福島県安積郡福良村(郡山市湖南町福良)出身。旧会津藩士で県会議員を務めた武川定八の長男。
安積中学校(安積高校)を経て、1897.11.29(M30)陸軍士官学校(9期)卒業。同期に大将に昇進した者が6名おり、阿部信行・真崎甚三郎・松井石根・荒木貞夫(8-1-17)・林仙之(7-1-5)・本庄繁(13-1-4)である。他に大平善市(後に中将:6-1-5-15)、大村齊(後に中将:21-2-19)、風船爆弾考案者の近藤至誠(8-1-15)らがいる。翌.6.27 歩兵少尉に任官。
1901.10 陸軍大学校に進み、在学中に日露戦争に従軍。旅順攻囲戦の203高地の攻防戦で重傷を負う。'06.11.28陸軍大学校(18期)卒業。同期に川瀬亨(後の陸軍中将:8-1-7-9)、壬生基義(後に少将、公家:21-1-12-10)らがいた。
第13師団、東京衛戍総督部の各参謀を務め、'19.7.25(T8)大佐に昇進し、本郷連合区司令官となる。'21.4.20歩兵第3連隊連隊長、'22.8.15第20師団参謀長を経て、'23.8.6少将に累進し、歩兵第39旅団長に就任した。'24.2.4待命、同.3.25予備役となる。
その後、小西重直らの推薦を受け、赤穂中学校長に就任した。赤穂藩に流刑された山鹿素行と同郷という縁から、赤穂義士会会長も務めた。このことから、赤穂城内には武川寿輔の頌徳碑が建立されている。「やれば出来る。我に力あり」が口癖であったとされる。享年61歳。
主な著書に、『歩兵野外必携』('08)、『軍人精神修養訓』('09)がある。没後、『軍人勅諭訓話資料』('42)、'89(H1)武川先生顕彰実行委員会が没後50年に『日露戦争の思い出』『武川先生の教育と思い出』を刊行された。
*墓石は和型「武川家之墓」、裏面「昭和十四年九月二十四日建之」。左に五輪塔が建つ。正面「武川家先祖代々霊位」、右面「郡山市湖南町福良(旧会津領福良村)長泉寺墓地」、裏面「平成十一年(1999)五月吉日 寿輔五男 武川元紀 建之」。
*右側に墓誌が建つ。武川寿輔から刻みが始まる。戒名は德壽院殿義貫忠心大居士。三女の玉子(行年24才)、四男でハルピンにて戦病死した明(行年37才)、継母の壽美、長男の武川太郎(S61.8.12歿・行年80才)、豊の妻の慶子、弟の武川豊(H4.1.14歿・行年90才)、三男の邦彦の次男(五男の元紀の養子)の尚道、豊の長男の靖、五男の武川元紀(H25.4.4歿・行年95才)、元紀の妻の美栄子、元の妻の美喜子が刻む。