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おおだいら ぜんいち

大平善市

おおだいら ぜんいち

1877.5.31(明治10)〜 1928.5.28(昭和3)

明治・大正・昭和期の陸軍軍人(中将)

埋葬場所: 6区 1種 5側 15番

 広島県福山深津町(福山市宝町)出身。父は歩横目の大平儀右衛門。長兄の大平要太郎は初代福山市議会議長を務めた。三兄の大平駒槌は住友支配人や満鉄副総裁、貴族院議員、枢密顧問官を歴任した人物。上の兄の大平彦市は海軍軍医大佐で福山病院長を務めた医者。
 尋常中学福山誠之館、陸士候補生を経て、1897.11.29(M30)陸軍士官学校(9期)卒業。同期に大将に昇進した者が6名おり、阿部信行・真崎甚三郎・松井石根・荒木貞夫(8-1-17)・林仙之(7-1-5)・本庄繁(13-1-4)である。他に大村齊(後に中将:21-2-19)、武川寿輔(後に少将:15-1-15)、風船爆弾考案者の近藤至誠(8-1-15)らがいる。 翌年、陸軍砲兵少尉に任官し、下関要塞砲兵連隊付となる。
 1899.1.28陸軍戸山学校修了。翌年、陸軍砲工学校に入る。1902.2.26陸軍要塞砲兵射撃学校卒業し、下関要塞副官となる。'03澎湖島要塞副官を経て、陸軍大学校に入校して、陸軍砲兵大尉となり下関要塞砲兵中隊長となった翌年、動員令は発令され、日露戦争のために変則で、一端陸軍大学校を中退、'04.7.4門司出帆、'05.1.1旅順攻圍戦、同.1.9旅順要塞司令部部員から、同.4.26旅順要塞司令部副官となり、同.5.15永興湾要塞副官戦時指揮官参謀に抜擢、同.10.16平和詔勅発布され、'06.3.2永興湾要塞副官被免となり、3.20より陸軍大学校復校のため復学、'08.11.30陸軍大学校卒業(20期)。同期に齋藤義夫(中将:7-2-32)、馬淵直逸(中将:3-1-3-10)らがいる。陸軍砲兵少佐となり陸軍重砲兵兵監部部員に補される。
 '09.5.13第1、第2、第13師団特命検閲職員被仰付、'10陸軍技術審査部御用掛を兼務、野戦砲兵操典改正審査員、第4、第18師団特命検閲使職員被仰付、重砲操典改正案審査員と一年間で目まぐるしくポストが代わり、'13.6.4(T2)軍事研究のためフランス駐在。'15.7.9重砲兵第6連隊附、'16.4.1重砲兵監部部員、同.5.23技術審査部議員を兼補して、'17.5.2陸軍重砲兵射撃学校教官となる。'18.6.1陸軍重砲兵射撃学校教育部長、同.7.24陸軍野砲兵第11連隊長、'19.1.15 陸軍砲兵大佐に昇進し、同.12.1陸軍東京湾重砲連隊長、'20.12.1陸軍横須賀重砲連隊長を歴任した。'23.8.6陸軍少将に累進し、広島湾要塞司令官兼藝豫要塞司令官となる。同.12.5正5位。
 '24.1.18フランス在勤帝国大使館附陸軍武官、フランス駐在員取締に就任。同.1.30平和条約実施委員を務め、'26.3.2陸軍野戦重砲兵第2旅団長となった。'28.3.8(S3)陸軍中将に昇格したと同時に待命、同.3.29予備。その二か月後に逝去。享年50歳。

<帝国海軍提督総覧>
<日本陸軍将官総覧など>


*最初、正墓である広島県福山市北吉津町の観音寺に葬られるが、後に多摩霊園にも分骨される。

*妻の姉が嫁いだのは土木技術者の井上秀二(21-1-3-18)である。秀二の弟は海軍大将の井上成美(21-1-3-18)である。


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