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おかだ けいすけ

岡田啓介

おかだ けいすけ

1868.1.20(慶応4)〜 1952.10.17(昭和27)

大正・昭和期の海軍軍人(大将)、政治家

埋葬場所: 9区 1種 9側 3番

 福井県出身。福井藩士の岡田喜藤太(1932.12.15没)・波留(共に同墓)の長男。 旧制福井中学卒業後、共立学校に入学、この時の英語教師が高橋是清(8-1-2-16)であったことは、その後の因果である。 中途退学し、陸軍有斐学校に入学するも、郷里の先輩から「君のおじさんは海軍軍人でコレラで亡くなったが、今生きていれば相当の人になっていたはずだ。おじさんの志を継げ」と叱られ、海軍士官学校に入学し水雷術を専攻。15期として卒業。
 日清戦争に少尉として従軍。1901(M34)海軍大学(2期)卒業。春日艦の副長として日露戦争の日本海海戦に参加した。 海軍大学校教官、'08大佐となり水雷学校長、'10春日艦長、'12(T1)鹿島艦長、'13少将となり佐世保工廠造兵部長、'14水戦司令官、'15海軍省人事局長を経て、'17中将となり佐世保工廠長を歴任した。 '18将官会議議員となり、艦政局長、'20海軍艦政本部長、'23海軍次官を経て、'24大将となり軍事参議官、第一艦隊兼連合艦隊長官となった。 '26横須賀鎮守府長官。'27.4.20(S2)田中義一(6-1-16-14)内閣の海軍大臣に就任。'29再び軍事参議官となり、'30ロンドン海軍軍縮条約の締結に際し、海軍内の条約調印反対派と推進派の調停にあたり、条約調印にこぎつける。 '32.5.26斎藤實(7-1-2-16)内閣の海軍大臣となり、海軍軍備の拡大に努力。この間、政・財界との接触を深め、'33海軍を辞職し、予備役。同年、勲一等旭日桐花大綬章受章。
 '34.7.8(S9)元老西園寺公望(8-1-1-16)の信任をえて第32代内閣総理大臣に任命され、組閣した。 一時、拓務大臣、逓信大臣も兼務。岡田内閣は官僚的色彩を強め、在任中に美濃部達吉(25-1-24-1)の天皇機関説をめぐる国体明徴問題が起こり、岡田内閣倒閣を狙う陸軍の皇道派、箕田胸喜など平沼騏一郎(10-1-1-15)周辺の国家主義勢力、立憲政友会などから攻撃された他、在満機構改組問題、日本の華北進出、日本の海軍軍縮条約廃棄などの難問をかかえ、斬新的な国内体制のファッショ化を進めた。 '36(S11)2・26事件で、皇道派の急進的陸軍青年将校の襲撃をうけたが危うく難を逃れた。その責任をおい3月9日内閣総辞職した。
 以後、重臣となり、首相の銓衡にあたった。'43東条英機内閣倒壊工作では中心人物となり、嶋田繁太郎海軍大臣の辞任をめぐって、東条と2人でやりあった逸話もある。 天皇制存続のための太平洋戦争中に和平工作を画策、鈴木貫太郎内閣の内閣書記官長であった迫水久常(9-1-8)を介し鈴木に助言を与え、戦争終結に尽力した。 '52サンフランシスコ講和条約が調印され、日本が独立した直後に没した。享年84歳。 戒名は真光院殿仁誉義岳啓道大居士。没後、昭和天皇より御沙汰書と呼ばれるご弔辞を賜った。

<コンサイス日本人名事典>
<日本海軍将官事典>
<連合艦隊のリーダー総覧>


墓誌 墓誌

*長男は海軍大佐の岡田貞外茂(同墓)、貞外茂の妻の昭子(1914〜2004.6.19 同墓)は佐藤鉄太郎(18-1-1)の娘である。 次男の岡田貞寛(1917〜2005.8.10 同墓)は海軍主計少佐であり、戦後、『岡田啓介回顧録』編集、『父と私の二・二六事件―昭和史最大のクーデターの真相』を著した人物である。 次女の万亀は大蔵官僚の迫水久常(9-1-8)に嫁いだ。なお、岡田の二度目の妻は迫水の父親の妹である。 2.26事件で岡田の身代わりとして命を落とした陸軍大佐の松尾伝蔵は岡田の妹が嫁いだ義弟関係である。

*岡田家の墓所内には、墓石を正面に右に墓誌、左に「御沙汰書」の碑があり、裏面は略歴が刻む。 1964.10.14(S39)福井瑞源寺より多磨霊園に改葬。


【岡田内閣と多磨霊園に眠る人物】
 岡田内閣は'34.7.8(S9)〜'36.3.9(S11)組閣されたが、大臣として入閣した人物で多磨霊園に眠る人物を紹介する。

大蔵大臣:藤井眞信(7-1-13-2)、高橋是清(8-1-2-16)、
陸軍大臣:林 銑十郎(16-1-3-5)
文部大臣:松田源治(7-1-15-23)
逓信大臣:床次竹二郎(12-1-17-18)、望月圭介(6-1-16-12)
拓務大臣:児玉秀雄(8-1-17-1)


【2.26事件 首相官邸襲撃と岡田首相救出作戦】
 昭和11年2月26日、首相官邸で岡田は非常ベルの音で目が覚めた。午前五時頃である。 前夜に福井から上京して泊まっていた義弟の松尾伝造が血相を変えて寝室に飛び込んできた。 松尾は岡田の手をひいて庭に飛び出したが、すでに兵士がいたため、官邸の中に逃げ込み、台所から浴室に入った。 すでに邸内には兵士がたくさんおり、外に逃げられそうもなかった。 首相官邸を襲撃した栗原安秀中尉率いる歩兵第一連隊は、護衛警官の村上嘉茂左衛門(12-1-15)巡査部長や土井清松(12-1-15)巡査、小館喜代松巡査、清水与四郎巡査を射殺し、市街戦さながらの銃撃戦を繰り広げていた。 岡田を炊事場に避難させ、松尾は中庭に出て戸袋のかげに身を寄せて隠れていたが、すぐに発見され、第3小隊を率いていた林八郎(7-1-13-23)少尉の命により二発の銃弾を受けた。松尾は鮮血にまみれながら壁に寄りかかるように正座をする。 現場に駆けつけた栗原はすぐに止めをさすように命令したが、凄い形相に圧倒され引き金を引くのに時間がかかったという。 これら松尾の態度や死後の写真の照合により、容姿が似ていた松尾を岡田と間違え殺害したものと考え、反乱兵は目的を達成したと勘違いをした。一部始終を目撃していた岡田は、相手が油断している間、寝室に入り着替えをし、女中部屋の押し入れに隠れた。
 事件が起きたとき、迫水久常(9-1-8)秘書官は首相官邸に隣接する官舎の二階から官邸の様子を見ていた。 「とうとう仕留めたぞ」という反乱兵の叫びを聞き、いても立ってもおれず、憲兵に「首相の遺骸でもいいから見られるように処置してくれ」と頼み込んだ。 栗原の許可も取り、福田耕秘書官と共に官邸に入った。首相の寝室で遺骸を見た瞬間、すぐに松尾大佐であることが確認できた。 しかし、反乱兵はその事実に気がついていないため、総理は生きているに違いないと確信した。 もっともらしくハンカチで目頭を押さえながら寝室を出る際に、栗原が「総理の死体に間違いありませんね」と聞いてきた。 「相違ありません」と福田が答え、「女中が二人いたはずだが」と切り替えした。 栗原は女中を引き取るようにと伝え、迫水と福田は女中部屋に案内された。 女中部屋には押し入れの襖を背にして秋本サクと府川キヌの二人の女中が正座をしていた。 迫水は「怪我はなかったかね?」と言葉をかけたところ、サクは「お怪我はございませんでした」と返答した。 その言葉で迫水は総理は無事であり、押し入れの中にいるに違いないと察知した。 とっさに大きな声で部屋に付いてきた林少尉に「では総理の最期の状況を話して下さいませんか」と言って部屋を出た。 この間、福田がサクに総理の安否を確認している。岡田の生存を確認した迫水は、湯浅内大臣に報告し、湯浅から天皇にも奏上された。  岡田の生存は迫水たちよりも先に憲兵隊が確認していた。青柳憲兵軍曹と篠田憲兵上等兵が、女中が押し入れの前に座って動こうとしないことを不審に思い、強引に唐紙を開けたところ、岡田が胡坐をかいていた。 すぐに唐紙を閉め篠田は「そのままにしておきなさい」と言い残し、立ち去った。 篠田は上官の小坂慶介曹長に報告し、小坂は反乱軍に悟られないように確認作業を行った結果、岡田首相であることを確証。この事実を森分隊長に報告し、迫水と福田と共に共同救出作戦を行うこととなった。
 翌日、福田は栗原に遺族や親戚の弔問の許可をとった。弔問客には年寄りばかり十人集め、絶対に声を出さないようにと誓わせた。 反乱軍の切れ間を見計らって、小坂の合図で、女中部屋の付近に佇んでいる青柳が岡田を女中部屋から出し、小坂は岡田を病人をいたわるように抱え、外に出した。 小坂は「遺骸を見ちゃあいかんと言ったのに、仰天したんだ、困った老人だ」と、わざと門番をしていた反乱軍に聞こえるように言い、早く病院まで連れていくと自動車を呼び寄せ、その車に福田も飛び乗り脱出に成功させた。脱出に成功した岡田と福田は、懇意の本郷の真浄寺で休憩した後、下落合に住む同郷の実業家の佐々木久二邸に身を隠した。

<図説 2.26事件(河出書房新社)>


【2.26事件と多磨霊園に眠る人物】
 2.26事件では岡田啓介(内閣総理大臣)、鈴木貫太郎(侍従長)、斎藤実(内大臣)、高橋是清(大蔵大臣)、渡辺錠太郎(陸軍教育総監)、牧野伸顕(前内大臣)、後藤文夫(内務大臣)が狙われた。 結果、斎藤実(7-1-2-16)、高橋是清(8-1-2-16)、渡辺錠太郎(12-1-10-15)が殺害された。 殺害された人物は全て多磨霊園に眠っている。 また、岡田啓介首相の護衛警官の村上嘉茂左衛門(12-1-15)巡査部長や土井清松(12-1-15)巡査も多磨霊園に眠り、墓所には後藤文夫内務大臣による殉難碑が建つ。 鈴木邸襲撃指揮官をした安藤輝三の墓所も以前多磨霊園にあった。 首相官邸襲撃の指揮を執った林八郎(7-1-13-23)も多磨霊園に眠るが、林家墓所には八郎の父で戦死し軍神と崇められた林大八(7-1-13-23)の墓石しか確認ができず、八郎の名前は墓誌にも刻まれていない。
 なお、2.26事件首謀者として刑死した社会主義者の北一輝の弟、北れい吉(4-1-35)や、反乱軍に同情的な態度をとって左遷された荒木貞夫(8-1-17)陸軍大将、首相救出に一役買った迫水久常(9-1-8)も多磨霊園に眠り、多磨霊園で2.26事件の歴史を学べる宝庫である。 加えて、まさに襲撃にあった高橋是清邸宅は、1938(S13)に東京市へ寄贈され、主屋部分は3年後、多磨霊園に移築し有料休憩所『仁翁閣』として1975(S50)まで活躍した。 現在は小金井市の江戸東京たてもの園に復元されている。


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