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かさい これいち

河西惟一

かさい これいち

1875.2.16(明治8)〜 1938.11.7(昭和13)

明治・大正期の陸軍軍人(中将)

埋葬場所: 16区 1種 17側 55番

 長野県出身。1896.5.27(M29)陸軍士官学校卒業(7期)。同期に緒方勝一(後の大将:4-1-31)、畑英太郎(後の大将:6-1-16-3)、川瀬亨(後の陸軍中将:8-1-7-9)、二子石官太郎(後の中将:17-1-10)、大竹澤治(後の少将:2-1-4-14)、中村安喜(後の少将:7-1-2-14)、羽入三郎(後の少将:3-1-3)、壬生基義(後の少将、伯爵:21-1-12-10)らがいる。 1897.1.25歩兵少尉任官。1902.11.28陸軍大学校卒業(16期)。同期に久邇宮邦彦王や木村戒自(後の中将:7-2-32)、村岡長太郎(後の中将:7-1-1-1)、大竹澤治(後の少将:2-1-4-14)らがいた。
 '04日露戦争では歩兵大尉として旅順攻略作戦に参加。途中、病気加療のため帰国が決まった磯村参謀の後任として、副官を務めていた河西が兵站(へいたん:後方部隊)担当参謀に横滑りで大抜擢された。戦後は様々な要職を経て、'16.8.18(T5)歩兵大佐に昇進し、陸軍省人事局補任課長に就任。
 '18.7.24歩兵第33連隊長を務め、'20.8.10少将に累進し、歩兵第8旅団長に就任。'23.3.17陸軍士官学校予科長、'24.8.20教育総監部附を歴任し、同.12.15中将となり待命、同.12.20予備となった。正4位 勲2等 功4級。退役後に、'30(S5)『皇國の光』、'32『満洲国移住指針』を著している。享年63歳。

<帝国陸軍将軍総覧>
<日本陸軍将官総覧>


墓所

*墓所には計6基の大小和型墓石が建つ。河西惟一の墓石のみ唯一左手側に建つ。墓石は和型「陸軍中将河西惟一墓」。左面に没年月日と、妻の春野の没年月日が刻む。 その他の墓所は、墓所正面に5基。真ん中に「河西家之墓」。左端から「陸軍中尉河西三郎之墓」(S19.1.4ニューブリテン島にて戦死。享年29才)。 「河西太郎 / 妻 冨美 之墓」。「河西家之墓」の右面が墓誌で、河西和泉(H17.1.27歿・75才)・河西幸枝(H2.2.10歿・57才)の二名が刻む。「河西貞子 墓」。「河西都気子之墓」。


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