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みぶ もとよし

壬生基義

みぶ もとよし

1872(明治5)〜 1936(昭和11)

明治・大正・昭和期の公家、
陸軍軍人(少将)、伯爵

埋葬場所: 21区 1種 12側 10番

 先祖は藤原北家持明院流。園基音の末子・基起を祖とし、江戸時代初期に創立。父の壬生基修は幕末期の七卿落の一人。 新政府で参与となり戊辰戦争では会津征討軍の参謀をつとめ功をなした。また越後府知事、東京府知事をつとめ元老院議員となる。 (基義と同墓なのかは調査中)《M17.7.8子爵からM24.4.23陞爵(伯爵)授爵》
 1896.5.27(M29)陸軍士官学校卒業(7期)。同期に緒方勝一(後の大将:4-1-31)、畑英太郎(後の大将:6-1-16-3)、河西惟一(後の中将:16-1-17-55)、川瀬亨(後の陸軍中将:8-1-7-9)、二子石官太郎(後の中将:17-1-10)、大竹澤治(後の少将:2-1-4-14)、中村安喜(後の少将:7-1-2-14)、羽入三郎(後の少将:3-1-3)らがいる。1897.1.25歩兵少尉任官。陸軍大学校卒業(18期)。同期に武川寿輔(後の少将)らがいた。陸軍では騎兵隊に属す。
 1906.3.5父没に伴い家督を継承し伯爵を授爵し壬生家当主となる。また、同.10.28久邇宮朝彦親王の第八女子の篶子(すずこ)と結婚し、皇族と親戚関係となった。
 1911.10.3(T1)東宮武官となり、'18.7.24大佐に進み、'21.11.25侍従武官を務めた。'22.8.18少将に進級し、近衛師団司令部附。'23.3.17待命、同.3.30予備となった。正3位 勲3等。享年63歳。

<帝国陸軍将軍総覧>
<日本の名門1000家>


*墓は土饅頭型。基義が埋葬されているということは確実であるが、その他の人物が埋葬されているかに関しては、調査中である。

*青山霊園から改葬。

*篶子との間に1男4女を儲ける。長女の寿子は2歳で早死。次女の綾子は子爵の池田政鋹に嫁ぐが27歳の若さで没す。三女の良子も1歳で早死。四女の種子は副島種義に嫁ぐ。長男の壬生基泰(1909-1979)は陸軍大尉。'36(S11)父の基義の没に伴い家督を継承し伯爵を授爵し壬生家当主となる。以後は、'47華族制度廃止まで貴族院議員として活動した。渋沢正雄の娘の博子を結婚するも28歳の若さで亡くなる。後妻に三好英之の娘の淑子を後妻するが子に恵まれなかったため、基博を養子とした。

*壬生基博(1949-)は昭和天皇の孫である。昭和天皇と香淳皇后の第一皇女・成子(しげこ)内親王と東久邇宮稔彦王の長男の盛厚との間に二男として生まれた。両親は二年前('47)に新皇室典範第13条に基づき皇籍離脱をしている。初名は秀彦。基博の妻の幸子の父は第一ホテル社長の土屋計雄(16-1-1)。'72慶應大学商学部卒業後、日本航空に入社し、ロンドン支店などに勤務。'86義父が会長を務めていた第一ホテルの取締役となり、'92(H4)代表取締役副社長に就任。2000森ビル株式会社に入社、2002同社取締役 兼 森アーツセンター副理事長を務めた。2011同社取締役常務執行役員、2015特別顧問。同.6.12山階鳥類研究所の理事長に就任した。


*壬生基義の前妻は壬生総子(みぶもとこ)。
 陸軍編修の横井忠直の長女として生まれる。1897(M30)4月24日に壬生基義に嫁ぐが、翌年の6月7日に没した。 青山墓地に葬られたが多磨霊園に改葬。

<明治過去帳>


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