新潟県出身。1896.5.27(M29)陸軍士官学校卒業(7期)。同期に緒方勝一(後の大将:4-1-31)、畑英太郎(後の大将:6-1-16-3)、河西惟一(後の中将:16-1-17-55)、川瀬亨(後の陸軍中将:8-1-7-9)、二子石官太郎(後の中将:17-1-10)、中村安喜(後の少将:7-1-2-14)、羽入三郎(後の少将:3-1-3)、壬生基義(後の少将、伯爵:21-1-12-10)らがいる。1897.1.25歩兵少尉任官。1902.11.28陸軍大学校卒業・恩賜(16期)。同期に久邇宮邦彦王や河西惟一、木村戒自(後の中将:7-2-32)、村岡長太郎(後の中将:7-1-1-1)らがいた。
日露戦争では大尉として、田中義一(6-1-16-14)と満州軍作戦参謀('04.6.20-9.30)、第十三師団参謀などを務めた。戦後は、ドイツ駐在などを経て、'13.8.22(T3)参謀部員。
'16.4.1大佐に進み、参謀附、同.5.2参謀欧米課長に就任した。'17.8.6歩兵第三十八連隊長を経て、'18.7.16参謀作戦課長を歴任。'20.8.10少将に昇進し、参謀附。
'21.1.14国際連盟陸軍代表随員、'22.2.8参謀本部第一部長となった。陸軍内で非常な逸材といわれ将来を期待されていたが、病気の為、'23.6.5待命、同.7.1予備。同月に急逝。享年48歳。
【小磯国昭の自伝『葛山鴻爪』内での逸話】
1920(T9)大竹澤治(当時大佐)、小磯国昭(当時少佐)、阿南惟幾(当時大尉)の3人が師団対抗演習の準備のため東北を回っていたある日、酒田駅に着いた時の話。
下っ端の阿南が明日の切符を買っている間に、二人は宿屋を探した。良さそうな宿屋を見つけ、小磯が交渉に入ろうとした時に大竹が、「おい小磯、待て待て、貴公の顔じゃ宿屋が上げないよ」と言った。
小磯は内心「あなたより物騒じゃありませんよ」と思ったが、口には出せないので、「戯談をいっちゃいけませんよ」と言い、宿屋に入った。しかし、大竹の言った通り、宿屋は満室だと宿泊を断られて戻ってきた。
大竹は「小磯、それ見ろ、いはんこっちやないじゃないか」と嬉しそうに笑った。そこに切符を買い終え追いついた阿南が「どうしたんです?」と聞いてきたので、小磯は「此の宿はいっぱいで泊められないといふんだよ」と答えた。
それを聞いた阿南は、その宿屋に入り「他に良い宿屋があったら教へて下さい」と頼んだ。すると、宿主は若く眉目秀麗な阿南に、小磯の時と手のひらを返したような好意を抱いた対応。
小磯に満室と断った手前、今更泊められるとは言えず、結局他の宿を案内してくれた。こうして一行は、其の晩、無事に宿泊することが出来た。その後、一切の投宿交渉は、阿南に一任されたそうだ。
大竹は後に総理大臣を務める小磯や、太平洋戦争終戦時の陸軍大臣の阿南を部下に従えていた貴重なエピソードである。