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いのうえ しげよし

井上成美

いのうえ しげよし

1889.12.9(明治22)〜 1975.12.15(昭和50)

大正・昭和期の海軍軍人(大将)

埋葬場所: 21区 1種 3側 18番

 宮城県仙台市出身。父は旧幕臣で若くして御勘定奉行所普請方に出仕し、明治期は大蔵省から宮城県庁に転じて一等属を務めた井上嘉矩(よしのり)。 後妻のもととの間の9人兄弟の8男として生まれる。名前「成美」の由来は、論語顔淵篇の一節「子曰く、君子は人の美を成す、人の悪を成さず、小人はこれに反す」からとったという。 父は前妻との間に3男1女を儲けていたが全員早くに夭折した。母のもとは仙台藩伊達家の一門である石川家出身。 長兄の井上秀二(異母兄姉が夭折したので四男であるが事実上の長男:同墓)は土木技術者。次兄の井上達三は陸軍砲兵中将。 すぐ上の兄の井上美暢は陸軍大佐。従兄の田村丕顕は海軍少将。秀二の次男(井上家を継ぐ)で甥の井上秀郎(同墓)は成蹊高校や大学の数学教授。
 宮城県第二中学校を経て、1909.11.19(M42)海軍兵学校卒業(37期・恩賜)。翌年海軍少尉に任官。'11「鞍馬」乗艦し遣英艦隊として欧州回航。 '17.12(T6)「淀」航海長。'19.2欧州駐在のため渡航し、スイス・フランスに駐在。'21米国経由で帰国。'24海軍大学校卒業(甲種22期)。 同期に宇垣纏(中将:20-1-8-18)らがいた。'27.11.1(S2)イタリア駐在武官、'29.8.1命帰朝。同.11.30海軍大佐に昇進。 '30.1.10戦略教官として海軍大学校教官、'32.11.1海軍省軍務局第一課長、'33.9.20出仕、同.11.15練習戦艦「比叡」艦長、'35.8.1横須賀鎮守府参謀長を務め司令長官の米内光政を補佐、同.11.15少将となった。
 '36 二・二六事件の際は青年将校グループを叛乱軍と断定し、即座に海軍陸戦隊を東京に派遣し海軍省の警備につかせるなどの対応をとる。 同.11.16永野修身海軍大臣の特命により、軍令部出仕兼海軍省出仕し、兵科機関科一系問題について約1年間研究し、「4年間の教育期間を維持できるなら一系化を推進すべし」という旨の答申を作成した。 '37.10.20海軍省軍務局長に就任。米内光政海軍大臣、山本五十六(7-特-1-2)海軍次官と共に日独伊三国軍事同盟条約締結に反対する。 '39.10.23支那方面艦隊参謀長 兼 第三艦隊参謀長に就任。同.11.15中将に累進。'40.4.29勲1等旭日大綬章受章。同.9.25「北部仏印進駐反対」進言電報送信。
 '40.10.1航空本部長となり、翌年1月に「新軍備計画論」を及川古志郎海軍大臣に提出し、軍令部の大艦巨砲主義を批判し、航空兵力を重視して海軍の空軍化を主張した(明治の軍備を批判し、これからの時代は飛行機の時代だと空軍化を主張)。 しかし、採り上げられることはなかった。なお、この間、反対阻止していた日独伊三国同盟が調印される。
 '41.8.11第四艦隊司令長官として、旗艦「鹿島」に着任。この時に太平洋戦争が開戦。厄介者扱いをされ激戦地に送り込まれる。 '42ウェーク島攻略作戦、史上初の空母戦の珊瑚海海戦などを指揮したが敗北。同.10.26第43代海軍兵学校長に就任。 敗戦を予感し、卒業生の今後のために普通学(数学、語学等)を軍事学より重視し、その一環として当時陸軍等に「敵性語」とされた英語教育廃止論を断固として退けた。
 '44.8.5米内光政が現役復帰して海軍大臣に就任すると、米内に請われて海軍次官として中央に復帰。海軍省教育局長の高木惣吉海軍少将に密命して終戦工作の研究を指示、 米内を援け早期和平に向けて尽力する。同.11.4艦政本部長を兼ねる。'45.5.1航空本部長を兼ねる。大将進級に関する意見書をたびたび米内海相に提出し自らの大将昇進に反対する。 しかし、5.15海軍大将に昇進。塚原二四三(22-1-76)とともに大日本帝国海軍最後の海軍大将であった。次官を退任して軍事参議官となる。8月の終戦以降は、9月に第五航空艦隊終戦事務査閲官となり、10.10待命、10.15予備。
 敗戦後は横須賀市長井に隠棲し、社会の表面に出ず、自宅で英語塾を開いた。'51料亭「小松」でも英語を教え始める。 当時の仲間や教え子たちからの金銭援助を全て断り、実業界に転身した当時の仲間からの顧問等の誘いも全て断っていた。 そのため、生活は貧窮であったという。'53吐血し、横須賀市立病院に入院、胃潰瘍の手術を受ける。同年、軍人恩給が復活して一応の生活の目処が立ったこともあり英語塾を閉鎖。しかし、軍人恩給だけでも苦しい生活であった。 '64戦後実業界で成功を収めていた深田秀明(兵73期・古鷹商事)が成美を訪ね、「子供(兵学校生徒)が立派に成長して小遣いを持って訪ねて来たのに、それを受け取らぬ親(兵学校長)がどこにいますか」という理由で説得し、金銭援助を受け入れさせることに成功した。 深田は更に成美を自分の会社の顧問にし顧問料を支払えるようにし、井上宅を深田の会社が買い取り、成美夫妻を住み込み管理人として管理料を月々支払うという形式で、死去するまで金銭援助を続けた。
 横須賀市長井の自宅で逝去。享年86歳。功3級。昭和天皇から祭祀料1万5千円が下賜された。没二日後に生前の御遺言のとおり、葬儀は英語塾の教え子である勧明寺の住職にて執り行われた。 葬儀委員長は、海兵37期クラス会幹事の中村一夫少将が務めた。'76.1.31東京の東郷記念館で献花式と追悼会が開催。親せき、海軍関係者、教え子その他合計715名が参列した。

<コンサイス日本人名事典>
<帝国海軍提督総覧>
<江田島日本の海軍教育>
<「井上成美」阿川弘之など>


墓地 墓

*墓石は和型「井上家之墓」。道沿いに向かって小さな洋型「井上成美 ここに眠る」と刻む石碑が建つ。

*多磨霊園の井上家本家の墓は井上家の嫡男となった井上秀二が継いだ。井上成美も結婚後別家を立てたと推察するが、妻が亡くなり娘が嫁いで、戸籍の構成員が成美だけになったので、秀二の戸籍に入ったと思われる。よって、墓所には井上成美と前妻の喜久代、後妻の富士子も眠っている。


【井上成美の5度の反対】
 井上成美の部内評は”切れ者”であった。カミソリの切れではなく、名刀正宗の切れ味である。戦後は沈黙の提督と言われたが、相手や場合によっては”希代の悪口屋”となり、歯に衣きせず直言し、いささかも逡巡することがなかった。 これは果敢な実行の士であり、潔く責任をとる”明治の男”であった。40年の海軍の履歴の中で井上成美は5度、日本もしくは海軍の転機に直面し、いずれもいわゆる「流れ」に生命がけで反対している。 結果において、すべて井上成美の説が正しかったが、それは不幸にして太平洋戦争の敗戦によって証明された。

1. 軍令部の改定を断固反対
 海軍は陸軍にならい、人事と予算の大幅な権限移譲を海軍省に求め、軍令部の権力拡大を計ったものである。この改定案に対して海軍省の課長職にあった井上成美は強硬に反対した。
 海軍大臣の部下でもなく、監督権も及ばず、しかも憲法上の責任は問われない軍令部長に、人事と予算を任せることは、第一に憲法政治の原則に悖(もと)り、第二に専門家集団たる軍令部の独走を許し、果ては戦争につながる危険があると主張。
 当時の軍令部長は皇族の伏見宮博恭王、軍令部次長は高橋三吉、軍令部側の交渉相手は南雲忠一第一班第二課長。当初、井上成美の意見に局長の寺島健、次官の藤田尚徳、大臣の大角岑生は軍令部の提案に反対していたが、伏見宮がこの案が通らなければ部長をやめるという発言で井上成美を説得にまわるようになった。しかし、井上成美は「海軍のため、ひいては日本のためにならぬ」と同案への捺印を拒否。業を煮やした南雲が「貴様なんか殺すのは何でもないんだぞ」と脅迫、これに対して井上成美は「これを見よ」と机から遺書を取り出し冷然と対応した。局長からも同意を求められるも拒絶し「こんな不正が横行するような海軍にはいたくありません」と言い帰宅。
 結局、後任の課長の捺印により、井上成美の反対は挫折した。以後、軍令部をチェックすべき海軍省の力が、制度上からも人事上からも弱体化させられ、果ては軍令部の独走を許し、陸軍と同調して戦争に突入していった。

2. 三国同盟締結への反対
 陸軍が全軍一致で主張し、世論がそれに追従し、海軍の一部が同調した日独伊三国軍事同盟締結に海軍省軍務局長であった井上成美は反対した。この反対は海軍大臣の米内光政、次官の山本五十六も同じである。
 反対には経験による裏付けがあった。21歳の時に「鞍馬」乗組でロンドン、パリ、ローマを訪問。28歳の時には3年間、スイス、ドイツ、フランスに駐在し、帰国の際にアメリカに立ち寄っている。イタリア在勤帝国大使館付武官でローマに二年間滞在した経験もあった。これらの体験から、”目的は手段を正当化する”というドイツの国民性や民度の低いイタリアの国民性を熟知していた反面、イギリスやフランスのノーブレス・オブリージュの気概、アメリカ市民のデューティに対する真摯さ、国土のポテンシャルの高さを肌で感じていた。これら経済的・軍事的・心理的要素の他に、自らの国家観、戦争観に照らして根本的な反対理論を持っていた。
 「自国の生存が脅かされる場合は、たとえ負けると判っていても戦うべきであるが、国策の手段として、他国と組んで戦争を仕掛けるべきではない」。三国軍事同盟条約中にある「自動参戦」の義務条項に対し絶対相容れぬものであった。
 結果、この時は、独ソ不可侵条約の締結もあり、内閣も瓦解し、締結の動きは一応収まった。しかし、一年後、井上・米内・山本の三名が中央からいなくなった時に、日独伊三国軍事同盟が締結調印され、日本は一気に戦争への道を駆けおりることになる。

3. 艦隊決戦思想(大艦巨砲主義)を反対
 支那方面艦隊参謀長を退任し、一年ぶりに海軍省に戻ると、省内は三国軍事同盟締結でドイツと組んでいれば天下何者も恐るるに足らずとする英米軽視の空気が濃厚であった。大臣官邸で催された省部首脳会議の席上、軍令部の提出した第五次海軍軍備充実計画案に対し、アメリカの軍備計画に追従して、各艦隊をアメリカの何割かに持っていくだけの、月並みなものであると酷評、本来軍備とはその国の国情にあった独自の創意溢るるものであるべきだと反対した。
 この会議の一週間後に、「戦艦不要・海軍の空母化」を骨子とした「新軍備計画論」を及川古志郎大臣に提出。海軍軍備計画を根本的に改定することを訴え、更に「日米戦争ノ形態」と題し、きたるべき日米戦争の推移を予測し、アメリカによる海上封鎖の危険性を明言した。これは過去の戦争形態による軍備計画した策定し得ない軍人の通弊を根本から打破しようとしたものである。井上成美は将来の戦争形態、日米戦争の様相を明確に予見し、それに対応出来る独創的な軍備をすべしと断言し、大臣に迫ったのである。
 南部仏印進駐の閣議決定を、事後の会議の席で聞かされた井上成美は、航空戦備ができていない状況で、戦になるかならぬかの重大な問題に簡単に海軍が同意したことに対して、大臣と次官を叱りつけている。二週間後、「海軍航空戦備の現状」と題する意見書を書き上げ配布した。航空機をはじめ関係兵器や生産設備の現状とその充足率、達成期日の予測等を数字を駆使して記述し、「急速対英米戦備のごときは実施全く不可能なり」と記した。
 結果、「新軍備計画論」「海軍航空戦備の現状」ともに、次官室の金庫に眠ったまま無視され、この年の12月に開戦を迎えることになった。井上成美の予言、警告はすべて的中した。

4. 敵性語(英語)廃止の時流に反対
 海軍兵学校校長となり、まず取り掛かったのは、海軍兵学校の教育参考館に掲げられている「先が見えない日本の対米戦争に突入させてしまった国賊と呼びたいような大将たちの写真」を全部はずさせることからであった。そして次に「教育漫語」と名付けた小冊子三冊にまとめた教育方針を教官に配布した。これには兵学校教育はすぐに役立つ丁稚をつくるのではなく、将来大木に育ち得るポテンシャルを持つ学士、ジェントルマンを養成するものであるとするものであった。よって、英語、数学などの普通学を重視した。特に敵性語(英語)廃止の時流に強く反対した。
 「兵学校程度の英語教育は一つの技術修得である。これは感覚を一つ余分に持つだけの利益、例えば肉眼のほかに望遠鏡を持っているぐらいの利益があるのだ。凡そ海軍士官で、マザーランゲージしか話せぬ者は、世界中どこにいっても適用せぬ」として、全生徒に英英辞典を持たせた。
 これに対して、士官搭乗員の急速養成の必要から、兵学校生徒の繰り上げ卒業を強く要求する海軍中枢に対しても反対の意思を示し、軍令部員としての高松宮の申し出に対しては「私は米作りの百姓です。中央でどんなに米が入用か知りませんが、青田を刈ったって米は取れません」と頑なに応じなかった。
 結果、「教育の成果が現れるのは二十年先だよ。井上君」と兵学校を訪れた鈴木貫太郎がいったが、井上成美の教え子たちの戦後の活躍がそれを裏付けている。

5. 戦争終結のための昇進の反対
 '44.8.5米内海軍大臣に強く請われ、兵学校校長を退任し、海軍次官に就任。就任して23日目、井上成美は大臣室の米内に「現在の状況はまことにひどい。私の想像以上で、日本は負けるにきまっている。一日も早く戦をやめる工夫をする必要があります。今からいかにして戦をやめたらいいかの研究を、ごく内密に始めます」と伝え、米内の承諾を得、その研究に高木惣吉教育局長を充てた。「この戦争終結の工作が憲兵に知られれば、大臣も私も高木も殺されますよ。殺されればいいじゃないですか。捨て石になりましょう。それで一つの道が開くんだから」と米内に付言したとされる。
 比島沖海戦に敗れた昭和十九年十月末以来、日本の組織的な戦争は終わった。アメリカの機動部隊による日本本土空襲が始まり、やがてサイパンから発進するB29による本格的日本本土空襲が予想された昭和20年初頭、一刻も早く終戦にしなければならないと井上成美は感じていた。そんな折、海軍大臣の米内に呼ばれ井上成美に対して「大将進級」「大臣就任」を奨めた。しかし、井上成美は断固として反対の意思を伝えた。
 海軍次官は海軍省と軍令部の間に立つ要職であり、終戦工作を密かに行っていた井上成美にとってどちらにも顔が利くポストであった。また、次官職は中将の配置ポストであるため大将になるということは次官を辞めるということも意味していた。「和平か玉砕か、国家が運命の帰路に立たされている時、何故己の片腕とも頼む者を切ろうとするのか」と暗に米内に訴えたという。また、「この戦局に大将を作って何になります。国民に”負け戦、大将だけは、やはり出来”と笑われます」と拒否した。そのままでの訴えでは弱いと思い、「大将進級に就き意見」と題して、米内へ正式に進級反対の意思を表明。翌月の2月にも「当分海軍大将ニ進級中止ノ件追加」を提出。内容はいずれも実名を挙げて具体例で示した直言である。更にここ数年来の大将人事は極めて遺憾であるとし、そうした人事によって大将になった人物が海軍大臣の要職を占めたことが開戦につながったとして、特に永野修身の戦争指導失敗には「誠に驚くべき良心の不感症」と責め、反省の動機を与えよとまで進言している。
 4月1日の大将進級は一応取り止められたが、三度目の反対意見提出も空しく、5月15日に強引に大将に進級させられ次官を退官させられた。米内から「大将の件、陛下が御裁可になった」と伝えられ、井上成美自身も陛下からでは仕方がないと受け入れたという。井上の昇進反対が覆されたことには幾つか諸説がある。この頃には、米内・井上・高木の他に、重臣の岡田啓介(9-1-9-3)、鈴木貫太郎、東郷茂徳らも和平指向であり、これら和平派の考えの線に天皇の意志も決まったことで、井上成美を次官職のままにしておく必要がなくなった節や、テロやクーデターにより米内が殺された場合を想定し井上成美を安全な軍事参技官のポストにつけ継がせようとした節などある。戦後、井上成美は「五月に終戦のチャンスはあった。もちろん、米内と私が殺されるほどの事はあったろうが」と語っていることから、井上成美は一日も早く戦争終結を望んでいた。一方、同じ和平派は国体護持(天皇制維持)を前提とする和平を考えており、「国民の生命以外、守るべきものは何もない」と考える井上成美との間に妥協出来ない溝があったことは事実である。その温度差による大将昇進としての左遷節も否定できない。

<帝国海軍提督総覧>
<日本陸海軍航空隊総覧など>


【井上成美の家族】
 井上成美の長兄の井上秀二の妻である たま。母親を早くに亡くした成美にとって、たまは母代りでもあった。そのたまの妹の夫が大平善市(陸軍中将:6-1-5-15)であり、大平と陸士同期(士官候補生9期)で親友であった阿部信行(陸軍大将・首相)との交流もあった。この縁から、阿部信行の妻の光子の妹である原喜久代と井上成美は、'17.1(T6)結婚。よって、井上成美にとって、喜久代の長姉の夫の阿部信行、次姉の夫の関寿雄陸軍大佐、妹の夫の大石堅四郎海軍大佐は義理の兄弟の関係となる。
 '19長女の●(悄楔)子(しずこ) 誕生。'32.11妻の喜久代が結核で亡くなる。'39.10娘が丸田吉人海軍軍医大尉と結婚。'40.12孫の丸田研一が誕生。'44.10娘の夫、丸田吉人海軍軍医少佐が比島沖海戦で戦死。'48.10娘も結核で亡くなる。英語塾を営みながら孫の研一を育てるが、貧窮であったため丸田家に引き取られる。独り身になる。
 '53秋に田原富士子と再婚。富士子は埼玉出身で医師の娘。田原某と結婚するも死別、花柳流日本舞踊の名取。成美の10歳年下であり、再婚時は53歳。'51.12「ギターを弾く老提督」という記事が『東京タイムズ』に掲載された。富士子はこれを読み、高潔な人格に敬服し、貧窮に苦しむ成美に援助の手を差し伸べたいと考え、翌年東京タイムズの紹介で横須賀市長井に移住、成美の兄の秀二の別荘を借り住み始め成美と交際を深めた。'53成美が胃潰瘍による吐血をした際に、医師の娘である富士子が応急処置、医師への連絡を行い、入院中も献身的に世話をした。退院後、軍人恩給も復活したことにより再婚を固めた。再婚後も富士子は成美の看護、身の回りの世話を続けた。成美が没した翌年の'77.6.16富士子も後を追うように死去。なお、孫の丸田研一は『わが祖父 井上成美』(1987)を刊行している。

<有名人の晩年と死など>


*隠棲した横須賀市長井の旧宅が現在は井上成美記念館となっている(予約制)。2012年2月現在、昨年の震災の影響もあり休館中。運営詳細は「株式会社リゾート・コンベンション企画」のHPにて確認してください。



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