佐賀県西松浦郡有田村出身。古賀鉄六の長男として生まれる。佐賀中学校を経て、1906.11.19(M39)海軍兵学校(34期)卒業し少尉候補生となる。'07.12 少尉に任官し音羽乗組。'08 須磨乗組、'09.8 水雷学校普通科に入校、同.10 中尉に進級し、同.12 卒業して宗谷乗組。
'10.12 砲術学校付となり砲術研修の後、'11.6 安芸乗組、同.12 大尉に進級。'12.12 鹿島分隊長。'13.12.(T2) 第二艦隊参謀になり、第一次世界大戦勃発に伴い、陸軍と協同で膠州湾攻略作戦に従事した。'17.11.29(T6) 海軍大学校卒業(15期)。同期に豊田副武(後に大将)や美保ガ関事件の責任を負い自決した水城圭次(6-1-1-13)らがいた。
少佐となり、軍令部で欧州戦争に関する調査に従事した後、'18.3 海軍省軍務局第一課に勤務した。'20.5 フランス駐在となり約2年間、欧州諸国の事情を研究。帰国後は海軍大学教官を務め、'22.12 中佐に昇進。'25.10 岡田啓介(9-1-9-3)大将の連合艦隊司令長官の下で連合艦隊首席参謀として艦隊の戦力練成に精進した。
'26.12.1 大佐に進み、フランス駐在の経験を買われフランス大使館付武官に補せられ、重要な諜報勤務に服した。平和条約実施委員を務め、'27.4.26(S2)斎藤實(7-1-2-16)を首席全権委員とするジュネーブで開催された日米英補助艦備制限会議に全権随員として参加した。'28.11.1 帰朝。
財部海軍大臣の時、'29.5.1 海軍省首席副官に補せられ、'30.1 開催された日米英仏伊の五カ国の海軍軍備制限会議に山梨海軍次官、堀悌吉軍務局長と共に海軍省事務掌理の掌に任じ参加した。当時、帝国海軍の大勢を占めていた大艦巨砲主義論者ではあったものの、対英米条約協調派の1人であり、ロンドン海軍軍縮会議では暗殺される覚悟で条約締結に尽力した。会議終了後、帝国議会において統帥権干犯という問題を惹起し、海軍部内においても軍令部、海軍省間に面倒な問題が起り、その間にあって裏方として苦慮した。
'30.12.1 青葉艦長、'31.12.1 伊勢艦長に着任。'32.11.15 軍令部第三班長(情報の主務)となり、同.12.1 少将に進級した。'33.9.15 軍令部第二班長、同.10.1 海軍軍備計画とその推進を主務とする軍令部第二部長を務めた。'35.11.15 第七戦隊(乙型巡洋艦戦隊)司令官となり夜戦部隊の中心兵力の一翼を担い海軍兵術の進歩に工夫をこらす。'36.12.1 中将に昇格し、練習艦隊司令官に就任し、少将候補生の教育練成に努めた。
'37.12.1 軍令部次長に抜擢される。この時期は軍縮無条約時代の初年度であり、海軍の作戦計画を更改する重要な転機であった。'39.10.21 第二艦隊長官に親補され、連合艦隊次席指揮官として、また海軍が最も重視していた夜戦の総指揮官、前進部隊の総指揮官として経験を積んだ。この時の連合艦隊司令長官は山本五十六(7-特-1-2)である。
対米交渉がいよいよ悪化しつつある、'41.9.1 支那方面艦隊司令長官に転補された。在任中に南部仏印進駐、ついで大東亜戦争開戦となり、香港攻略作戦、支那方面にあった米英兵力の撃滅作戦、敵性船舶の拿捕、米英在支権益の接収など、複雑な難事を手際よく処理し、支那方面に関して貢献した。これらの功績もあり、'42.5.1 大将に親任される。同.11.10 横須賀鎮守府司令長官に親補された。
'43.4.21(S18) 前任の山本五十六長官の戦死に伴い、極秘裏に連合艦隊司令長官に就任。同.4.25 トラック島に停泊中の武蔵に到着して指揮権を発動。まず、山本長官の遺骨を内地送還し、8月5日に再度トラック島に進出した。なお、山本長官の死は一か月間秘匿であったため、表向きには連合艦隊司令長官の就任は5月21日付となっている。
ラバウル方面の航空作戦を強化し、11月1日、ソロモン方面で「ろ」号作戦を行う。しかし、11月5日第二艦隊がラバウルに進出直後、敵の空襲を受け損害が大きかったため、急きょトラック島に後退。さらに航空母艦飛行機隊は潰滅に近い損害となり、11月13日「ろ」号作戦を打ち切った。
「ろ」号作戦で決戦海上航空兵力を消耗し、ギルバート諸島を失い、その後も敵の予想以上の進行速度が速く窮地に追い込まれていた。そのため連合艦隊司令部の所在位置について再検討の必要に迫られたが、敵の攻略部隊に対し、いかに作戦をするかが連合艦隊司令部の最大の問題点であった。年末頃からその対策として連合艦隊作戦司令所設置構想として、古賀は戦況に応じて適時適所に移動して指揮することを企図し、中央に対して各地の通信施設の整備を要求。古賀は南方諸島、マリアナ、西カロリン、ニューギニア西端に至る線を、死守決戦戦と呼称し、これを南北二群に区分し、敵が北部に来攻の場合は、サイパンに在って全決戦を指揮し、南部に来攻の場合は、ダバオにおいて指揮する企図であった。
1944 年が変わっても戦局は悪化。守備隊はほとんど玉砕し兵力不足であり、マーシャル方面要地を失陥している現況。トラック島にあって、南東方面作戦支援もすでに限界に達し、ラバウルの戦略価値は低下し、連合艦隊のトラック島にある存在価値もなくなるという事態となる。加えて、日本軍の拠点のトラック島も空襲を受ける状態となったため、連合艦隊水上部隊の一部をパラオへ移動することにし、2月29日にパラオへ到着。
3月8日東正面の戦局変化に対処するため、新Z作戦計画を発令し、東正面作戦を三つに区分し、各作戦の場合における連合艦隊司令部の行動を内示した。この頃、南洋群島に展開した陸軍兵力を統括指揮する第三一軍が編成され、その軍司令官は古賀の指揮下に編入された。
連合艦隊司令部の所在していたパラオ方面は、3月30日早朝から終日、アメリカ機動部隊飛行機の攻撃を受け続け、31日になっても空襲は終わらず被害を受ける。古賀はかねての作戦司令所移動指揮に基づき、かつアメリカ機動部隊の行動を判断し、ひとまずパラオからダバオへ移り、次いで機を見てサイパンに赴かせ、ここを死守する企図とした。
1944年3月31日午後十時、一番機には古賀長官一行、二番機には福留参謀長ら一行、時間をズラして三番機には司令部付一行が搭乗し、飛行艇3機はパラオからダバオへ向けて出発した。だがダバオには時間をズラして後から向かった三番機しか到着しなかった。
天候が悪かったため、古賀長官が搭乗した一番機は消息不明、二番機はセブ島付近の海上に不時着炎上。二番機の福留参謀長ら数名は原住民に捕らえられたが、日本軍の捜索で救出された。これらの一連の事故を「海軍乙事件」として厳密に付した。
古賀長官が搭乗した一番機の捜索は、4月22日まで続行されたが、ついに発見できず。全員殉職と認定された。だが古賀の身上取扱いは、機上作戦指揮中、航空機事故による殉職とし、正確な殉職日時は発表しない。新連合艦隊司令部が整備した後、東京で海軍葬儀を行うと決めた。公の発表は古賀長官一人だけとし、その他は一般戦没者に準じ、遂次に発表し、各鎮守府の合同葬儀に加えて葬儀を行うとして措置することになった。
5月3日に豊田副武大将が連合艦隊司令長官に親補されたことが決まり、国民に対して、5月5日に古賀峯一長官殉職を発表した。同日付で元帥の称号を賜った。戦死ではなく殉職と公表されたため靖国神社に合祀されず。国葬ともならず、5月12日に海軍葬として葬儀が執り行われた。そして、東郷平八郎、山本五十六と並び、多磨霊園の名誉霊域に埋葬された。正2位 勲1等 功1級。享年は59歳。戦後、海軍乙事件が公になり、歿日は消息不明となった3月31日としている。
<コンサイス日本人名事典> <帝国海軍提督総覧「南の空に果てた悲運の提督」末國正雄> <連合艦隊司令長官24人の全生涯> <人事興信録など>
*墓所には、正面に「古賀峯一墓」と刻む五輪塔、裏面「昭和二十二年三月建之 古賀家」。右側に和型「古賀八重之墓」、左面に戒名、裏面「昭和四十七年三月 古賀吾一 壽子 建之」と刻む。墓所右手側に墓誌碑が建つ。碑の上側は「御沙汰書」、下側は古賀峯一の略歴が刻む。碑は昭和二十二年三月に建てられ、撰書は秀島成忠。 「御沙汰(ごさた)」とは昭和天皇から葬儀に御沙汰書(弔辞)と御下賜金を賜ったことを記念した碑である。
*古賀峯一の妻の八重は小林愛次郎の長女。長女の安子、二女の好子、三女の壽子、四女の重子と4人の娘を儲ける。三女の壽子が婿養子をとり、古賀吾一が家督を相続した。
*戦争も泥沼化を挺しており余裕がない日本国や海軍の時期、連日戦死者が出ている状況で、かつ国葬でもないため、古賀峯一葬儀はかなりのやっつけ感であったと推測する。加えて多磨霊園への埋葬に関しても、墓石も整っていない状況であったのではないかとも感じる。
連合艦隊参謀長を務め、二番機に搭乗し命が助かった福留繁海軍中将(6-1-6)は、葬儀が終わった後、古賀長官の自宅に訪問し「戦争が終わったら、墓碑を立派なものに建て替えたい」と遺族に伝えています。その言葉に対して古賀の妻の八重は「古賀はなんのお手柄ひとつ立てずあのような死を遂げたのですから、今の墓石で十分です、故人もそう思っているに違いありません」と述べたという記録が残っている。
現在建っている五輪塔は昭和二十二年の戦後に建立されているため、埋葬時はもっと貧相な墓石であったのかもしれない(調査中)。
第102回 海軍乙事件 殉職で靖国神社に合祀されず 今の墓石で十分です 古賀峯一 お墓ツアー 連合艦隊司令長官として初の殉死
|