くなった」、ドイツは「東洋のティルピッツが逝去した」と自国の海軍の父的人物に準えて哀悼した。日本の新聞には小学生が書いた「トウゴウゲンスイデモシヌノ?」という文面が掲載された。また東郷の国葬に併せて英米両国から日本向けに追悼のメッセージがラジオで放送された。
 国葬の際には参列のために各国海軍の儀礼艦が訪日。イギリス海軍支那艦隊の重巡洋艦「サフォーク」、アメリカ海軍アジア艦隊の重巡洋艦「オーガスタ」(艦長はニミッツ大佐)、フランス海軍極東艦隊の軽巡洋艦「プリモゲ」は日本艦隊と共に横浜港で半旗を掲げ、弔砲を発射。また儀仗隊を葬列に参加させた。遅れてイタリア海軍東洋艦隊の巡洋艦「クアルト」が夕方に入港し、翌日、中華民国練習艦隊の巡洋艦「寧海」が入港した。なお、5日に入港が間に合わないと判断した中国は、儀仗隊を下関から列車で東京に向かわせて弔意を示した。
 当日の人出は、東郷邸から日比谷まで59万7千人。国葬場付近70万人。国葬場から多磨墓地まで56万7千7百人であり、国葬場では10万人は霊前の参拝ができたが、60万人が参拝できなかったと、警視庁は発表したほどの大変な騒ぎであった。
 国葬当日のもようは、各新聞とも全紙面のほとんどを使って報道した。 葬儀を終え日比谷の国葬場を発した霊柩車は、車を連ねて夕刻、多磨墓地に到着、大角海軍大将以下将兵約100名が参列するなかで、斂葬(れんそう)の儀(埋葬式)を行って、名誉霊域に永遠の眠りについた。
 なお、50日祭(神道なので50日、仏教は49日)まで、霊前の燈明をたやさないための墓守りには、多数の希望者があったが、日本海海戦当時「三笠」で元帥と生死を共にした勇士のなかから、12名を選んで最初の一週間だけ交替で勤めたと、当時の新聞は報じている。 このように、多数の紙面で東郷国葬のもようを取り上げられたことにより、多磨墓地の名も一挙に世間に広まることになったのである。 それまで、市当局(当時は東京市)の市民に対する多磨墓地の売込みも、たいして効果をあげることができず全く人気がなかったが、多磨墓地に「われらの東郷さん」が埋葬されたとなると、無名の多磨墓地の株は一挙に急上昇した。それ以降、多磨墓地使用は増加の方向に向かったことは言うまでもない。
 なぜ多磨霊園に埋葬することになったのか?
 霊園のシンボルである高さ15メートルの大噴水塔が見える通り、両側千坪(3300平方メートル)の区域が、国家的功労者の埋葬を予定した名誉霊域です。公園墓地のふさわしさを盛り込むため、元々設計段階より名誉霊域をつくっていた。
 当初より東郷平八郎の墓は東郷自身が生前建立した母親の益子の眠る青山墓地への埋葬する予定であった。ところが、この墓地は約6坪(約20平方メートル)で狭すぎることを聞いた東京市は、5月31日、当時の牛塚市長自ら、国家的功労者の埋葬を予定していた多磨霊園の名誉霊域を提供したいと海軍省に申し入れた。東郷家では、同省と相談のうえこの申し出を受けることになり、東京も6月1日参事会で、名誉霊域の使用を正式に決定した経緯がある。
 なお多磨霊園名誉霊域は、太平洋戦争で亡くなった、元帥海軍大将の山本五十六(7区特種1側2番)〔国葬〕、元帥海軍大将の古賀峯一(7区特種1側3番)の3人のみが使用することになり、その後はつくられていない。


【家族】
 妻はテツ子(同墓)。鹿児島藩士の海江田信義の長女。結婚時は、東郷平八郎が海軍中尉の30歳、テツ子は16歳であった。
 2男2女を儲ける。長男の東郷彪(同墓)は侯爵を継ぎ宮内省式武官、主猟官、貴族院議員を務めた。次男の東郷実は父と同じ海軍の道を進み、海軍兵学校40期生で最終階級は海軍少将。長女は早死。二女の八千代は海軍少将・男爵の園田実に嫁いだ。東郷彪の妻は男爵の小原(馬全)吉の長女の百合(同墓)。東郷実の長男の東郷良一は海軍兵学校72期生で少尉で重巡洋艦摩耶に乗組み、比島沖海戦で戦死し2階級特進で大尉になった。

<コンサイス日本人名事典>
<連合艦隊司令長官24人の全生涯>
<帝国海軍提督総覧「日本海海戦を指揮した名提督」真木洋三>
<「図説 日露戦争」>
<日本海軍総覧>
<華族歴史大事典>
<「多磨霊園」村越知世>
<人事興信録など>


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*正面「元帥海軍大将侯爵東郷平八郎墓」、裏面「昭和九年五月三十日薨」。家紋入りの花鉢に「三笠保存會」と刻む。東郷平八郎の墓石の左隣に和型「東郷家墓」、裏面「昭和十年五月三十日 彪 建之」。右隣に和型「侯爵東郷平八郎 妻 テツ子 墓」、裏面「昭和九年十二月二十八日歿」。墓所右側に「賜誄の碑」が建つ。誄(るい)は「いのりごと。しのびごと」という意味で、故人の生前の功績ををたたえ、昭和天皇からその死をいたむ弔辞を賜ったという意味。碑の裏面には「雲龍會 昭和拾年五月献之」と刻み、小笠原長生、谷口尚眞、大角岑生と海軍関係者29名の名前が刻む。墓所入口門柱の右側「東京府」、左側「昭和十年五月三十日竣工」と刻む。

*遺髪はイギリス海軍のホレーショ・ネルソンの遺髪と共に海上自衛隊幹部候補生学校(江田島)に厳重に保管されている。また鹿児島市清水町多賀山公園に東郷平八郎像と墓碑(遺髪)が建つ。使用していた総義歯は東洋学園大学の東洋学園史料室に保存されている。

*没後、東京都渋谷区と福岡県宗像郡津屋崎町(福津市)に「東郷神社」が建立され神として祀られた。東京都千代田区三番町にあった東郷邸宅跡地は東郷元帥記念公園、久留米市篠山神社には東郷元帥旧書斎、横須賀三笠公園には三笠と東郷平八郎銅像が建つ。他にも埼玉県飯能市の東郷公園(秩父御嶽神社内)や長崎県佐世保市の東公園(佐世保東山海軍墓地)にも銅像が建つ。

*鎌倉武士の血筋であり先祖代々日蓮宗の崇敬者であったことから東京都府中市の東郷の別荘跡地には海軍関係者が中心となって日蓮宗寺院聖将山 東郷寺が建立(1939)された。東郷平八郎の供養塔がある。



第100回 ロシアに完勝 国葬と名誉霊域の秘話 東郷平八郎 お墓ツアー
連合艦隊司令長官


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