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さいとう よしお

齋藤義夫

さいとう よしお

1878.6(明治11)〜 1932.6.24(昭和7)

明治・大正・昭和期の陸軍軍人(中将)

埋葬場所: 7区 2種 32側

 東京出身。長州藩兵から陸軍中将となった齋藤太郎の次男。1898.11.25(M31)陸軍士官学校卒業(10期)。同期に松木直亮(後に大将 :10-1-4-19)、西義一(後に大将:11-1-20)、川田明治(後に中将:22-1-79)、村瀬文雄(後に中将:22-1-81)、長尾穂次(後に少将:26-1-37)、本庄庸三(後に少将:13-1-25)、水町竹三(後に少将:13-1-6)らがいた。1899.6.27 歩兵少尉に任官。
 日露戦争には第1軍第2師団歩兵第16連隊中隊長として出征。なお、父の齋藤太郎も日露戦争時では歩兵第14旅団長として出征し、旅順攻囲戦では第1師団と協同し203高地攻略で軍功を挙げた。
 '08.11.30陸軍大学校卒業(20期)。 同期に陸士同期であった川田明治の他に、林仙之(後に大将:7-1-5)、大平善市(後に中将:6-1-5-15)、馬渕直逸(後に中将:-1-3-10)らがいた。その後、様々な要職を歴任し、'19.4.15(T8)大佐に昇進。同.7.25 歩兵第60連隊長に着任。'21.6.3 臨時ハルピン派遣軍参謀長を経て、'23.8.6 少将に昇格し、歩兵第24旅団長に就任。'25中国動乱には満州派遣混成第1旅団長として派遣される。'26.3.2 第14師団留守隊司令官を務めた。'28.8.10(S3)中将に累進し待命、同.8.29 予備役となった。功4級。享年54歳。

<帝国陸軍将軍総覧>
<20世紀日本人名事典>
<講談社日本人名大辞典>


墓所

*墓石は和型「齋藤家墓」。左面が墓誌となっており、齋藤義夫の刻みから始まる。妻はスミ(S44.8.14歿)。スミの父は陸軍中将・男爵の宇佐川一正。同墓には長女の登美子(S41.3.20歿)、長男の義弘(S44.9.15歿)、純一(R1.7.26歿)が刻む。墓所右側に墓誌があり河合真雄(H19.11.25歿)が刻む。


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