東京出身。首相や海軍大将を務めた岡田啓介・英の長男。妻は海軍中将の佐藤鉄太郎(18-1-1)3女の昭子(1914〜2004.6.19 同墓)。
佐藤鉄太郎の娘と結婚した下村正助(海軍中将)、大井篤(海軍大佐)は義兄。
高千穂中学を経て、1927(S2)海軍兵学校卒業(55期・恩賜)。同期に松田九郎(後に大佐:17-1-20)、姉の喜美子の夫になる鈴木英(すずき すぐる:陸軍大将鈴木孝雄の次男・海軍中佐から戦後は海上自衛隊海将)らがいた。
さらに海軍水雷学校高等科を首席で修了し、駆逐艦の文月の水雷長、砲艦の堅田の乗組みとして中国に赴任。この時に、父の岡田啓介が狙われた2.26事件が発生している。
この年の3月に横須賀鎮守府附に異動を命ぜられ帰国した。同年.12から翌'37.2まで海兵教官を務めた後、海軍大学校に進学した。'40.4.24海軍大学校甲種卒業(37期・次席)。
同期に、最後の連合艦隊作戦参謀の三上作夫、太平洋戦争の情報参謀として名を残した中島親孝、戦後ジュピターコーポレーションを興し社長となった藤村義朗(義一・首席)や、海上自衛隊の海上幕僚長になった杉江一三らがいた。なお、卒業時の校長は澤本頼雄(10-1-10)。
卒業後、米国西海岸駐在となり情報活動(スパイ)に従事。これは'35米国で情報活動を行っていた宮崎俊男が逮捕されて以降、海軍の対米情報網が壊滅しており、きたる米国との戦争に向けて情報網の再建を行うためのものであった。
岡田よりも一年早く、立花止(たちばな いたる)が米国ロサンゼルス駐在で情報活動を行っていた。岡田は立花と密に連絡を取り合いながら情報活動を行っていたが、'41.6.6立花がFBIに逮捕された。
逮捕される一か月前に米太平洋艦隊司令部の下士官から米海軍の戦隊射撃成績表を入手したが、この下士官が逆スパイであり、立花は逮捕され、部屋から大量の資料が押収された。
この立花逮捕の報を受け、岡田はロサンゼルスに向かったが、途中で警察に留置された。岡田と立花は外交特権を有しておらず、起訴となればスパイ罪で服役の可能性が高かった。
この頃は、駐米大使の野村吉三郎、駐米武官の横山一郎、駐米公使の若杉要(6-1-16)、日本大使館情報担当一等書記官の寺崎英成(17-1-11-17)らが、戦争を食い止めるべく、ルーズベルト大統領やハル国務長官と会談を行ない日米交渉の打開に努力していた。
この一連の立花事件は外交交渉に影響を与えかねない事態であった。野村大使は即座にウェルズ国務次官とスターク海軍作戦部長を訪問、横山武官は海軍情報部長に訪問をして、穏便な形で収拾を図ってもらう交渉を行い、ハル国務長官から「日米交渉上、ドロップするのほかなし」との合意を得ることに成功し、岡田と立花は米国への再入国を禁じられた上で国外追放処分にするという政治的決着で終結した。
帰国後、第四艦隊水雷参謀に就任。太平洋戦争が勃発。この時の上司である司令長官は井上成美(21-1-3-18)である。'42ミッドウェー海戦後より南東方面作戦は第八艦隊に引き継がれたため、岡田は大本営参謀の軍令部作戦課員に就任。
'43.7.29キスカ島撤退作戦で主務部員。連合艦隊参謀副長の小林謙五(22-1-27)と共に責任部隊である第五艦隊と会談を行い実質的な督戦を行った。
これは北部アリューシャン列島にあるキスカ島からの守備隊撤収作戦のことであり、キスカ島を包囲していた連合軍に全く気付かれず日本軍が無傷で全員の撤収に成功した戦史史上極めて珍しい奇跡の作戦といわれている(「"ケ"号作戦」ともいう)。
なお、この時の連合艦隊司令長官は古賀峯一(7-特-1-3)、参謀長は福留繁(6-1-6)である。同.11中佐へ進級。
'44秋頃より、父の岡田啓介、迫水久常(岡田啓介の次女の万亀の夫・9-1-8)、瀬島龍三(岡田啓介の妹の稔穂の夫の松尾伝蔵の長女の清子の夫)ら和平工作を画策していた親戚たちに、密かに戦局の情報を提供していたとされる。
礼号作戦(ミンドロ島沖海戦)中、視察のために搭乗していた海軍航空機がマニラ上空にて墜落事故をおこし殉職。享年36歳。没後、大佐に特進した。正5位。